『産道を覗く』










シルバーバーグ一族は、大抵、運動神経というものを持たない。

それが血肉より書物を優先する生い立ちによるものなのか、それとも単に家訓であるのかはわからないが、芯からシルバーバーグ的であるアルベルトは当然、破滅的な運動音痴だった。彼を池に突き落とせば、藁を掴むことも諦めて重いコートが水を吸うがままに沈んでいくに違いない。

つまり、アルベルトを相手にとって満足したければ、口を開く前に顔面を殴りつければよいわけだった。実際、彼の弟は幼い頃からしばしばそうやってアルベルトに目に物見せたそうだから、効果は実証されている。

しかし、ユーバーのような、神からすべての贈り物を受け取ってしまった人間にとっては、それすらもかなり難しいことだった。子供が蝶々を撫でようとしても大抵その羽をもいでしまうのと同じで、ユーバーが顔面を殴った後のアルベルトが原型を留めているかどうかは保証できるものではない。

そこで、こういった場合は、かなり困ったことになるわけだった。

(いい加減にしろ)

そう言う代わりに、ユーバーはグルルと喉で唸った。アルベルトは「分かった分かった」とでも言うように、ユーバーの腹毛を指を尖らせて掻いた。全く分かっていない。

ユーバーの毛皮の上に、もう一枚の毛皮だとでもいうようにべたっと広がっている男は、毛のふさふさとした大型犬がいたくおきに召したらしい。確かに、犬といってもユーバーだから、犬の粋を集めたように美しい犬に化けてやったが、それにしても懐きすぎている。

二刻は犬でいるのが約束だ。しかし、歩くにも成人男性を首からぶら下げている状況では、なんとも窮屈だった。ユーバーは、窮屈を好まない。

(貴様はそんなじゃれあいが似合う男ではないだろうが)

そう口に出したとしても、アルベルトが気に留めないことは確かだった。彼が「弱さ」や「甘さ」を見せているということは、そう見せても問題がないためにそうしているのであって、自意識に関係しているのではない。また、油断しているというのでもないのだ。

──そうであると思うのだが、そう思わせないのもまたアルベルトという男だった。

アルベルトは演技は完璧に行う類の男だから、本心と言動を完璧に切り離すのも、容易いはずである。しかし、完璧な演技は、それに伴った本心をもたらすのではないか?
どちらに考えても、答はなかった。彼は裏も表もないカードのようなものだった。裏返すことはできないし、裏返したとしても何もわからない。

ふと、アルベルトは言った。

「お前はどんなものにでも化けられるのか」

毛皮に寄せられた唇から伝わった振動は不明瞭で、質問の中身もつまらなかった。
どんなものでもとは、適当な質問だ──まさか、ユーバーといっても光や風、あるいは無機物に変化することはできなかったし、反対に、肉を持つものならありとあらゆるものに化けることができそうだった。聞くまでもないだろう。彼の弟の姿を取ってやることも簡単にできる。

(アルベルトから尋ねてきたのだから、もういいな)

勝手にそう判断すると、ユーバーは飼い犬のふりはもう止めることに決めた。アルベルトは犬の躾が当然のように上手であるが、ユーバーを犬扱いできるものではない。

そこで、ユーバーはアルベルトが一番嫌いな人間に変化してやった。

「!」

ユーバーの変化は早い。数秒後、アルベルトの腕の中にいたのは懐かない狩猟犬ではなく、葡萄酒色の髪と昏い緑色の目をした、底なし沼のような男だった。つまり、アルベルト自身だ。

「────」

ユーバーが期待していたような驚愕や動揺、あるいは嫌悪は、沼の表面には現れない。
アルベルトは触れていた背と胸をゆっくりと離した。しかし起き上がらなかった。

アルベルトは、自らの身の下に伏せる自分をゆっくりと仰向けにし、頬を両手で挟みこむようにして、しげしげと覗き込んだ。睫が触れるかと思った。
たらたらと顔面の上に泥が落ちてくる感触が、確かにしたとユーバーは思った──鏡の像に囚われる自惚れやであっても、ここまで強く見るだろうか。

「──」

指に引っかかった赤い髪を梳く感触は、冷えた土の中に引きずり込まれるような悪寒をもたらした。
アルベルトはつぶさに見た──目の下の薄い皮膚に透ける静脈を、意志の強さを示す眉の弧の角度を、肌にまとわりつく産毛を。唇の隙間から歯のかけらの色も眺めるくらいだった。まったく、収穫祭に出す子牛を評価するのと同じ、執拗な検品だった。

アルベルトは『アルベルト』を観察しようとしているのだと思っても、己自身が観察されているような不快感は薄れない。
アルベルトはとっくりと眺めながら、なお飽かず求めた。 飴玉でも強請るような口ぶりで、

「お前は、頭を割られても平気だろうか?」
「冗談ではない」

ユーバーはぞっとして顎を引いた。

「少しは割っても、」
「駄目だ」

アルベルトの探究心は、己の頭蓋骨の中身にまで触手を伸ばしている。それはまだ理解できるとしても、そのために己と同じ姿をしたユーバーに頭を割ってみせろというのは、とても趣味のいい提案ではなかった。

「……逃げ出すようでは俺じゃないぞ、ユーバー」

アルベルトは微笑しながらそう言った。
軽く放られながら、その言葉は素晴らしく神経をえぐる一撃だった──確かに、アルベルトなら逃げ出さないだろう。己の運命からも、血筋からも、恐怖や死からでさえも。 ユーバーは全くその反対だ。臆病で、勇気のかけらもない。

怒りをあらわにするのは、この場合、最も自尊心を傷つけるやり方だった。ユーバーはひたすら己を甘やかしたい生き物だったので、怒りを見せるくらいならアルベルトを殺してしまうほうがましだった。
そして、アルベルトを殺すより、彼が取るに足らない塵であることを思い出すほうが早かった。ユーバーが殺さなくとも、彼はいずれ死ぬのだ。

彼が身を引いて立ち上がったので、ユーバーは許すことにした。ぞっとするような気持ちも、終わってみれば案外、面白かったような気がするものである。
ユーバーは常に娯楽に飢えているから、アルベルトを許すのも容易かった──それに、彼との間には最初の契約があるから、殺してしまうわけにはいかないのだった。彼がユーバーにくれると約束したものを、ユーバーはいつまででも待ち続けることができるくらいには欲している。

「悪趣味だが、いい経験になった」
「貴様は、驚くということがないのか?」
「ないわけがないだろう」

アルベルトはいつも嘘を吐く。

「さっきの悪戯のことなら、いつかやるだろうと思っていただけのことだ。俺の爺に変化したほうが、嫌がらせとしては出来がよかっただろうが──」

アルベルトはそこで言葉を切ると、思い出したように同じ問いを再び繰り返した。

「お前はどんなものにでも化けられるのか」
「神にでも化けろというのか?」

突然彼が無言になったので、ユーバーは視線を上げた。

アルベルトは、腰を下ろしたままのユーバーの目の前に立っている。
当然のように、毛足の長い絨毯を踏んでいる。農村の職人が10人がかりで15年かけて完成させる品を彼は常に踏み、悪鬼にも踏ませる。傍らには暖炉の火があって、その灯はアルベルトの顔を右斜め下から照らし上げていた。人に命じること、人を使うことに慣れ切った態度であり、その意味で、アルベルトはとても貴族らしい。

そして、アルベルトはユーバーを依然として見下ろしていた。
そのまなざしに疑問の色が混ざったことがないと、ユーバーは知っている。 アルベルトは常に、問いかける前に答を得ている。

だから、後は命じるだけなのだ。いつも。

「化けてくれ──」

肉を持ったもので、ユーバーが化けられないものは、ただひとつだけだ。
呪われた紋章を宿し、命を複製しながら永い時を過ごす前の──

「──1000年前の、」

ユーバーの思考を上書きするように、アルベルトの声がした。
瞬間、ユーバーはアルベルトを見失った。そこにいるのはアルベルトではなく、ユーバーを肉片ほどに引きちぎって遊ぶ地獄の機械だった。ユーバーは破壊しようとした。

「狩猟犬の姿に」

機械の姿は消えた。それはアルベルトだった。
ユーバーの表層は、自動的に答えた。

「忘れたな」














アルベルトは、歴史書を綴る手を休めた。眠る前に、既に朝の日が昇っていた。

己の執筆した歴史書が後世まで残ることを、アルベルトは疑っていない。いや、残らなければならないのだ。歴史を隠すことは、人類への裏切り行為だった。

シルバーバーグの一族は、呼吸を学ぶのと同じに歴史を学ぶ。
歴史は単に過去の知識を蓄えるための情報ではなく、未来を加工するための教本である。あらゆる文化思想や、科学工業は、歴史が──その時代の「状況」が生む。100年の動乱は偉大な思想を育み、100年の平穏は嗜好品を作る。文化の衝突が芸術を発達させ、革新的過ぎる仕組みはやがて行き詰る。

子供を育てるために必要な教育と栄養素が何か、親は都度考えて与えるように──シルバーバーグは都度必要な状況を作る。それは、神に代わって人という種を導いているつもりなのだった。

だから、シルバーバーグは過去を重視する。
そして、「未来の可能性は無限である」などとは信じない。

過去があるからこそ今があるのであり、今があるからこそ未来がある。それぞれを断絶させることはできない。
連綿と続く過去は、可能性の取捨選択の瞬間の積み重ねだ。いまさら人が植物にはなれないのだ。

過去を捨てることを試みるなど、愚かしいこと。

(ユーバー、お前にそれを、分からせてやろう)

いくら形を変えても、いくら時間を経ても無駄だ。自分自身から逃れるなど、矛盾だ。己の影からいくら必死に逃げ続けても、逃げ切れる日が来るはずはない──悲劇的な滑稽さだ。それを、1000年以上も続けているのだから!

1000年、そこで、アルベルトの思考は1000年前から1000年後のことへと移った。

1000年後、シルバーバーグの一族はその役目を放棄してよいだろうか? 否である。
アルベルトは、彼の意思を継ぐ者を見出しておく必要があった。

都合がいいのは、勿論子孫だったが──アルベルトは代替策をいくつか用意していた。