「サンジのおじちゃーん」
「おじさんじゃねェ、お兄様だ、チビっ鼻」
転がるように駆けてきた子どもを救い上げ、肩に乗せてサンジは鼻を鳴らした。
父親にそっくりな顔を見るたびに、母親の美形遺伝子は何処へ消えてしまったのだろうと不思議に思うのだが、これはこれで味のある顔なので良しとしている。
「三十超えたらおじさんだってさ、父ちゃんが」
「あんの長っ鼻……!自分がギリ二十代だからって卑怯臭ェ事教えやがって」
サンジは煙草のフィルターを噛み潰すと、ぺっと吐き出した。
まだ柔らかな皮膚を持つ子どもの前で吸うほど飢えてはいない。
「良く聞け。俺はノースブルーのプリンス海から来たビューティープリンスだから、テメェら凡人と違って歳ィ取らねェんだ」
「この目じりの皺は?」
「良く聞けよこのクソガキが。見て見ぬ振りを覚えなきゃあ大人にゃなれねェんだぞ。レディに言ったら裁判省略で絞首刑だ」
「ふーん」
「流すんじゃねェ!」
サンジの肩の上で足をぶらぶらとさせている子どもは、色褪せかけてきた金髪を握り締めて、サンジと同じように目の前の海を見詰めた。
空と海の青と蒼と、足元の碧。
ここの景色はとてもシンプルで。その他には何も存在しては行けないんじゃないかと思うくらいにシンプルで。
寂しくなってきたので、サンジの髪を引っ張って家に入るように促した。
+++ +++ +++
ゾロの足取りは、もう随分と前に掴めていた。
ここの隣にある島で、鷹の目と遭遇。一日後、鷹の目は島を出たらしい。
後になってクルーは半狂乱になって探したが、一年もかけた島中の捜索の後、見つかったのは折れた雪走の破片と、鬼徹を握った腕の骨だった。
それでも首が出たわけではないと、船長が号令をかけもう半年探した。けれど、約束が果たされなかったのが、一番絶望的な証明だと、誰もが気付いていた。
きっと、大丈夫、とか。
殺しても死なない、とか。
そんな綺麗な言葉では騙されないくらい、年月は経ってしまって。もう幼くはなくて。
ひとつしかないベッドに子どもを寝かしつけて、大人たちは月明かりに光る床に座り込む。
手土産の酒を、ひとつしかないグラスと代用のティーカップにどぼどぼと注いで、ウソップは再会の乾杯を促した。
「いやァ何がすげぇって、その長さだよ長さ!」
「オメェの鼻の方がすげぇよ」
いつものように他愛無い話を、子どもが起きないように少し抑えた声で話す。
それに相槌を打って、時には突っ込んで、サンジはけたけたと笑った。
ふと、話の切れ目に、酔ったせいからしくない言葉が落ちる。
「……ガキは良いなぁ。何か俺さ、最近ジジイの気持ちがわかってきたよ」
「おう、良いぞ。特に自分の子どもはな。なんかもう、無条件でな、全肯定だ」
「親馬鹿」
「うるせぇ。皆こんなモンだ」
「俺もなァ……ナミさんが振り向いてくれればなァ」
ぼんやりと、サンジは呟いた。ハート型ではない目で。
ウソップはティーカップからちびりちびりと舐めながら、気取った顔をして頷く。
「今からでも遅くねえぞ。まだフリーだ」
「ルフィは?」
「アイツは肉を生涯の恋人にするんじゃねぇか?ナミも良くガマンしてるよ」
「若いねえ……」
サンジはグラスを呷ると、気だるい息を吐いた。
いつもの煙草が定位置にないためか、それは本当に、只の溜息だった。
少しばかりの沈黙をはさんだ後、ウソップがぽつりと言う。
「お前だって若いさ」
「俺?」
「まだ待ってる」
「あー……そうだなァ。若さが馬鹿だって言うなら、若いな」
ぱたり、と頭の後ろで腕を組んで、サンジは床に倒れた。
そのままあーとかうーとか唸りながら、月明かりの床の上をごろごろと転げる。
その様は若いというより、幼かった。
「……待ってる、っつーんじゃねえ筈なんだわ。来ねえのは知ってるからよ。じゃあ何でこんなトコにいるって、いやもう笑える話なんだけどさ」
酔っているな。とウソップは思った。
もしくは、酔った振りをしている。それくらいにはずるくなったかもしれない。
サンジもウソップも、色々な経験をしてきたので。
「意地張ってんだよ。俺がさ、どんだけの覚悟であんな馬鹿な話に乗ったのか、それを思い知らせてやりたくて」
いや、思い知るも何も、果たされなかったら意味ないんだけどよ。
ぼんやりと中空を見詰める青い目を、ウソップは眺めた。
「この俺が──アイツに、少しでも、何かしてやるなんて、よォ」
仲が悪かった。相容れない境界線、このスタンスは譲れなかった。
くだらない意地、それすら既にアイデンティティだったのだろう。
「死ぬ前で、誕生日でもなかったら、無理だったかもしんねェなァ。や、アイツは忘れてたみてェだけど、あの日はアイツの誕生日だったんだよ。ていうか日付ごと忘れてるんじゃなきゃ忘れらんねェよな、あんな頭の沸いたような誕生日」
いーちいちいちいち、と蝉のように鳴いて、サンジはぱたりと体を返した。
グラスを引き寄せ、うつぶせに横たわったまま酒を注ぐ。その手つきは、何気ないようでウソップには真似できない。
「だから一年って切った。わざわざ、期限付けた。そうじゃねえと、サービスし過ぎるからなァ」
いや、ホントはサービス過剰ってくらいしてやってるけど、アイツは知らねェだろうから問題ねェ。
矛盾したことを言いながら、ははは、と声だけの笑い。
「オイ、勘違いするんじゃねえぞ。俺はあんな刀馬鹿なんて大嫌いだったよ。てか今も嫌いだ」
ぎらり、と。敵を見るような目つきで眼差しを尖らせる。
互いに寄りかかることのなかった、あの時のように──サンジはそう思ったけれど、瞼は勝手に閉じてしまった。
ウソップの手のひらが伸びてきて、目を覆ったから。
「でもよ。アイツが、あの男が、だぞ?この俺に、俺にさ……覚悟決めた後、冗談みてェに紛らせてさ、そんな卑怯な真似までして……や、そうでもなきゃ言えなかったんだろうって」
なんでそんな気持ちだけこんなにわかっちまうんだよ。
「……わかるか。なあ、わかるか。この俺がさァ」
震える声。
赤い靴を履く料理人が。いつも不敵に笑って、余裕顔を崩さない──強い、強い筈の、男が。
「熟睡出来た試しがねえ。ずっと──ずっとだ」
何故、港に面したカフェレストランを選んだか。
ガラス張りの向こうの人々の雑踏を、何故いつも視界の端でとらえるのか。
「一日中窓際に居て、あの場所が見えるトコにベッド置いて、もしかしたら今この瞬間に、来てるかも知れねえって、夜中に目が覚める」
ウソップは言葉を挟まなかった。
只の影になろうと思った。
「そんで、何もないのを確認する。でも不安なんだ。もう、アイツは来てしまった後なんじゃないかって、俺が、見逃してしまったんじゃないかって」
知っていたか、ゾロ。
ウソップは心の中で問いかける。
「あそこに寝袋持ってった事だってあるんだぜ、俺って、馬鹿」
「……なんて女々しい」
震える瞼。
「死んでるってわかってる。死んでるって、俺はちゃんと思ってる筈なんだよ。でもどうしても──もしかしたら、って」
サンジは待ちぼうけになると、わかっていたのだ。
その覚悟で、約束をした。
後悔させてやるつもりだったのかもしれない。守れぬ誓いをさせることで。
その意味で、サンジは余程残酷だった。
けれど。
それでも──もしかしたら、と。
そう思ってしまって、律儀に自分の仕掛けた嫌がらせを守ってしまっている、この矛盾した複雑ないきものを誰が憎めるというのか。
そうウソップは思った。
「……約束は守る奴だから」
目を閉じて、広い背中の後姿に問いかける。
知っていたのか。
誰が一番、お前のことを信じていたかを。
ウソップは、なるべく普通の声で、囁きかけた。
どうにも嫌な役回りだが、自分がこなすべきだろう。
「今日で丁度、十年目だ……俺が知ってる話じゃ、いなくなって丁度十年目に帰ってきた男ってのがいる。ホントだぜ」
「…………」
「でも……それ以上は知らねえんだ。今夜現れなかったら。もう行こうぜ、サンジ」
卑怯な言い方だ。ウソップは自覚している。
そんなに、まるで魔法、都合の良い御伽噺のように、願ったものが降ってきたら、それは奇跡だ。
だから、こんな風に言うのは只のトリックだと、わかっている。時間を区切った自分ではなく、間に合わなかった方が悪いのだと。
けれど、こんな子供だましの言い訳でもないとこの場を動けないだろう不器用な男に、幸せになってもらいたかった。
そしてウソップ自身、こう言えばあの男が現れるんじゃないかと、少しだけ思ってしまったからだ。
ウソップは、月の光に揺れる草原を見た。サンジが今までずっとしてきたように、呼吸すらひそめて、耳を澄まして、静かに。
それは、本当に本当に純粋な祈りだった。
勿論、夜は普通に明けた。
普通に、十年が過ぎたように。