サンジは、空になった葡萄酒樽を担いで、店の裏に出た。
壁に沿って一列に並んでいる他の空樽の上にそれを並べ、今度は倉庫の中から中身の詰まった樽を引き摺り出す。
ずっしりと腰に来る重みを感じながら、自分も歳かなぁ、なんて思ったりした。
裏口の扉を押してカウンターの中に戻る。ふと、店内の雰囲気が違うことに気付いた。
軽い高揚感と焦燥感と、緊張の混じった空気。昼下がり、気だるい雰囲気でアルコールを呷りながらのんびり寛いでいた筈の男達の視線が、ちらりちらりと一箇所に集まっている。
その行方を追って、サンジは眼球を動かした。
「…………」
程なく、見事な脚線美に辿り着く。
そろりそろりと上を見てみれば、そこには見慣れた──けれどしばらく見ていなかった、サンジの好きな顔があった。
「……ナミさん」
間抜けな声が口から出て、しまった、と思い溜息を吐く。
蜜柑色の髪の、文句のつけようのない好い女は、サンジの知らなかったバリエーションの表情を浮かべて、ひらひらと手を振った。
+++ +++ +++
「良いの?店の方は」
「ああ……昼だけなんだよ。もうすぐ交代の時間だったから、大丈夫だ」
そう、とナミは頷いて、港を一度だけ振り返った。
小さいこの島の、メインストリートに面した小さな店。元バラティエ副料理長が働くには、少しそぐわないと思ってしまう。
それは単なる彼女の我侭かもしれないけれど。
「ルフィは?」
「今はグランドラインの丁度反対側よ。この前電伝虫で話したわ……私はもうちょっとしたら合流するつもりだけど」
さりげなく落とされた言葉に、僅かに感傷を誘われる。
色々な事があった。
「サンジ君は?」
「そうだなァ……もう少ししたら」
もう少ししたら、ね、とナミは繰り返した。言葉が風に流される前に。
サンジの住まいは丘の上にある。海が見える見晴らしの良い場所で、けれど他には何もない為にその家は少し寂しげに見えた。
鍵もついていないらしい。
そのまま薄いドアを開いて中に入るサンジに続いて、ナミは部屋の中に足を踏み入れた。
見回して、軽い落胆。
「……こんなことだろうと思ってたわ」
その部屋には、窓際にテーブルとチェアのセット、そしてベッドがある他は、殆ど何もなかった。
小さいクローゼットと、食器棚と、小奇麗なキッチン。窓にカーテンすらついていないのを見て、ナミは溜息を吐いた。
「何よこの仙人生活?」
サンジは苦笑して、ナミにひとつしかない椅子を勧めるとキッチンに立った。
汲み置きの水を薬缶に移し、火にかける。
「いや、案外物はいらないんだ。だって海に居たらこれくらいでも豪華だろ?個人スペースがこんなにある」
「ここは陸だけど?」
「でも他に必要なものなんてないし」
ナミは薄いガラスの向こうの景色に目をやった。
広がる草原と、その向こうに貼り付いたような空と海。碧と青と蒼しかここには色がない。
──他に必要なものなんて、か。
ナミは少し意外だったのだ。ゾロが約束を破ったことも、サンジがここまで馬鹿だったことも。
それから、少し沈黙が落ちた。
クルーが見たら、こんな風にナミと自然に居るサンジに少々違和感を感じたかもしれないが、2人きりの時はいつもハートマークは引っ込んでいた。
いくらなんでも常時接続の鬱陶しさなぞナミに我慢できるものではないし、サンジだってそんなに大人げない男ではなかったから。
しゅんしゅん、と蒸気が薬缶を鳴らす軽い音が静寂を破った。
サンジの淹れてくれる紅茶の美味しさはナミを上機嫌にさせる筈なので、その前に彼女には言いたいことがあった。
「……何で、待っているの?」
かちり、と火を止める音。
ナミは景色を見据えながら、キッチンの気配を探っていた。別に、ちらりとも動揺の気配なんて見せないことは知っているけれど。
「言いたくないけど、言わせて貰うわよ」
「ごめんね、ナミさん」
サンジはやわらかく言葉を遮った。
「もう、知ってるんだ」
何を、とナミは咄嗟に言えなかった。
振り向いて、そこにある達観した目なんか見たくなかった。
ティータイムのついでに、こんな話が出来てしまうくらい、自然な姿は。
「アイツ、帰ってくる気なんかなかった」
かたりと音がしそうなほど、丁寧に落とされた音に、何故か肩の力が抜ける。
サンジとゾロは、お世辞にも仲良くはなかった。
いつも角突合せて、くだらないことで甲板を突き破り、お互い気に入らないと罵言を飛ばしあう。そんな関係。
年長者で、他のクルーに対しては大人ぶったところがあるくせに、この二人は相手にだけ子どものように意地を張った。
それは、一見殺伐としていたけれど乾燥した関係ではなかったように思うので、ゾロとサンジの喧嘩すらGM号の日常として受けれいれられていたけれど。
だから、ゾロがサンジに約束を残したとき、ナミは思ったのだ。
ようやく素直になったのかと。でも、違った。
サンジは何の感動もなく、こう断定して見せるのだから。
「全然、鷹の目に勝つ自信なんてなかったんだ。アイツは」
近くの島に大剣豪が居る。そう聞いたとき、ゾロは迷いもせずに立ち上がった。
その微動だにしない真っ直ぐな目と、広い背中をナミは覚えている。ついて来る事すら誰にも許さなかった──かける言葉もないくらいに、固い意志で。
「……なんでそう思うの?」
口には出さないけれど、信頼し合っていると思っていた。
だから、サンジに約束を残したのだと。
サンジは、薄い笑い声を立てた。
「じゃなかったら俺にあんな事言うわけがない」
ねえナミさん、と。ナミに対してはいつでも変わらない優しい音が続ける。
カップに注いだお湯を捨てる音すら、粗雑ではない。
「俺が一年待っててやるって言った時ね」
思い出す声音が、優しいのに酷く冷たく聞こえた。
彼にとってそれが既に過去ならば、何故ここに居るのだろう。
「アイツちょっと驚いた顔したんだよ。その後すぐ後悔した……それがわかった」
サンジが、まさかイエスというとは思っていなかったのだろう。
いつものように、馬鹿か、と言われて、いつもの様に喧嘩をして終わりになると。
そんなことを望んでいたのか。
「俺を拘束する気なんか、全然なかったんだ」
ナミは一心に窓の外を見詰めた。目に力を入れないと、何か心から吹き零れてしまいそうだった。
ああ、この人は悔しかったんだろうか。それとも。
ふわりと、開いた茶葉の香りがナミの鼻を擽った。
潮のにおいはしないのに、床も揺れてはいないのに、あの狭いキッチンと錯覚しそうになる。
「アイツの願いなんか、叶えてやる義理はないね」
まあ、嫌がらせだよ。とサンジは続けた。
「……ひねくれてる」
「よく言われる」
穏やかな声が近づいてきて、ティーカップが完璧な動作で彼女の前に滑り出てきた。
青い眼差しをようやく受けとめて、ナミは噛み締めるように言う。
「一年は、長かったわね」
「そうだね……」
「でも、もう過ぎたわ」
はい、とサンジは頷いて窓を開けた。
窓枠に腰掛けてシャツのポケットからマッチと煙草を取り出す。
もう、過ぎたのよ、とナミは胸の中で繰り返した。
サンジがさっき、言葉を遮ってくれたことを嬉しく思う。言いたくなかった、認めたくなかったことだから。
居なくなってしまった。
居なくなってしまったのだと。
「……世界中の海を迷子になるには、何年かかるのかな」
紫煙と共に微かに吐き出された言葉を、ナミは聞こえないふりをしてやり過ごした。
──嘘を吐くなら、吐き通してくれ。
こちらの方が耐え切れない。そんな、冗談めかして純粋な願いなど。