チェス。

指手は2人。
駒は6種。
持ち駒は16。全体で32。
盤の桝目は64。
最初の1手の可能性は400通り。
理論上在り得る打ち筋は10の120乗。つまり、

1,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,
000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000.


たとえば1兆年は、約3,153,600,000,000,000,000秒。10兆年なら、0がひとつ増える。
10兆の生物が、10兆年を過ごしたら約31,536,000,000,000,000,000,000,000,000,000秒。
100兆の生物が、100兆年を、100兆回繰り返しても、たったの315,360,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000秒くらい。

この世に実在する何を数えても、チェスの盤面を埋められない。










『盤上遊戯』










ユーバーは長い間生きているから、当然、駒を指したこともそれなりにある。

チェスは知的遊戯の王様だ。何処の街にもチェスの強者はいるし、何処の国でもチェスの王者を名誉に思う。その鮮やかな手並みや、歴史的な名勝負に憧れ、また多くの人間がチェスを学び始める──この繰り返しだ。

「────」

ユーバーはしばらく考えて、王を1歩動かした。

指し手は基本的に、なるべく陣を広く取ることを考える。そしてその逆に、なるべく相手が踏むことのできる桝目を減らすことを考える。支配する領土が大きいほど、有利になるというのは子供でもわかる理屈だ。
だから大抵の勝負は、崩れない足場を確かめながら一歩一歩進んでいく、じりじりとした鍔迫り合いになることが多い。先にミスをした方が負け──まるで、『普通』の枠から一歩食み出ることを、人生を全て台無しにする致命的な傷だと考えてしまう生真面目な優等生のように。
その定石を捨てることが出来るのは、自分に自信のある者だけだ。

チェスの打ち筋には個性が出る。
防御を優先する者。果敢に攻める者。奇策を得意とする者。形振り構わぬ特攻を仕掛けたがる者。手駒の取り合いが好きな者。相打ちに持ち込むのが上手い者。

「────」

城砦が前に出てくる。
厚く高く組まれた壁を突き崩してみるか、と一瞬考えたが、どうにも分が悪そうだ。特攻は趣味ではないユーバーは更に考え、絡め手から僧正の脱出を試みることにした。

年の功とでもいうやつか、ユーバーはあまり、チェスには負けない。ユーバーにとって、単なる人間は子供のようなものである。
それでも、たまに子供に負けるときはある。たとえば、シーザーと戦ったときがそれだ。何年か前、手慰みに相手をしてやったら、思わぬ逆襲を受けて噛み付かれ、落とし穴に落っことされた。その上から煮えたぎった油を浴びせられ、終いには土まで掛けられて埋められた。

意外だ、と思った。

常のシーザーは──あまりよく観察するまでもなく──怠惰で、適当で、斜に構えていて、火であぶったって沸騰しないとでもいうような少年だった。しかし、彼の打ち筋は、そんな印象を裏切るほどに、ぞっとするものだった。
確かに、ほとんどの場合は、シーザーはチェスゲームでも同じように振る舞った。怠惰で、適当で、千鳥足でもたつくようないい加減な戦略。しかしそれは、騎士が弱い者と剣を交えることを嫌うのと同じことだ。
相手がそれなりに「できる」と理解した次の瞬間から、シーザーは豹変する。もぐらが虎に。くらげが鮫に。本来のシーザーの打ち筋は、彼の生活態度からはかけ離れて躍動的だった。大胆不敵、という形容が丁度、シーザーは盤の上では好戦的な君主だ。引き分けなど有り得ない! 王の首を取れ! 完膚なきまでに叩きのめし、敗北を認めさせろ!

『その程度の才能じゃ、俺とは戦わない方がいい』

真剣に駒を指しているときのシーザーの緑の目は、傲慢なものだった。凄惨さはなくむしろ明るくて、楽しそうに相手を見ながら容赦なく相手を打ち倒す算段をしている、あのきらきらとした目付き。

腕に覚えがあればある程、シーザーと対戦し、そして敗北した指し手は立ち直るのに時間が掛かる。回復するまで六ヶ月、一年──あるいは、二度と駒を握らない者も? シーザーは本気を出せば容赦はしなかった。チェスというものの本質が、相手の心を折る戦いであることをよく理解し、それに相応しい所業をした。

アルベルトは違う。

「────」

僧正は脱出できる、とユーバーは見込んだが、その行く手に対する不安は拭えなかった。その脱出経路が、巧妙に誘導されているようにも感じたからだ。
ユーバーは次の一手を迷った──そのまま数分が過ぎる。それでも迷う時間として、十分とはいえない。行軍は、少なくとも十数手、多ければ数十手先、まれに百数十手先まで読んで行われるものだ。この一手が妙手か悪手か、その最終的な判断が下せるのは大抵、勝負がついてからである。

正解はない。
無数の選択肢の中からひとつを選ぶ。完全な自由に近い──そんな錯覚すら覚える無限の可能性だ。

ユーバーは騎士を一気に駆け上がらせた。めちゃくちゃにしてやる。

「────」

手袋に包まれた指先が、ゆっくりと優雅に、駒を繰る。騎士に怯えている様子もないが、その代わり、侮っている様子もなかった。シーザーなら、こんな挑発にはもっと違う反応をするだろう。アルベルトの反応は、どうにも鈍い。
差し出された兵士の駒が、かつ、と、小さく音を立てた。

アルベルトの打ち筋は、シーザーと比べてみると、ぱっとしない感じだった。劇的な盛り上がりに欠ける、いかにも優等生然とした指揮。綻びは少ないが、ただ、それだけだ。特別な才も、奇抜な策もそこには見えない。個性がないとさえ言える。

おそらく、何も知らない第三者が外から見れば、シーザーの方が、アルベルトよりも明らかに強い指し手だと評するだろう。
しかしそれは誤りだとユーバーは知っている。シーザーは、駒の指し手としてアルベルトに勝つことはない。

(……コイツとチェスを指してもつまらん)

ユーバーがシーザーと十度勝負をしたら、そのうちの九度は圧倒的に惨めな敗北を喫するに違いない。
しかし、アルベルトとは、百度戦って百度負けるはずだった。僅差で、それとも劇的に? どうでもいい、どんな展開になっても、必ず百度負ける。

一と一とを加算すれば、二以外に有り得ない。
どれだけ複雑な計算を繰り返そうと、数式であれば答は必ずひとつであるように──そんな風に、アルベルトは全くつまらない勝利を収める。そこに感動はない、ただの結果だ。

知的遊戯でアルベルトに敗北することは、雨が降ったら濡れることと同じなので、口惜しく思う気すらおきない。ただ──

(何故そうなるのか、ということだけがわからない)

問題はそこだった。
ユーバーがこうして、底の抜けた柄杓で水を汲むような面白くない勝負をしているのも、その仕組みが知りたいからだ。種がわかれば、魔法は解ける筈である。

もしかしたら、と思っていることはある。
だが、本当にそれが出来たとしたら、アルベルトという男は化け物ですらない。

理論上、法則のあるゲームには必ず勝てる選択が存在する筈なのだ。全ての盤面を把握してしまえば、それは明らかになる。
ユーバーはふと口を開いた。

「貴様は、チェスの盤面をいくつくらい覚えているんだ?」
「いくつ……と言われてもな」
「……全てではないだろう?」

アルベルトは微笑んだ。まるで、ユーバーからチョコレートでも勧められたかのような反応だった。

「出来ないと言わせたいのか」

ユーバーは打ち手を間違えたことを知った。これでは、ユーバーの知りたいことの話にはならない。溜息を殺して、ユーバーは全く興味の失せている盤上に視線を戻した。

そう、出来ない。出来ないに決まっているのだ。
それなのに、それが出来なければ出来ないようなことが、何故アルベルトには出来るのだ?

















チェスの駒に触りながら、実際のところ、アルベルトはチェスの盤面にはそれ程気を配っていなかった。
ユーバーの相手など、片手間でも出来る──というわけではない。

そうではないのだ。

(お前の方がチェスの腕は良い……そう言ったら、皮肉だと思うのだろうな)

アルベルトはそう思いながら、騎士を動かし、兵士を討ち取った。羽のように軽々と、幻の戦場の上で首が飛ぶ。ユーバーの眉が寄せられるのを、アルベルトは目の端で確認する。

チェス。知的遊戯の王。国の智の栄誉を賭した争い。その魅力と恐怖に取り付かれ、破滅する者もいる。数え切れない程の選択肢、新しい創造──チェスを知れば知るほど、その奥深さに人は溜息を吐く。無限に続く可能性の羅列。
しかしその正体は何だ?

(ただの遊びだ)

アルベルトがチェスに傾けた情熱は、同じシルバーバーグの一族と比べても余程少ない筈だった。アルベルトが暗記している譜面の数など、祖父にも劣る。怠け癖のあるシーザーと比べても、多いかどうか。

それでもアルベルトは、9つを越えてからはチェスに負けたことはない。
チェスの天才だから──ではない。

「チェック」

チェスの指し手は盤を凝視し、少しでも多くの可能性を読んでいく。王の動きは。女王の動きは。城壁は僧正は騎士は?
アルベルトはそうしない。相手の駒の歩みなど、そんなものは、 こちらが決めてしまえばいいのだ・・・・・・・・・・・・・・・

ユーバーは王を動かし、迫る刃から逃れた。
しかし、それが悪あがきでしかないことに、賢い彼はすぐに気付く。数十手先でチェックメイトだ。ユーバーは自ら王の頭を人差し指で弾き、盤から突き落として断罪した。

(──諦めが早い)

それはユーバーの癖だ。
しかも、彼は勝利に対する執着が薄い上、危険をすぐに察知する。アルベルトが策を匂わせるだけで、彼の選択肢はみるみる狭まっていく──選択肢がないのではない。彼が、それを選んでしまうだけだ。彼の知らないうちに、アルベルトの知るところで。

自らの知らないチェスの盤面など、たとえ無限にあってもアルベルトは困りはしない。
結局、選ばれる盤面はひとつだ。残りの盤面など使わない。チェスが可能性の化け物だとしても、人間の思考は有限なのだから。

アルベルトは勝つために、ユーバーやシーザーより強くなる必要は無い。
彼らが思い込めばいい。アルベルトには勝てないと。

「つまらんな」
「そうか?」
「貴様とチェスをすると、味気ない気分になる。……腕を競う楽しみなど何処にも無い」

ユーバーは、動物的な直感が鋭いとアルベルトはいつも思う。
彼の感覚はそのまま正解であることを教えてやる気は無いが──その通り、アルベルトはチェスを指しているつもりではないのだ。競えるわけがない。

「すまないな」

ユーバーが見ているのは盤の上の駒。アルベルトが見ているのは、今、目の前で椅子に腰掛けている駒だ。

おそらく、それは明らかな『ずる』だろう。ユーバーは、かわるがわる一指しずつ、ひとつずつしか駒を動かせないにも関わらず、アルベルトは好きなときに好きなだけ駒に干渉することが出来るのだから。語り掛け、目を合わせ、手や指や腕や足や首や顔の筋肉を動かし──たまには本を捲ったり、紅茶を飲んだりして。

「だが、俺が負けては話にならないだろう」

チェスは遊びだ。
しかし、アルベルトにとって、盤外の世界は遊びではなかった。生きているとき、そして起きているとき、アルベルトは他人と言う名の駒を指し、勝利していなければならないのだ。それをやめることは出来ない。

チェスに勝つために努力したことなど、アルベルトはない。
だが、今まで歴史に名を残した指し手がチェスに注いだどの努力よりも、アルベルトが この勝負に勝つために費やしたものの方が上だろう。

この世界が盤だとすれば、アルベルトの相手は歴史。
その流れがアルベルトの思い通りになるということを、信じさせなければ勝てない。

無謀な勝負だと我ながら思いながら、アルベルトは自分の大事な駒の機嫌を取ることにした。内心を見通させない、裏のある表情で、ユーバーの興味を惹く話を一言、二言。

さて、自分が『知っている筈』のチェスの盤面は、三億通りくらいでいいだろうか? 三千億通りと言っても信じるか? あるいは──全能すべてと言っても?

(お前はもう、半ば信じているだろう? 俺が負けることなどないと)

初対面の相手と、壁を挟んでチェスを指したら、アルベルトは呆気なく負けてしまうかも知れない。
だが、そんなことはアルベルトにとって、ちっとも問題ではないのだ。

負けるようなゲームなら、始めなければいい。現実に負けなければ、誰もアルベルトの敗北を証明出来ない。

「貴様、一体、ゲームに負けることがあるのか?」
「あまり記憶に無いな。……これからの事は、どうにも言えないが」

嘘だった。
アルベルトはこれからも、己にとって都合の悪い選択肢など相手に選ばせることはない。















飽きる程に騙し通しても、他人はアルベルトにまだ騙される。
神を信じる者でさえこれだけいるのだ、『アルベルト』程度、信じさせることも全く不可能ではなかった──誰も、アルベルトに勝つことはできないと。

だが、本当にそうだろうか?
果たして自分は全てを騙せているのだろうかと、アルベルトは考える。そして、己の脳裏にある盤面を挟んで相対している、紫がかった赤い髪の男の目をそっと覗き込む。

「────」

その男の目は暗く深い緑色をしていて、アルベルトを少しぞっとさせるのだった。
彼に『アルベルト』を信じさせるためには、一体どんなゲームに勝てばいいというのだろう。この男を騙すために、何をすれば。



(ユーバー、本当に俺は負けないと思うか?)



『アルベルト』を信じるために、アルベルトにはそう言ってくれる誰かが必要なのだ。