「アルベルト・シルバーバーグの弟なんだって?」

ナッシュが悪気なさそうにそう言ってみせたのは、勿論、相手の神経を苛立たせるためだった。








『アンチテーゼの鎖。』








ビュッデヒュッケ城で一番美味い料理を楽しみたかったら、メイミのレストランにくるよりほかはない。
混雑するレストランには席次というものはないし、勿論相席を拒むようなこともできない。

そんな状況を利用して正軍師殿の向かい側に着席したナッシュに、シーザーは文句も言わなかった。
行儀悪くスクランブルエッグを突つきながら──その癖口の中のものを全て飲み込むまでは喋らないのだから、しつけの良さは隠せない──シーザーは頷いた。

「生物学的には完全に」

もしかすると、シーザーは、「シーザー・シルバーバーグ」と呼ばれるより、「アルベルト・シルバーバーグの弟」と呼ばれるほうが多かったのかもしれない。
そう思わせるような当然の平坦さだったので、彼の情緒を揺らそうとしたナッシュの目論見は外れた。まったく、軍師というのはどんな奴も扱いにくいものだ。

どちらかというと、ナッシュの方が少し意外なくらいだった。
アルベルトとシーザーは兄弟といえど──もしかすると、母親は違うのではないかと思っていたのだが。

「────」

ササライの下で工作員を務めているナッシュは、当然「アルベルト・シルバーバーグ」のことは以前から良く知っている。
あらゆる経歴に「主席」という飾りをぶら下げ、二十をいくつも過ぎない若さでハルモニア軍の総参謀長──つまり、ササライ直下の幕僚となったアルベルトは、見るからに「そうに違いない」という男だった。

長身。意思の強さを示す眉と、沼のようにひっそりと静かな、知性を湛えた双眸。その葡萄酒色をした髪は、白い宮殿で酷く目立ったように記憶している。女官達も随分と騒いでいた。
誰もが振り返る容姿というわけではないし、声高に喋るわけでもないのに、彼には人に印象を残す何かがあったのだ。
そう、言わば、「ぞくっとする男」というやつだ。その冷徹ぶりで──その底知れなさで。

対してシーザーは、──「アルベルト・シルバーバーグの弟」様はどうだ?
まず、長身とはとてもいえない。怠惰さを表すように目じりは垂れ下がっていて、目線はいつもふらふらしている。17歳だと聞いてはいるが、頬の線は歳相応、悪くすればそれよりも幼いくらいだった。よくも悪くも平凡の域を出ない顔立ちで、すれ違った後は3秒で忘れてしまいそうな「お子様」である。
女が噂するというよりは、母親が煩く説教するというのが似合う──ああ、それでアップル女史がついているのか。

「『ちっともアルベルトの弟には見えない』」

ナッシュは思わず、自分の口が勝手に動いたのかと思った。
いくらそう思っていたとしても、あからさまに面と向かっていうべきではない台詞だった。思わず自分の唇に手を当てたが、そこは緊張してしゃちほこばっていた。

ナッシュの思ったことを口にしたのは、ナッシュではない。

「……口にされなくとも、そう目で物を言われたらわかるさ」

シーザーは気を悪くした様子もなかった。ここまでくるとそれは本当に褒めてもいい態度だったので、ナッシュは謝りたくなった。
そして、シーザーと駆け引きをすることは諦めた。そんなに容易い相手ではないようだ。

そこでナッシュは気付いたのだが、シーザーは、外見に反して、とてもくたびれた(良く言えば、世慣れた)調子で振舞う人間だった。踵が磨り減って柔らかくなった靴のような、頁に開き癖がついた本のような。そこには、若葉のようなみずみずしさはなく、どことなく達観した雰囲気があった──これは職業柄、ナッシュの観察眼が優れていたために気付いたことかもしれない。

食べたのかどうか疑わしくなるくらい大量の食物を皿の上に残し、シーザーは食後の珈琲に口を付け始めた。
読みさしの新聞を拡げ、ナッシュの顔から視線をはずす。

「あんたが心配するのもわかるが、俺は本当に、これでも一応、シルバーバーグだよ。名に頼るのは嫌なもんだが、アルベルトを知っているならわかるだろう。俺よりほかに、あいつの相手が務まるやつはこの地にいない……お、連載小説なんて始まってるのか」

台詞の後半は、新聞記事の中身に向けたものだった。
「エークの冒険」が果たして軍師殿の役に立つのか疑問に思いつつ(ナッシュは正直、この手のくだらない読み物は大好きだが)、ナッシュは自分のペースを取り戻すことにした。

「お前が名軍師だってことは、今、実際に信じたよ。恐ろしいくらいに正確に、人の心を読んでくるんだからな」
「さっきのは、別に才能なんていらないぜ。だって、アルベルトに会った後、俺に会ったやつのいうことって、全部同じだから」

実の爺さんでさえそうだった、と、何とも悲しいことをのびのびというシーザーに、ナッシュは多少同情した。ナッシュは個人的にアルベルトのことを嫌っているわけではないのだが、ちょっと、アルベルトの弟には生まれたくない。

ここは、さっさと食事を済ませて立ち去るか、とナッシュは戦略的撤退を選んだ。
しかし、シーザーは違った。不用意に近付いてきた相手の様子見の一手ですら逆手にとって利用する──軍師なのだ。

彼はやっぱり、くたびれた感じで言った。

「ハルモニアの転落神官将に言っておいてくれよ。兄弟だからこそ止めてやれってな」
「────」

和やかなレストランには全く相応しくないその話題に、ナッシュは身を強張らせた。

真なる土の紋章を奪われたササライは肉体的に大きなダメージを受けていたが、それ以上に精神的に衰弱していた。捨てられた双子の弟の存在、その憎しみと悲しみ、そして、「呪われた」出生の秘密──重過ぎる鎖が、彼の命を縮めようとしている。
……人間ではない、といわれるのはどんな気持ちだろうか? そして、肉親から殺されかけることは?

ナッシュは低く小さく呟いた。

「……そんなに簡単な話じゃない」
「簡単だろうが、難しかろうが、関係ないね。年下の俺やあんたに優しく気遣ってもらわなきゃいけないような立場の奴じゃないはずだ。仮にも、ハルモニアの神官将──弟のしつけくらいチョチョイとやってもらいたいな」

煽られているとわかってはいたが、不愉快になるのは仕方ない。
それでもナッシュは平静を保とうとし、食事を続けた。噛んでいるマッシュポテトは、今ではおがくずのような感触がした。
ただ、皮肉を言うことぐらいは許されるだろう。どんな風に見えようが、ササライは今、必死に足掻いているのだ──外野にあれこれ貶される筋合いはない。

「……流石、兄弟で戦争ができる奴は言うことが偉そうだな」
「ふん。俺は、兄弟だからこそ戦争なんてやってやっているんだぜ」
「何だと?」
「アルベルトがハルモニアの軍師じゃなかったら、この戦争は俺には関係のないことだった。だが、アルベルトが巻き起こしている災厄なら、俺が止めなきゃならない。言っただろう、『兄弟だからこそ止めてやれ』と……放っておけるなら、俺はササライを軽蔑するぜ」
「お前のほうは、兄弟の縁は切ったと言っていたじゃないか」

そう言うと、シーザーは嫌そうな顔をした。
ようやく一点取れた気持ちで、ナッシュは言葉を重ねた。

「ササライ様は……迷っているんだよ。ルックとやらの存在を知って。ハルモニアは本当に正しいのかと──自分は本当に正しいのかと──そして……」

この世界は、これで良いのかと。

その部分は、ナッシュは口の中に飲み込んだ。
音に出してしまえば、ナッシュの中にもまた迷いが生まれそうだった。裏の世界の人間として、ナッシュも人間の汚いところは色々と見てきたが、ルックはそういった者たちとは違って見えた。

勿論、敵だ。しかし彼には理想があり、信じるところがある。
──生まれたときから尊重され、皆に傅かれ、清潔なものしか触ったことのないササライが、同じ理想の強さを持てるだろうか?

かつん。

音を立てて、シーザーは珈琲カップを置いた。

それは、まるで眠りから目覚めさせる音のようだった。

「正しい、ねぇ……」

はっとして、ナッシュはいつの間にか下がっていた視線を持ち上げた。シーザーは新聞を置き、真っ直ぐにナッシュを見ていた。


「正しいっていうなら、ルックだろ。そして、アルベルトだ。あいつが一番正しい」
「っ」




「自分が正しいと思ってる奴らが一番人を殺すんだよ」




ナッシュの目の前に座っているのは、最早、アルベルト・シルバーバーグの弟ではなかった。
シーザー・シルバーバーグだ。彼は全く、兄には似ていない。・・・・・・・・・・・・・

「当然のように人が人を殺す場合を知ってるか? 代表的なのはふたつ、国家が許可した刑罰と、宗教者が行う聖戦だ。自分が正しいと思っているとき、そこには迷いも躊躇いもない。罪悪感すらない。歴史上、万単位での犠牲が出た事件に、正義がなかったためしはない」

人間ってのは怖いもんだ。
正しいとなれば、何でもやれちまう。

こんなおれだって、せかいのぜんぶをすくうためなら、ひゃくまんにんなんてかるくころしちまうかもな。

「────」
「俺に理想がなくてよかったよ。英雄にならなくて済む」

シーザーは気負いなく席を立った。
座ったままのナッシュからは、彼は太陽を背にして少し影絵のように見えた。表情も分かりにくいが、少なくとも笑ってはいない。

「……だから、俺はアルベルトとは相容れないね。小難しい話じゃなく、俺は俺の目の前で人が死ぬのが嫌いだから。戦争だって嫌なんだよ、本当に。アルベルトには恨み言をいくら言っても足りないぜ。ぶん殴って、俺の肩でも揉ませたい」
「…………」
「だからササライも本当は、ルックを止めることが正しいかどうかなんて、忘れちまったほうがいいと思うけど」




兄が賢けりゃ弟は愚か。弟が正しければ兄は間違い。

それでいいんだ。そうでなけりゃ、互いに誰も、引き止めてくれる奴がいないだろ。