彼は随分長い間、その、煮え立った鉛のような酷く熱いものを飲み下す勇気が自分にあるかどうか測っていた。どうにも、ないように思えた。
ぶるぶると震える手で膝をしっかりと掴んでいるのは、今にも逃げ出そうとする足をその場にとどめておくためだ。
暗闇の中に満ちる気配は、酷く禍々しい。
大きなナメクジが篭っている穴ぐらのようだ。湿った、生きながら腐っているような空気。
「──これを手にしたら、私はどうなるのです」
「強い力が手に入るだろうさ」
女の声は嘲るようだった。
女を心底から信頼することができず、彼は重ねて問う。
「それだけでしょうか?」
「……止めたいというなら止めていいよ」
女の声の後ろに、疲れ果てた老婆の姿が隠れているような気がした。
深く疲労し、悔やみ、物憂さに溺れ腐った姿だ。
「その紋章は酷く呪われている。それを宿した瞬間、お前の心は引き裂かれ、また戻り、粉々になったかと思えば平たく伸ばされたり、全く好き勝手にくるくると回っていくだろう。砂漠の砂丘が、姿を変えていくようにね。細かな粒子を、手のひらで掬っても、形に残すことはできないように……」
「私は頭があまりよくない。そういう風に言われてもわかりません。結局、私はどうなるのです?」
「……人間ではなくなるだろうね」
そこで、彼の胆は決まった。
目の前に光が差したような気がして、もう、何も気にならなくなった。
「それは嬉しいなあ……私はもう、人間でいたくなんかないとずっと思っていたんです」
「──お前は、そこまで、人間に絶望していたのかい」
「どうして、せずにいられるのですか?」
「通りがかりの農夫の集団が、焼け跡の瓦礫の中から、死にかけた女性を引っ張り出していましたよ。そして、彼らは懇願する女性の腕を折ってまで、腕輪を盗っていったんです。彼らを呼び寄せたのは、助けを求めた私の声だったのに、その私はといえば、瓦礫の下で縮こまって隠れていたんです。女性がそのまま死んでいくのを、二度と助けも呼べず、見ていたんです」
「そこにいたのはみんな、人間だったんですよ」
死んだのも、略奪したのも、見ていたのもね。
地獄の鬼じゃなかったんですよ。
『人鬼』
「学舎などというものを作り始めたらしいな」
馬鹿にするようなユーバーの声音に、アルベルトはあまり取り合わなかった。
「俺が始めたわけではない。ハルモニアには元からあったさ」
「軍師は戦争だけやっていろ」
「お前の趣味を邪魔するわけじゃない──いいだろう、俺の趣味なのだから」
「ふん」
納得はしていないぞ、という顔で、ユーバーは鼻を鳴らした。
「貴様は、育てるということが好きだな」
ユーバーはじろりとアルベルトの部屋においてある鉢植えを眺めた。今、手を伸ばしてその花を千切るというところまではわざわざしないようだったが、気が向けばやるだろう。
そこで、アルベルトはユーバーの機嫌を取ることにし、もう一度はっきりと宣言した。
「お前の邪魔をするためじゃないさ」
「──では、何故、人殺しは禁忌だと教える?」
「そう思っているからだ」
「嘘吐きめ!」
ユーバーは冗談にはせず、はっきりと不快を表した。
「貴様は先ほどその口で、綺羅綺羅しい出兵演説をしてきたばかりだろう。その裏で学舎の教育方針に手を回し、仰々しい倫理などを説く。そして、俺には、どちらも本気だと説明するわけだ」
「お気に召さない?」
「────」
ユーバーは口を噤むと、あえて怒気を収めたようだった。怒ってみせては話が進まないと思ったのだろう。
そういうところを見るにつけ、アルベルトはユーバーを興味深く思う。彼は、感情を制御できないわけではない。一瞬で、突然に感情を変えてみせるときもある。まるで、そのときどきで、都合のいい人格に切り替えているかのようだ。
「こんなことで嘘を吐く必要はない。今、お前には本当のことを言ったつもりだ……軍師の役目はきちんとこなす。人殺しは禁忌だと思っている。両立するさ」
「矛盾しているだろう」
「していない。思っているのと、そうするのとは別の問題だ。それに、禁忌は、別に不可能ではないからな」
やってはいけないというのは、やれるからこそ意味のある言葉だ。
出来ないものを禁止する必要はないのだから。
「都合のいい誤魔化しだ」
「……お前がそんなに潔癖だとは知らなかった」
「俺を簡単に丸め込めると思っているのは気に入らん」
「お前を騙しているわけではない」
アルベルトは細心の注意を払って素っ気無く言った。
ユーバーの目指しているものと、アルベルトの目指しているものは似通ってはいないのだと、あまり深刻に考えさせたくはない。
アルベルトは椅子から立ち上がると、窓辺で光を当てている鉢のうち、一番綺麗に咲いている花を摘み取った。そして、ユーバーの口元に近づける。
アルベルトの促しに呆れたような目を向けながら、ユーバーはそれをむしゃりと食べた。白にほんの少し薄紅の差した花弁が、あっというまに潰れて暗い口腔へと飲み込まれる。
「まずい」
「ああ、食用じゃない」
「食わせたくせに」
「ああ、だからお前に、人を殺させもするさ」
殺す用じゃなくても。
「────」
しばらくの沈黙の後、ユーバーは少しだけ哀れむような目でアルベルトを見下ろした。
お互い様だったので、アルベルトは別にどうとも思わなかった。アルベルトだってユーバーを哀れんでいる。お互いに同情し合い、利用し合いながら、一時だけ手を重ねている。
アルベルトはゆっくりとユーバーの目を見た。光彩を。そして、眉のあたりを、高い鼻梁を通って、完璧な上下の唇を、それを動かす筋肉の動きと、頸と、連動する肩、陰影を追って、内包する流れの無駄のない形状を見た。金色の美しい生き物だった。
美しい、本当に美しい、とアルベルトは思った。そして、そう思ったということをユーバーに理解させた。声にせず、言葉にせず。真実だったので、別に難しいことではなかった。
(だから一緒にいるのだと、お前も信じられるだろう? ただ利用するためというのではなく)
アルベルトはユーバーを恐れないのだと、ユーバーの存在を許容するのだと、有形無形の手段で言い続けている。ユーバーはアルベルトを疑う必要などないのだ。人間の考え方をしてほしくないなら、化け物の考え方を見せてやる。
「……お前が何人殺そうと責めないさ」
アルベルトはユーバーのためにそう言った。好きだと言うのは明らかにやりすぎだった。十分に伝わるはずだった。いっそ言わなくても良かった、アルベルトだって何万人も殺していた。
ユーバーもアルベルトを見ていた。当たり前だが、そこには美への賞賛はなかった。
「貴様は精神的売春婦だ」
「────」
「信念というものはないし、破れない禁忌もない。したくないこともする。一体、何のためにそう媚びているというのだ?」
彼はまさに、「ために」ということのために生きていた。アルベルトはほかにどうしようもないのだ。
アルベルトが見ているのは、あるべき歴史だ。そうでなければ、今を許容できるはずがなかった──この悲劇と汚濁に満ち溢れた(共食いする人々)今は、理想の未来のためにあるのだと思うのでなければ、誰が人を殺せるだろうか。数万も殺せるだろうか。
今、人が互いに傷つけ合うのだとして、その痛みが、ひとつの屍と鼻の曲がるような死臭しか残さないとしたら、それを産んだ母の十月十日と死ぬような苦しみはなんだったのだ? そのひとつを育てた手に刻まれた疲労の幾重の皺、そのひとつのために食われた何百の家畜の断末魔の悲鳴はなんだったのだ? なんだって、命というものをそのように軽く測れるのだ?
愛を知らないのか。
虫だったら、共食っても悲劇ではない。
ただ、生きて、ただ、死ぬ、ということほど、アルベルトが腹立たしく思うことはないかも知れなかった。
死ぬなら──せめて、誰かの「ために」死ぬべきだ。赤子が石に叩きつけられて死なない理由に、傷つき倒れたものには手が差し伸べられる理由に、その礎になるべきだ。
だから、ただ、殺す、ということも、実際アルベルトには許せるものではなかった。
殺すなら、己のために十人殺すのではなく、未来のために十万人殺せ。
人の性について、アルベルトはよく理解している。愚かで、利己的で、動物なんかより余程悲劇を生んでしまう現状を。そう、その目を覆いたくなる現状を、だ。
だからといってアルベルトは未来に絶望することはできない。それが彼の悲願であり呪いだった。
意思を止めてはならない。宗教でもいい、教育でもいい、技術開発でも、医療の発展でも、統一権力でも、何でもいい、あるべき歴史の行く末に、くだらない戦争やくだらない飢餓やくだらない疫病がなくなるのなら、どんな方法でもいい。寿命で死ぬということ、平和の中で生きるということ! そのようなことが今、神にしかできないとしても、神にできるのならまだ望みはある。
人は、地獄から救われるものだと、アルベルトは夢見る──神がやらないだけなら、己がやればいいだけのことだと豪語する。
「ために」、だ。
そのためなら、アルベルトは思想の売春婦になることなどてんで構わなかった。
大法螺を吹きながら、悪鬼とだって寝てみせる。
「ユーバー、そう毒吐くな──」
(俺を信じなければ、お前は辛いばかりだろう?)