傷が付けば、人間は痛いという。
ユーバーにはよくわからないことだ。








『夜。』









気付けば、ユーバーは植物の鉢をいくつも割っていた。窓辺にひとつひとつ丁寧に飾られていたそれを床に叩き落し、ついでのように窓ガラスも割ってしまっている。
空気に触れた土のにおいが、濃く漂っていた。

「…………?」

記憶と目の前の光景が上手くつながらない。
ユーバーは一瞬戸惑ったが、思い出せないものは仕方がなかった。頻繁に、とはいわないまでも、稀にあることだったから、ユーバーはとっくに慣れてしまっている。
同じことだ、いつの間にか花を踏んでいるのも、いつの間にか人を殺しているのも。

がしゃん

けたたましい音がして、ユーバーはそちらの方を見下ろした。
ユーバーの左手が、まだ無事なまま残っていた僅かな窓ガラスをまた突き破っている。黒い袖口がガラスの切っ先に引っかかっているのをユーバーは無理矢理に引き戻した。意外に大きな音がして布が裂け、ガラスの切り口の上に切れ端を残す。

その動作の延長で一歩左足を後ろに下げると、ぺきり、何かを踏みつけた。
白磁の茶器の破片だった。かつて庶民が一年暮らしていけるだけの価値を持っていただろう、繊細な花が描かれたその陶器は、今は絨毯の上で投身自殺の姿を見せている。
ほかにも何か落ちていた。

「…………」

向き直ろうとして身体を回転させると、ずざり、と何かを切り裂いた。壁と、据えつけられていた書棚が切り裂かれ、書棚の上半分が本と一緒に墜落する。何故だろう。ユーバーは剣を抜いていた。回転と共に振りまわされたそれが、あっさりと壁を突き破り、本棚を両断してしまったのだ。人間なら達人の技だが、ユーバーにとっては単に過失。
ユーバーは剣から手を放そうとした。
すると、そのとおりに剣はユーバーの手から放れ、本棚とは反対側の扉に半ばまで深々と突き立った。

剣はもう一本ある。

左手の方でまた音がしたが、ユーバーは何が起こっているか理解する気はなかった。もう何万回やっても同じだ。
暗い。
暖炉の火が消えており、部屋の温度は低かった。ユーバーは寒がったり暑がったりはしないが、こう冷たいのでは、人が去ってからかなりの時間が経っているだろう。

既に周囲の人間を殺しつくしているといわれても、ユーバーは驚かない。
ざくっ、ざくっ、と机や椅子の破片がばら撒かれていく。急にがくんと視界が下がり、ユーバーは壁に寄りかかった。剣が、自分の足首を切りつけていた。

「…………」

剣を床に突き立て、それからユーバーは指を放した。
逃げるように、二三歩駆けて次の部屋に滑り込む。

「────」

寝台の上に黒い影が横たわっている。
その首を絞めてしまうだろうと分かっていたのに、ユーバーは近付いた。

「!」

影は逃げなかった。
彼は反対に、上半身を起こすと、寝台に片膝をついて乗り上げたユーバーを抱き締めた。軽く柔らかくではなく──激しくきつく。

弾丸を受け止めるように。

ユーバーは影の胸と胸を合わせる格好になった。勢い余って潰すような形で下敷きにしているそれの肩口に顔を埋め、ユーバーは体温を感じ取った。おそらく熱い。ということは、死体ではない。
とくり、とくり、と一定の鼓動も聞き取れる。
ユーバーの身体を巻き取っている両の腕は男のものだ。薬品と血のにおいが夜の闇に立ち上ってくるが、ユーバーは見極めるように鼻を擦りつけ、体臭を嗅ぎ分けた。
耳の辺りに触れると、金属の感触。ついでに、首の辺りに包帯の感触。

ユーバーは、心に浮かんだその名称を言った。

「……アルベルト……?」

触れた皮膚を伝って、掠れた声が返ってきた。その声には、少しの微笑も含まれていた。

「……疑問形とは、……随分な、はなしだ……」

酷いやつだな、と、ゆっくり喋るその影は、やはりアルベルトだった。
怪我をしているらしく、体温が高い。
後で治してやろうか、とユーバーは思った。その傷がどうして生まれたのか、アルベルトの部屋を滅茶苦茶にしてしまっている現状をみれば想像はつくし、そのまま放っておくと死んでしまうだろうからだ。
アルベルトは弱い。
けれど、抱き締めてくる腕の力は弱くない。

全ての力をそのために使っているようだった。だからユーバーはばらばらに千切れずに済んでいるのかもしれない。

「──、」
「こうしていると……怖くない、だろう」

何か言おうとしたユーバーを遮って、アルベルトは言い聞かせた。
ユーバーは、自分が何を言おうとしていたのか、考えるのを止めた。アルベルトの心音が聞こえる。
穏やかだ。殺人を好む化け物を抱き締めているとはとても思えなかった。──ユーバーすら、その事実を今の今まで忘れてしまっていた。自分が、なにか。

新月の夜には、一筋の光も差さない。ユーバーは自分の形を失ってしまう。
アルベルトは勝手に喋った。

「おれの弟も……幼いころは、よくおれの寝台に連れてきてやったよ……」

アルベルトは眠ってしまえばいいのに、とユーバーは思った。そうすれば、ユーバーも怪我人を下敷きにするのを止めて、眠ったふりをするのを止めて、傷を治して、それから立ち去ってやるのに。

「貴族の家は、ひろいから……夜、泣いても、気付かれないから……」
「────」
「ほんとうは、怒られるんだが、な……おれの邪魔になるって……でも……」

アルベルトは小さく息を吐いた。
ぎゅう、とさらに力が篭った。ユーバーは別に呼吸する必要はなかったので、そのままにさせておいた。しかし、こんな台詞など嘲笑してはやりたかったが、どうにも上手く笑えない。

「シーザーは、熱くて、小さくて……こころが弱くてな……おれが守らなくてはと……おもえた……」
「────」
「そうできたらと……」

ユーバーは、その願いの続きを知っていた。それが、馬鹿げた願いだということも。
アルベルトは、弟を守って終われる男ではない。そんな優しい男になど、なれはしない。けれど、ユーバーのようなものを抱き締めることは、優しいだけの人間にはできないだろう。
ここにいてもいい、と、いってくれることなど。

「……もう、抱き締めさせては、もらえないが……」

アルベルトはそれから、ユーバーに、そして己に言い聞かせるように、耳元で囁いた。






「失ったものばかり数えるな」







共有した過去は永遠だし、未来はいつの間にかまた得ている。
そして今、アルベルトはここにいるし、ユーバーもここにいる。──ユーバーはここにいる、のだ。

「…………」

ユーバーは黙ったまま頷いた。触れたところから、伝わっただろう。
暗闇の中でも、心臓の音が聞こえる距離にいる。

「腕だけ治してくれないか……そろそろ力が、入らないから……」
「…………」
「あと……お前の、きずも……」

むくりと体を起こすと(大体、アルベルトの全力だろうが拘束にもならない)、ユーバーはアルベルトの傷を適当に全部塞いでやった。こんなことは、コントロールが効いている状態なら、目を瞑っていてもできることだ。

「──、──」
「────」

傷が付けば、人間は痛いという。
ユーバーにはよくわからないことだ。けれど、アルベルトは、ユーバーも痛がっている風に扱う。

アルベルトは、治った腕でまたユーバーを抱き締めた。
ユーバーは目を閉じ、眠れるような気分に浸った。ユーバーの胸には見えない穴が空いていて、心臓もそこにはないなどという、余計な事は考えないことにした。

ユーバーには動く心臓はないが、抱き締めてもらえる体はあるらしい。
持っていないものばかり数えていると、この夜も忘れてしまう。