神は世を創りたまいし、光を創りたまいし……
神は火を教えたまいし、愛を教えたまいし……
神の前に全ては無と同じ、神の前に罪はなし…… 神の前に罪はなし……


聖句が荘厳な韻律に乗って渦巻く礼拝堂の片隅で、青年はその調べにじっと聞き入っているようだった。
高い位置にある明り取りの切り窓から降り注ぐ日差しが、彼の髪の上でキラキラと複雑に反射し、そのまま霞みのように漂っている。

(金冠みたい)

そう、そして、それは神の祝福のようだ。いや、もっと言えば、白皙の肌、朱い唇、信じられないくらい整った顔立ちを全てひっくるめて、彼は天の御使いのようだ。
いつの間にか見蕩れていた自分に気付き、ノーラは慌てて彼に呼びかけた。

「ユーバー」








『プラムウッド村の祭りの前の日』







「ユーバーって何でもできるんですね」
「そうかな」

血と羊水でベタベタに汚れた手を乾いた藁束で拭いながら、ユーバーは静かに呟いた。

臭いにおいが立ち込めた納屋の中で、山羊の子はよろよろと細い足で立ち上がっている。母山羊はその体に付いた膜をなめ取って、綺麗にしてやっている。数時間も続いた苦しみの後に、もう子供の世話ができるなんて、動物というのはなんと強いものなのだろう!

「戦士としてもあんなに強いのに、お茶だって私より美味しく淹れられるし、家畜のお産もできてしまうし……それに比べて、私はダメですね。町育ちだから、家畜の世話も不慣れで。いつも誰かに助けてもらって」

ノーラがこの村にやってきたのは、父と、結婚したばかりの夫を流行り病で亡くしたためだ。
父の弟が住む村に、ノーラはしばらくの間世話になることにした。だが、あまり接点のなかった叔父夫婦や従兄弟と、急に仲良くなれるはずもなかった。
ノーラは、王都からの伝令が来るような大きな街で生まれ育った。針仕事はできても、牛追いはできない。籠を編むこともできない。それに、村のなまりもまだ覚えられない。はっきり言って、無駄飯食らいに近かった。

(役に立たない女)

早く次の嫁ぎ先を見つけなければならないのに、来る縁談にどうにも乗り気になれない。
その理由は、隣に座っている男だった。

初めてユーバーを見たとき、ノーラは幻だと思い、二、三度見返した。ユーバーの造形は抜きん出て美しく、人であることを信じるためには、直接言葉を交わさなければならなかった。
聖教にいう天の御使いは、壁画ではなくユーバーの体で表すことが出来る。それだけではなく、ユーバーは抜きん出て強い男でもあった。家畜を狙うモンスターが、ここ最近さっぱりと現れないのは、ユーバーが近辺の森全てを狩り尽くしたからだという。

そんなユーバーと、美しくも若くもないノーラではとても釣り合わない、ということは、重々承知していた。だが、ユーバーはノーラでなくとも、村のどんな美しい、若い娘にも振り向きはしないだろう──それは大きな慰めだった。
彼は御使いであり、およそ、恋や愛、あるいは金や銀への欲望や執着を見せたことはない。全く清廉で、侵し難い聖域のようなもの。村の子供は、本当に彼が御使いなのだと、信じている者も何人かいる。

「……ですが貴女は、僕より針仕事ができるでしょう」
「針なんて、誰でもできます」
「貴方の刺繍は、とても綺麗だ。村一番の婚礼衣装をもらえて、ハンナは喜んでいたよ」

ユーバーは静かにそういうと、その言葉がノーラの心に染み込むのを待って立ち上がった。

すっかり自分ひとりで生まれてきたかのような顔をして立っている子山羊を眺め、彼はふと微笑む。ノーラも慌てて立ち上がった。村では、仕事はいくらでもある。山羊のお産を終えたなら、煮炊き、籠編み、藁乾し、厩舎の掃除、水汲み──その半分も、ノーラは満足にできないが、

ノーラはユーバーの存在に救われている。
彼が、ノーラと同じく、村で生まれた者ではないからだ。数年前に何処かから流れてきた、素性もしれない青年。しかし、流れ者であっても、村に受け入れてもらうことはできる。その希望があれば、自分の立場にも耐えることができた。

「ユー、」

ノーラの呼びかけを遮ったのは、かあん、かあん、かあん、とやかましく非常事態を告げる鐘の音だった。
それが鳴るのは、ごく限られたときだけだ。家事があったか、大型のモンスターが現れたかだ。そのどちらにしても、ここでのんびりとはしていられない。

ノーラは、機敏に駆け出したユーバーの後を追って納屋を出た。
鐘のつるされたやぐらの下にまで走っていかなくとも、大口を開けた村人が吠えているので状況はすぐにわかった。

「森の中に逃げろ……! ハルモニア兵が来たッ!!!!」

ハルモニアは、敵対する異教徒に容赦はしないと聞いている。跪いて命乞いをすればどうにかなるものではないのだろう。

ノーラは立ち尽くしたが、ユーバーは反対にもっと加速した。
近くの民家の塀の脇においてあった巻き割り用の斧を引っ掴み、村の入り口の方へと駆けて行く。もう、ハルモニア兵の銀色の鎧は村の中まで入り込んでいた。馬の蹄の音。悲鳴。土ぼこり。
ユーバーは大きく斧を振りかぶると、走りながら先頭の馬の脇をすり抜けた。

ぼんっ、と焚き火の中で栗がはじけるような音がして、馬の首が跳んだ。

投げ出された兵の首が、勢いと兜の重みで折れる。
ユーバーは、薪割り用の斧を軽々と振り回した。一振りで既に鮮血の尾を引くようになったそれを、目に付いたハルモニア兵へ手当たり次第に叩き込んでいく。どごん、どごん、と、とても斬り合いではないような音が響いた。

あっと言う間に、ハルモニア兵はユーバーを一番の危険人物と見定めたようだった。
呼び笛が鳴り、彼を囲むように弓が構えられる。四方八方から射られる矢にノーラが息を呑む前に、ユーバーはそれを全て避け、あるいは手で払い落とした。魔人のような反応だった。

「!」

ユーバーは、どこかを見定めて一直線に向かっている。
それは指揮官だ、とノーラでさえ思いついた。だから、その場にいるハルモニア兵の半分くらいはユーバーの進行方向を遮ろうとし、残りの半分はそこから逃れようとした。

ノーラは無意識のうちに、ユーバーの後を追っていた。
危険な行為だとは気付かなかった。ノーラが危険であれば、ユーバーはもっと危険な場所にいるはずなのだし、彼を盾にして反対の方向に逃げ去ることはとても卑怯な行為である気がした。
そういった小難しい理屈をつけずとも、ただ、単に、ユーバーが心配だった。いくら彼が魔人のように強くても、何人もいるハルモニア兵に勝てるはずがない。

「──ノーラ!!」

ユーバーが振り向き、大きな声で何か叫んだ。ノーラの名前だった。
はっ、と彼女が横を向くと、ハルモニア兵のもつ凶器が彼女の首か、あるいは胸のあたりに向かって振り下ろされるところだった。脅しではない。獲物を生命から肉塊にするための、はっきりとしたその動き。

「────」

死の瞬間には周囲の光景は間延びして見えるものなのだと、誰に教わらずともノーラも知っていた。
しかし、己の死の瞬間など見詰めていたくはない。彼女はぎゅっと目を閉じたが、その寸前、何か黒いものが彼女の目の前を覆った。

ぐじゅっ

水っぽい泥が叩き潰されたような音がして、ノーラの顔面に生温い飛沫が降りかかった。
ユーバー、と彼の名を呼ぶ村人の絶望の叫びが聞こえた。そして、ハルモニア兵の湧き上がる歓声。

ノーラが目を開くと、そこは地獄だった。

プラムウッドの青い草の上に、何か黒っぽいものが沢山飛び散っている。彼女もまた、絶叫した。

「きゃあアアアアアアあああああああああああああああああああアアアアアアァあああああッ」

ユーバーは、ハルモニア兵のハルバードで頭蓋を打ち砕かれていた。

彼の美しかった髪や、顔が、鈍器の下で半分押し潰され、しかしまだ、彼の体のほうは彼女を守るかのように立っている。

ユーバーが倒されれば、この村を守る力はもう何もなかった。
彼の頭から引き抜かれた鈍器が、再び、ノーラの頭上に振り上げられる。

ぼんっ

鈍器は、それを振り上げた腕ごとどこかに飛んでいった。
薪割り用の斧が、機敏に動いて今度は首を刈った。しかし誰も、何が起きたのか、しばらくは理解しなかった。

「ばっ、」

それが答だった。

「化け物……!」

恐怖ほど早く伝染するものはない。
ハルモニア兵は馬首をめぐらせ、背中を見せた。馬から転げ落ちた者は走った。その背を、半分顔面が潰れた『死体』が──死体でなければならないはずのものが──追う。ぼんっ。ぼんっ。
しかし、視界が利かないのか、『死体』は深追いはしなかった。

村に踏み込んだハルモニア兵が撤退を選んでいるのを知ると、元はユーバーだったはずの化け物は足を止めた。
そして、くるり、と、村の中のほうを振り向いた。

「……!!」

割れた頭蓋からどろりと染み出る黒ずんだ液体。残ったほうの目にだけ、まだ美しさがあるのが尚更気持ち悪い。
大きな悲鳴が上がったのは、仕方のないことだっただろう。そして、化け物の姿をみた人間が、悲鳴を上げて逃げ出したのも。


村人は恐怖に顔を歪めていた。ハルモニア兵に追われているときよりも酷いくらいだった。
ハルモニア兵に殺されたなら、死ぬだけだが、化け物に殺されたなら、もっと悪いことにならないとも限らない!

「────」

化け物は、握っていた斧の柄を離すと、脇の土手の上に放った。
彼の顔には、どんな表情も乗っていなかった。ノーラから見える横顔には、怒りの色も、悲しみの色ですら見えなかった。

そして化け物は──ユーバーは、少しだけ頭をめぐらせて、礼拝堂の方をみた。

「!」

その途端、ノーラは奥歯を噛み締めて、その震えを押さえ込んだ。
このまま彼を行かせてはならない。このまま──何一つ、喜びも、礼も、救いも得られないまま、歩かせてはならない。

かわいそうだ、とノーラは心底から思った。

それは、ユーバーを愛していたからこそ出た思いかもしれない。他の誰かが化け物であれば、やはり彼女も悲鳴を上げて逃げ出したに違いない。
だが、だからと言って、彼女の勇気が貶められる理由にはならなかった。愛している、それだけで、全てを受け止められる人間がどれだけいるだろうか。

勿論、彼女は、ユーバーを直視していたくなかった。だが、彼女は目を逸らさなかった。見た。──微笑みすら、した。引き攣った唇で。

神の前に罪はなし、神の前には全て同じ。

「……ユーバー……」

ユーバーは、礼拝堂の方角から、ノーラに視線を移した。
そして、いつものように静かな声で、ノーラに語り掛けた。

「祭りは出来なくなってしまった」
「……そうですね」

ノーラは必死で、いつものように返した。必死だったが、平気でもあった。
愛せない筈がない。彼は、村のために戦ったのだ。ノーラを守って、頭を割られたのだ。ノーラを庇わなかったら、化け物だということも隠し通せただろうに。

ユーバーは近付いてくるノーラに、無表情のまま言った。

「逃げないでいてくれてありがとう」
「……お礼、なんて」
「怖がらせると思ったから、秘密にしていたんだ。でも、もう、隠し通せないな」

別れの気配を感じ取り、ノーラの足は速まった。

「待って」
「?」
「待って。行かないでください」
「……どうして?」

どうしてか?
ノーラは、ユーバーのために何でもしてやりたかった。彼の境遇は孤独過ぎる。
ユーバーには寄り添える誰かが必要だ。暖かな安らぎが、せめて、恩には恩で報いられることが必要だ。救った相手にさえ恐怖され、世の中を流れていくしかないなどと、そんな風には生きていってほしくない。
何でもしてやりたい。その思いを、どんな言葉で伝えたらいいのだろう?

「このまま行かせられない。私は、貴方の助けに、」
「────」
「貴方を──貴方を、救いた、」



ノーラは、その言葉を言い終わることができなかった。
舌がしびれて、凍り付いたように動かない。

彼女の目の前にいるのは、彼女の知るユーバーではなかった。

化け物が、彼女の目の前に立ち、大きな影を作って、日差しを遮っている。ユーバーの表情はもう見えない。真っ暗な影の中、片目だけが真っ赤に膨れ上がって、穴のようになり彼女を見詰めている。

「……俺を救いたい、だと?」

ククククク。アハハハハ。ウフフフフ。アッハッハハ!!!

「すまないな。そんな夢を見させてしまって」

救いたいだと!
救いたいだと!!

──ああ、どうやって救いたいんだ!!!!


俺を救いたいと言うなら一千年生きてみせろ血反吐を吐いて這い蹲りながら骨を折って腐肉を喰らって数千年歩いてみせろオレの殺した幾千人を蘇らせてみせろ僕の心臓を切り開いて抉り出して踏み躙って踏み躙って踏み躙って私をとうとう殺してみせろ!! そんな事出来やしないくせにこの虫けらめ」




「……ようやく怖くなったのか? ああ、すまないな、この、虫けらめ」






















アルベルトが自室に帰ると、扉を開けた途端、とても酷いにおいがした。

「……ユーバー」
「何だ」
「水浴びくらいして来たらどうだ」
「嫌だ」

アルベルトのほうを見もしないまま、彼のベッドの上でパズルに勤しんでいる悪鬼の尻を叩いてやる気にもなれず、アルベルトは溜息を吐いた。
どちらかというと、アルベルトは自室は綺麗にしておきたいほうである。だが、ユーバーを風呂に放り込んでやる手間を省いたとしても、召使が後で全て適切に処理してくれることにも間違いはない。

結果、彼はユーバーのわがままを放置することにした。

「そうやって寝転がって怠けているくらいなら、手伝え」
「ふん。構わんぞ、今は暇だ」
「お前はいつも暇だろうが……現在は、異教徒の国、山羊飼いのハッシンベル王国を攻略中だ」
「何処でもいい。戦があればな」

いい暇潰しになる。

そう呟いて、ユーバーはぐうっと伸びをしてみせた。