ジョージ・シルバーバーグは、人に言われるほど平凡であったわけではない。
彼の頭脳は十分に優秀だった。ただ、苛烈ではなかった。彼の蒔かれた花壇が全ての問題だった──彼は、自分が花開くためには、どんなマーガレットや、プリムラや、すみれの犠牲が必要かを知らざるを得ず、そこで芽吹くのを止めた。

つまり、ジョージの精神はひ弱だった。己の手で鶏を縊り殺して食べることすら、彼は嫌だったことだろう。ある種、貴族的な話でもあった。つまり、ジョージは他人に情けを掛けても、誰かに食べさせてもらうことだけはできたのだから。

常人の枠を出ない彼の倫理観においては、一族のやろうとしていることは「神をも畏れぬ」ことだった。父、名軍師レオンは剪定師を気取っているが、どんなに言い方を変えても、ジョージにとってそれは罪である。

ジョージはひたすら一族の血を嫌った。
だが、それから逃れることは、結局できなかった。











『花を作る』

















磨きぬかれた床の飴色を反射して、その部屋に差し込む西日はいつも琥珀がかってみえる。
そこは、一人の少年のために作られた部屋だった。まるで、それとして設計されたかのようだった。ハルモニア神聖国一の神殿外堂、鳥の塔3階4号室は。

「────」

暖かそうなキルティングの巣。積み上げられた本のにおい。がっしりと頑丈な物書き机。
それ程広くない空間の中に詰め込まれたそれらの物のなかに、その少年は埋もれている。目を閉じ、片腕の上に頬を乗せ──体を伏せた机の上に、彼の一番の特徴である葡萄酒色の髪が散らばっている。

世界中の神童が集められたハルモニアの学舎では、どんな天才も珍しくはない。皆、人並み外れた知能の持ち主であり、年齢に似つかわしくない言動と、常人の枠には収まらない性格を持っている。
しかし、この少年は、天才達の、そのただ中にあってさらに「秀才」だった。全く普通の国の、普通の地方の、普通の学園の、普通の学級にいるような秀才のようなタイプ──そのようにしている、この異能集団の中でも同じく! そのような「タイプ」がどんな怪物であるかわかっているから、どんな「天才」も、この「秀才」には一目置いた。少なくとも、侮りはしなかった。

「アルベルト・シルバーバーグ」

呼びかけに、少年はゆるゆると瞼を開いた。元から眠ってはいなかったのだろう、伏し目がちの暗緑色の眼差しには、少しの緩みもない。
アルベルトに問われる前に、彼女は答えた。

「教師が呼んでいる」
「……用件は?」
「面会人だ」
「……そうか。ありがとう、ミルテ」

アルベルトは上体を真っ直ぐに起こすと、椅子から立ち上がった。ミルテも、彼について部屋を出た。

挨拶もしないまま、ミルテはアルベルトが向かったほうとは逆向きに進んだ。ミルテが教師から受けた命令は、アルベルトに用件を伝えるところまでだからだ。それが済めばもう自由だ──普通なら。

ミルテは廊下の角を折れると、その場に立ち止まって、ゆっくりと数を数えた。丁度いいと思ったところで止め、今来た道を覗き込む。予想に違わず、アルベルトの背がその廊下から消えるところだった。
そこで、ミルテは引き返し、アルベルトの後を追った。

「────」

目的地はわかっている。面会室だ。

ミルテは、アルベルトという少年に恋をしているつもりはない。恋なんて、単なる肉体の生理的欲求に過ぎないことは、この一の神殿外堂に集められるくらいの少年少女ならはっきりと理解している。単なる見てくれや、単なる声の響きや、単なる性格のよさに陶酔するなんて、ここの人間はやらないことだ。

ただ──興味は持っている。ミルテは、それは素直に認めた。
そのほかの少年は、ミルテの手のひらで測れる。しかし、アルベルトだけは違う。彼の、沼のように静かな瞳のその深くに何が? 測り知れない水深は、光を通さない。だから、気に掛かるのだ。
アルベルトの髪の色が好きなことや、彼の声の響きが素敵なことや、彼がミルテの好きな本を探してくれたことは、重要な点ではない。少なくとも、彼女の自覚しているところでは、そうだった。
だから、覗きのような真似も恥じ入るところなく正当化される。

「────」

足音をひそめて階段を下りる。
二度角を曲がって、ミルテは耳をそばだてた。面会室の扉が開き、閉じる、その音を確認してから、彼女も数十秒前にアルベルトが歩いた空間に踏み出す。

面会室の隣の小部屋の鍵を開けると、ミルテはゆっくりとそこに忍び込んだ。
勿論、許可は得ていない。そもそもこの小部屋は「非公式」のもので──何故なら、面会室を監視するための部屋であるから──何故そんなところの鍵をミルテが所持しているかと問われれば、退学ものの答しか返せない。

ミルテはそうっとビロード張りの椅子に腰掛けた。耳をそばだてる必要もなく、明瞭に会話が聞こえてきた。

「──意地を張るものじゃありません。アルベルト、お前は私に、過ちを償う機会も与えてくれないのですか?」
「いいえ、父さん」

それで、面会人がアルベルトの父親であることが知れた。
声だけ聞いている限りでは、父親とアルベルトはあまり似ていないようだった。まず、話し方が違う。
父親の話し方は、我が子を諭すときのそれだった。アルベルトの話し方は、可愛い犬を撫でるときのそれだった。

「それじゃアルベルト、」
「『いいえ、父さん』。償いなんて必要ないんです。僕はこれでいいんですから」
「これでいいはずがないでしょう。お前はレオン・シルバーバーグの道具じゃない。私の子供です。お前がみすみす不幸になるのを、どうして見過ごせますか」
「でも僕は、アルベルト・シルバーバーグです。今更、何を動かそうというんですか?」
「アルベルト、それは、」
「父さん。これでいいんです」



貴方の定義で言えば、僕は、僕である限り不幸です。



「御祖父様のせいじゃありません。ましてや、貴方のせいじゃない」
「────」
「ごめんなさい」
「アルベルト……」
「……シーザーを愛してやってください」

アルベルトの言葉は、皮肉には聞こえなかった。
だから、その次の言葉も、真実には聞こえなかった。

「アルベルト、私はお前も愛していますよ。信じられませんか? こんな軟弱な父親のことなど、今更?」
「わかっています。でも、大丈夫なんです」

アルベルトは、そっと、噛んで含めるように、小さく呟いた。


「貴方の幸せは、僕じゃない」








アルベルトが外に出、扉を閉めるまで──そして閉めても、もう、そこには言葉がなかった。
父親に、何も言うことができないというのは、事情を知らないミルテにも理解できた。アルベルトは怒っているわけでも、諦めているわけでもない。全く普通なのだ。

傷付いていない人間に、どうして許してもらうことができるだろうか?
冷たさすらない、生温い感情の盾が、親子の間を遮っている。

「────」

絶望に緊張した部屋の空気が、深い溜息に弛緩した。
アルベルトの父親は、背骨の力を抜き、ソファに深々と背を預けたようだった。その動作には、静かな疲労が感じ取れた。

「──そこの、鈴蘭の香りのするお嬢さん」
「!」

ミルテは驚いて、思わず声を上げるところだった。

確かに、ミルテは鈴蘭の香水を愛用している。ミルテ自身の鼻は慣れすぎて、あまり意識しなかったが──これほど声が明瞭に伝わるということは、面会室の間で空気も共有しているということであり、においも当然伝わるだろう。ミルテは己の迂闊さに気付いた。

だが、面会室の中のシルバーバーグは(ミルテはそのときようやく認識したのだが、アルベルトの父親だということは、彼もまた、シルバーバーグであるに違いなかった)ミルテの返事を待っているわけではないようだった。また、盗み聞きを気にしているようでもなかった。

「あの子のことが気になりますか」
「…………」
「息子を好いてくれるお嬢さんがいるなんて、嬉しく思いますよ」
「…………」
「ただ……」

また、深い溜息。
ミルテは頭のいい娘だ。彼の言いたいことなど、百も承知だった。
彼は──やめておけ、と言っているのだった──父親が──息子のことを──やめておけ、と……好いていい人間ではないと……

「私はこれから懺悔をします。貴方は、聞かないほうがいいでしょう」
「…………」

勿論、ミルテは動かなかった。
それを予期していた風で、アルベルト・シルバーバーグの『父親』は語り始めた。

「私はあの子に何を伝えにきたのか……全て、私の自己満足です。あの子にはわかっているというのに。私の嘘が。私の本心が」
「…………」
「……許してもらいたかった……」
「…………」
「私はあの子を愛していないんです……どうして愛せるでしょう?」



あの子は、人を何万人も殺してしまう子ですよ。
そんな子を生み出してしまった、それは私の罪じゃないですか。

私は芽吹かなかったのに、あの子に繋いでしまったんです。
私など、もっと早くに、死んでしまっていればよかった。
あの子が生まれた瞬間、喜びなど感じなければよかった。
あの花は、私の罪の花ですよ……




「誰もが、あの花を褒め称えるでしょうが、愚かしいことだ」

懺悔の締めくくりに、彼は、呪いをかけるように言った。
彼に残された幸せが、世界に奪い取られないように。


「私はアルベルトの才が、シーザーにも受け継がれないことを望むばかりです」