圧倒的な質量を持った羊皮紙の束が、また束になって、そのまた束になって、積み重なり、並べられ、押し退け合い──そして、いつか腐り崩れ去ることを予兆させるように、その図書館の空気には鬱陶しいほどの重みがあった。
人はこの場所、ハルモニア神聖国国立図書館を、英知の天とも呼ぶ。だが、アルベルトが名付けるとすれば、ここは知の墓場だった。
ここに集められた書や図は、暗い書架に朽ちるまで閉じ込められる。図書館の扉は、選ばれた愚者にしか開かれない。意味がない、収集者は読みもしない、ただただ他人に所持を禁じるだけ──支配という名の傲慢に屈した、権力を飾るだけの紙の束。
アルベルトは、まだ未完の己の書がこの館に納められるという栄誉を頂くことを疑ってはいなかったが、だからこそ、焚書にでもなったほうがましだと思っていた。だから、アルベルトは、二冊書くことに決めていた。事実を記したものと、真実を記したものを。ひとつは奉納してもいい、だが、もうひとつは世の果てまで遺す。
己の血族であればこそ、アルベルトの思念を殺さずに、逃がしてくれるだろう。
「──ルック様」
知の死体に挟まれた暗がりで、その『少年』は貪るように力を欲していた。
生き返りたがっている知が、その少年を囲んで押しつぶそうとしているのが、アルベルトには目に見えるようだった。
ヒクサクなぞとは違う、改革を求める意志の炎を、ルックは確かに宿していた。その一点だけでも、ヒクサクよりルックのほうが、アルベルトを使うにふさわしい。
紙面に没頭するその横顔は、秀麗ではあるが、誰かを傷つけることができる固さも持っている。
「ルック様」
「聞こえているよ」
頁を繰りながら、アルベルトに視線もくれず、ルックは冷たく言った。
「僕の顔を見て、正体まで知っている人間を逃がすつもりはないから、静かにしていてくれないか。それに、どんな方法でここに忍び込んだんだかは知らないが、お前は神官将じゃないようだから捕まえる義務もあるし」
「世界を滅ぼす方法など、そんなところにはありませんよ」
「────」
本がゆっくりと閉じられる。
アルベルトは、向き直った『少年』に向かって、まるで年長者のように諭した。
「ルック様。貴方が神を殺したいなら、私に尋ねるべきです。貴方が探しているのは、私のはずだ」
「凄い自信だね。僕のほうは、お前の名前も知らないというのに」
「アルベルト・シルバーバーグ」
ふう、と大きな溜息を吐いて──完全に、不服な気持ちが表れている──ルックは手にしていた書を棚に戻した。
「……そうだね。確かに、お前を探していたようだ」
「一番『冷たい』シルバーバーグをね」
「確かに私のことですよ」
「……私なら、カレッカの虐殺程度で怯みはしない。逆に問いかけることもできる」
「何を?」
「──貴方には、百万人を殺す覚悟がありますか、と」
逃げず貫き続けることができますか、と。
『それが偽りだとしても。』
──自分に、魂というものはあるのか?
ルックはそれを問いかけたことはなかった。ないことを既に知っていた。
ルックの体は、ヒクサクの体の複製だったし、ルックの中身は、真なる風の紋章の寄り代だった。紋章が寄生するだけの肉。入れ物。レックナートに保護されるまで、ルックには知性すらなかったのだ。
理解したくなかった。生に誇りを持つことなどできなかった。人間が羨ましがる不老でさえもおぞましかった。歌声を聞いては憎み、子供を見ては殺したいと思った。
『ルック』を犠牲にして幸せになる者がいることが忌々しかった──ルックの存在すら知らずにのうのうと、ルックにはない喜びを得るなんて、どうやったら許せる?
成長した後は、憎む対象は血を分けた兄に集約されたが、ルックの憎しみの強さは薄れなかった。
ルックは、神や世界を嫌った。しかし、弱者に対する哀れみはあった。
ルックは自分と同じように弱い者を哀れんだ──だから、おそらく、彼は優しかったのだろう。歌う少女を許せるようになった。子供に花火を見せてやるようにもなった。
そのままレックナートの下で過ごしていれば、ルックは、鉛のように冷え切らせた憎しみを抱いて、しかしそのまま、諦め続け傍観者でいたかもしれない。レックナートと同じように、長い月日が、いつか心を完全に宥めてくれると信じて。
しかし、ルックは戦争に関わってしまった。
そして、強い意志と、魂を持つ者たちを見た。彼らは戦っていた──多分、自分のためにではなく、戦っていたのだ。
人は、自分のために戦うときに、本当に強くなることはできない。
「どうして、君は戦い続けるんだい」
石版の前に何度もやってくるその少年に、ルックはふと、そう尋ねた。
彼とルックの歳はそう変わらなかった。そして、生い立ちを比べてみれば、彼よりルックの方がよほど酷かった──そればかりか、彼は、銀の匙を使って育った貴族だ。貶められたことも、石を投げられたこともないに違いない。
それなのに、確実に、彼はルックより強かった。力ではない、その意志が。
「────」
彼は答えなかった。ただ、感謝の意を示すように柔らかく微笑んだ。顔には出さなかったが、ルックは苛立った──どうして、ルックの言葉を、気遣いだなんて勝手な受け取り方をするんだ?
友を失い、庇護者を失い、好きな相手を倒し、呪いを身に受け──理不尽な宿命に傷つくだけ傷ついて、その末に、この世で一番尊敬する父すら手に掛けようとしている。
単に、ルックは興味があるだけだ。別に、気に掛けているわけじゃない。
「……人の命も、夢も、儚いよ。君たちは、それなのに──」
もう、ルックは言葉をつなぐのを止めた。
そんな陳腐なこと、誰だってわかっているのだろう。この質問の答えも、ルックはもう自分でわかってしまっているのだろう。
彼は、信じる道を見つけたのだ。
それが上り坂でも、針でも、剣でも、血でも、どんな道でも逃げられはしない。儚い、辛い、そんなことは、歩みを止める理由にはならないのだ。小さく歌を歌いながら、彼は歩いていく。
涙を流している誰かのため。
「────」
ルックが迷うようになったのはそれからだった。あるいはそれは、道を探していたというのかも知れない。
それまでは、真なる風の紋章が伝える灰色の未来など、ルックには関係のないことだった。それが運命なら──いや、いっそ、早く受け入れたいとも思っていた。
完全なる秩序の宇宙。そこに、一片たりとも生命の欠片がなく、ただ、白黒の世界で全てが静謐に凍りつき、変化がないのだとしても、どうでも良かった。
──本当にどうでもいいのか?
少女が泣いていた。
子供が不幸だった。
許せず、誰かが戦った。
そうまでして守っても……人の命も、夢も、儚く消えた。
しかし、続いた。
皆、歩き続けていた。傷つけ合いながら──手をつなぎながら.。歌いながら。
「────」
紋章に呪われたこの身が憎く、魂がないことが辛かった。
だが──こんな存在でも、出来ることがあるなら──この命と大陸ごと破滅することで、道を続けられるなら。運命を変えられるなら。ルックの存在にも、意味があるのではないか?
「……僕は、僕の好きなようにやるだけだよ。命乞いをしても無意味だ」
ルックは片手を持ち上げた。
振り下ろせば、どんな剣よりも鋭い風の刃が切り裂く。ルックの見据える先、燃えて崩れ落ちる寸前の壁の前では、カラヤ族の少女と少年が、互いに互いを守るようにして小さく縮こまっていた。
──非戦闘員も殺す。その罪をゼクセン騎士団に着せる。
確認せずとも、既に今更だった。皆が渇望した休戦協定をぶち壊し、村を焼き、平和に眠る人々を殺戮し──今更、死体が二つばかり増えたところで、ルックの罪に何の変わりがある?
大違いだった。
一人増えれば、一人増えるだけ、倍になるようだった。
この子供たちは、ルックが泣かせているのだ。
殺したくなかった。今でも、ルックはまだ、迷っている。この手を振り下ろさなければ、楽になれる。諦められる。良心なんてものに言い訳して、目を閉じていられる。
レックナート様。どうして、僕を連れ出したのですか?
僕は、世界なんて見たくなかった。こんな道があることなんて、知りたくなかった。ただの考えない肉の塊だったなら、こんな思いはしなかった。
兄さん。どうして、幸せに笑えるのですか?
貴方は、世界の姿を知らないから。僕の存在すら知らないから。無知で、鈍感で、何にも気付かずに、ただ自分の正義を信じているから。たったそれだけだから──でも、貴方の方が、僕よりも、誰かを幸せにできる。
セラ。セラ……どうして僕に、着いてきてくれるんだ?
「好きなように、やるだけなんだ……!」
ルックは腕を振り下ろした。
小さな悲鳴は炎の音に紛れたが、ルックの目に深く焼きついた。守りたいものを、ルックは自らの手で切り裂く。
『百万人を殺す覚悟がありますか』
あるわけがなかった。心はぼろぼろにやつれ果て、憎しみにも頼れず、自分がどんな風に動いているのかもわからなかった。
けれど、ルックは歩き続けていた。
「絶対に……絶対に……やり遂げてやる……」
ルックの信じる道は、虐殺の道だった。
だが、未来を救う道だった。
「──それだから、私は貴方の願いを叶えたいと思ったのですよ」
いつの間にか、アルベルトが背後に立っていた。既に、死体は崩れた家屋に押しつぶされ、焼ける臭いもその他大勢の臭いに混じっていた。
「アルベルト……」
「次の行動の時間です。セラが待っていますから、移動を」
「……ああ」
次の苦痛に引き合わされるために、ルックは踵を返した。
仮面の下に浮かんでいる脂汗をこっそりと拭いながら、後ろについてくる気配に向かって釘を刺す。
「真なる紋章を破壊するためなら、僕は何でもする。お前のどんな非道な策にも従おう。それしか手段がないというのなら……紋章を破壊するために、大陸を沈めなければならないというのなら……」
「はい。貴方には、百万人と貴方自身を殺してもらいます」
「はは。……僕を、ちょっとは理解してくれているのは、たった三人の気の狂った仲間だけか」
「はい。貴方の想いは、誰にも伝わらないでしょう」
「アルベルト。僕を裏切ったら、殺すよ」
「はい」
「おおおおおおおっ……!!!!!!!」
ユーバーも、セラも、炎の英雄の前に敗れ去った。
後一歩のところで、儀式の祭壇から真の紋章は奪い返され、ルック自身にその牙を突きたてる。
どうして? 後、少しだったのに。古のシンダル族だって、このために儀式の地を遺してくれたに違いないのに。
「おおお、おお、ぉお!!」
痛いのは、焼かれた傷や、打たれた跡ではなかった。そんなものではなく、ルックの心臓は張り裂けようとしている──内側から、食い破られようとしている。
「────!」
助けて。誰か、助けて。
──いや、助けないで。
ルックは膝を突き、痙攣する体を両手で抱きとめた。
真なる風の紋章が、ルックの身から離れ、出てこようとしている。
こんな「容れ物」と、心中するのは嫌か? だが、駄目だ。お前だけは逃がさない。
「……ろせ…、…」
ぎりぎりと腕の肉に爪を立てながら、ルックは睨み上げるようにして『炎の英雄』に懇願した。
ルックを見ている、彼も傷だらけだった。だが、英雄の周りには、その身を支える手がいくつも見えた。まだ、あどけない少年だった──彼らは寄り添わなければ、立っても居られない。
そしてルックは、もう立てない。
「早く、殺せえっ……!!」
ルックの心臓が引き裂かれる前に、真なる風の紋章を。
もう遅いかもしれない、けれど、今のルックにはこの手段しか遺されていなかった。焼き尽くせ、氷漬けにしろ、打ち据えてしまえ──英雄だというなら! この世界を救ってくれよ!!
「……で、」
「────」
「できないよ……」
少年の──ヒューゴの手が、ルックへと伸ばされた。
ヒューゴの村を焼いたのも、休戦協定を引き裂いたのも、グラスランドに災いをもたらしたのも、ルックだと知りながら、そうした。その手は柔らかく、暖かそうだった。
ルックの指が、腕から外れ、粘つく血の跡を引きながら──地面に突き立てられた。ルックは土くれを握り締め、嗚咽した。その目の隙間から、鼻の穴から、口から、体に開いたいくつもの穴から、力の奔流があふれ出し、質量を持って増殖していった。
「アアアアアアああああああああああああああああああアアッッ……!」
「ルックッ……!」
違うんだよ。
僕はそんなこと、望んじゃいないんだよ。
助けられたいんじゃないんだ。
哀れんでほしいんじゃないんだ。
君は英雄で、僕は悪魔でいいんだ。
呪われた命だというのなら、その命にしかできないことをしてやりたいんだ。
「アアアア、うアアアアアアああああああああああああ!!!!!!」
ああ、赤ん坊のとき、僕はこうやって泣かなかったらしいよ。何もわかっていなかったからね。痛みも、苦しみも、望みも何もなかったからね。
でも今は泣こう。
だって、これが、運命だというのなら、あんまりじゃないか。
ユーバー。
アルベルト。
セラ。
人は、やっぱり、定めには勝てないのかなあ……?
「何故、今になってルックを売る?」
「……貴方に教えた儀式の地の場所は、嘘ではありませんよ。それに、あなた方が勝利するにはもう、この情報に頼るほかない。シーザーに言えば信じるでしょう」
「誤魔化すなよ。質問に答えろ。俺は、何故裏切るのかと聞いているんだ」
ふ、とアルベルトは小さく溜息を吐いた。
ハルモニアの間諜、ナッシュとの縁はこれきりにしておくのがいいだろう。ヒクサクとの繋がりを得た今、ナッシュの上司であるササライにしても重要な駒というわけではない。
「ハルモニア神聖国での確固とした地位を得るという、私の目的は達成されましたので。……大陸を沈めるつもりなど、元からありませんでしたよ」
「そんなつまらないことのために……ここまでの戦乱を……」
「グラスランド侵攻を決めたのは、私ではありませんよ。確かに、私の策でグラスランドの人間は沢山死にましたが、もし私の策がなければ、その分ハルモニア兵が死んでいたでしょう」
「────」
「真の紋章の所有者はあぶりだされたし、ハルモニアの被害は少なく済んだ。ルビークは開放されたし、ゼクセンとグラスランドの絆は強くなった。ハルモニアとの不戦条約でまた百年かそこらは平和が戻る。ルック様を担ぎ出さなければ、ここまでの成果を得ることはできませんでした。彼が望んだ結果ではないにしろ……これはいい首尾だとは思いませんか」
ナッシュの指先に力が篭る、その一瞬前に、アルベルトは口を挟んだ。
「義憤などに駆られて私を殺すのは愚策だ。私が戻らなければ、ルック様は怪しむでしょうから」
「……あんた、本当に人間の屑だな」
アルベルトは微笑を浮かべると、ナッシュの脇をすり抜けた。アルベルトには、やらなければいけないことなら山ほどあった──三十路男の不満の捌け口になる時間はない。
アルベルトは、ルックの望みを叶えたい、とは口にしたが、叶える、と言ったことはなかった。
今度はヒクサクをどう利用するか、その算段を考えながら、アルベルトは歩を進めた。振り返らず。
「陳腐な台詞だ。そんなものなら……どうせなら、ルック様に言われたほうが良かったな」
「だが、人間の屑でも──いつか定めに打ち勝つことは、約束できますよ」
ルック様、貴方に、この世の運命を変えられる可能性はなかった。
私はそれを知っていましたから、私が貴方に言った言葉は、全て偽りでした。
けれど偽りだとしても、いつか、きっと真実にしてさしあげます。
──貴方を犠牲にする覚悟がある私ですから、きっと、貫き通します。
私が貴方に言った言葉が、全て偽りだとしても。
私が貴方を裏切ることはない。
貴方が勝てなくても、──もし、私が、勝てないのだとしても。
私と貴方と、その他幾千万の人間とで、勝ちましょう。
崩れ落ちる遺跡の音は、もうルックの耳には聞こえなかった。
ただ、差し出した手を握ったセラが、それを頬に押し当てている感触だけが確かだった。
やがて、その頬が、温度を失ったとしても、確かだった。
「ありがとう……セラ……」
ルックは目を閉じた。
道は続いていた。小さく唄いながら、金髪の少女が、ルックの手を引いて歩いていた。その道の先は長く、永く──喜ばしいほど、続いているように見えた。沢山の、足音が聞こえた。
「僕にはないと思っていた魂の存在を……今は確信できる……」