ひい、と裏返った声を上げて後ずさる人影を、ユーバーは特に感動もなく眺めた。

胸の真ん中に突き刺さった刃をずるりと引き抜くと鈍い痛みが走ったが、顔を歪めるほどでもない。引き抜いた刃は月光の下では黒々としていて、それが血であるのか、何か他のものであるのかはあまり判別出来ないように見えていた。いや、ユーバー自身は、それがどちらであるか知っているのだけれど。

「き、吸血、鬼……?」
「違う」

ユーバーは人間の血を吸わないし、日光に弱いわけでもない。
だが、そんな詳細な分類は、顔を引き攣らせている男にはあまり関係のないことなのだろう。吸血鬼ではないにしろ、ユーバーは人間でもない。

同族か、それ以外か、ということを、大抵の者はやたらと気にする。
同族であれば、危害を加えられないというわけでもなかろうに。化け物が人を殺した数より、人間が人を殺した数の方が余程多い筈だ。
勿論、己が人を殺した数は、そこらの人間とは比べ物にならないことだって、ユーバーは忘れていない──けれど、どうせユーバーが人を殺さなくとも、優しい性質だったとしても、彼らの反応は同じだろうから、問題とは思えなかった。

ユーバーは寝台から離れた。途端に、弾かれるように戸口へ駆け寄った男の足を払って転ばせる。
仲間が居るかと思っていたのだが、この男ひとりのようだ。つまりは、ユーバーだと思って攻撃してきたわけではないということだ。


ユーバーは溜息を吐いた。
行き届かない峠には、こういった宿も多い。旅人に薬の混じった食事を出し、殺して金品を奪うのだ。
ユーバーには薬は効かない。この程度では死なない。だから、大した実害があったというわけでもないのだが、胸に剣を刺されて優しくしてやる義理もなかった。

転がったままぶるぶると震えている男をユーバーは見下ろした。彼の目に、己がどう映っているのかは良くわかっていた。理解が出来ない、太刀打ち出来ない、化け物。
そろそろ失禁でもするのではないかとユーバーは思い、むしろ穏やかに囁いた。

「──貴様の恐怖を消してやる」
「待っ、」

す、と刃を横に振り切ると、男の首が落ちた。
大動脈を切断すると鮮血の噴水は天井まで届くが、すぐに勢いを無くす。ごろりと横たわった男の体の脇を通って、ユーバーは部屋の外に出た。そのまま階段を下り、宿を立ち去る。

男の宿に泊まった今までの客に運が無かったとすれば、ユーバーを泊めた男に災厄が降りかかっても何の不条理もない。物語であれば、これはむしろ、丸く収まった、とでもいうのではないか。
当然、男の立場であれば、化け物に殺されるいわれはないというだろう。だが、怒ったところで何が出来る。憎んだところで、呪ったところで──

──運命は何も、変わらない。嵐は去らず、高波は打ち寄せる。
悲劇が起ころうが、惨劇が起ころうが、何もかもに理由をつけようとすることがおかしいのだ。

覆い被さる木の枝が月の光さえ遮り、前方は暗い。後方も暗い。左右も勿論暗い、そんな闇の中でユーバーは囁いた。

「……貴様らに恐怖はあるのか?」

獣道を歩くユーバーの脇に、気配が湧き出ている。
人の血の臭いを嗅ぎつけた肉食獣だろう。複数であることからして、野犬だとユーバーは見当をつけた。

足を止めた瞬間、背後から襲い掛かってきた四足の動物の頭を、ユーバーは振り返らずに剣先で突き刺した。

ぼじゅっ

その一撃は、機を見計らって彼らが飛びかかるより、ユーバーが袖の中から剣を出すほうが早いことを充分証明していた。ならば、剣を用意してからなら尚更ユーバーの方が有利である。
その事を理解する前に、既にユーバーに向かってきてしまっていた二匹は、あっという間に切り裂かれた。残りの獣は、何とか踏み止まったようだった。

二本足でも、四足でも、斬れば死んで血が流れるのは同じである。
ユーバーは一本だけ出した剣をぶらぶらと振りながら、静かに呟いた。

「……恐れるか?」

ユーバーを取り囲む獣は、予想通り犬の一種だった。キラードッグだ。
彼らは円形を描き、身を緊張させていたが、飽きたユーバーが一歩踏み出した途端に一目散に逃げ出していった。血が流れるのと同じように、犬でも、人でも、ユーバーを恐れるのは同じ。

血の臭いに引き寄せられたものを斬り、また血の臭いが増えるのであれば悪循環だ。
ユーバーには、暇なら有り余るほどあったから、闇のなかから何が襲ってきても構わないが──相手のほうは、もっと構えばいいのにと思った事はある。ユーバーに殺されるよりも、もっと有意義なことはいくらでもあっただろうに。

がさがさと草を踏み分けながらユーバーは夜通し歩いた。
かといって、朝日が昇れば休むというわけでもなく、そのままだ。ユーバーはその気になれば空間移動をすることも出来たが、どこかを目指すことは、殆ど歩くこと自体が目的となっているのでそんな力は使わなかった。

時間を費やすのに、歩くというのはそう悪い選択でもないのだ。
ユーバーは疲労することはあっても、睡眠は必要としない。本当に、一日中、ユーバーは自分の好きに動くことが出来る──動かなくてはならない──その分、暇潰しの方法も余計に必要になる。

睡眠が不要だということは、昼夜の役割も希薄にする。太陽と月は、ユーバーにとって明るい暗いの意味しかなかった。つまり、ユーバーの生活には区切りというものがなく、そのまま流れていくのである。
今日と明日は連続し、昨日と今日も連続している。だから、数十年前のことだって、ユーバーにとっては昨日とあまり変わらない。そして、昨日あったことも、ずっと昔にあったことも、ユーバーはあまり思い返さないのだ。

覚えていない、というわけではない。だが、気に留まらない。おそらくそれは、膨大な記憶を抱えるユーバーの心を一番上手く動かせるやり方なのだろう。

「────」

山を下り、森を抜け、川を横切ると、そこは一面なだらかな丘陵になっていて、小麦の畑が段々に作られていた。きっと、美しい、と言える絵なのだろう。

牧歌的な光景の向こうには、小さな村があった。

ユーバーは物を食べる必要などないし、疲れてもいないので、村に立ち寄る用事は特にない。それでも、黙って黙々と歩いているよりは変化がある事は確かで、ユーバーはそちらに足を向けた。人と会話をすることも、別に嫌いというわけではない。

麦畑は金色。空は青色。
見えている筈なのに、それはもう、知っているだけの知識になりさがっている。歩き続けるうちに景色は色褪せて、たまに、停止しているようにすら思えた。動くものはなく、息をするものはない、ぞっとする光景だ──秩序が支配する、灰色の世界。
これも、いつか来るべき運命。

恐れるか?

自答はしないまま、ユーバーは歩を進めた。そういった、辛気臭いことを考えると頭が痛くなる。ユーバーは多分、あまり何も考えないほうがいいのだ。ただ、忘れられることはないのだった。まさに視界に突き付けられてしまうのだから。

嫌なもののかわし方だけはどんどん上達する。さあ、頭を空っぽにして、どうにだって用意できる金を使って、酔えない酒を飲み、下らない言葉を交換することにしよう。価値あるものを積んでもどうせ思い返さないし、けれど静寂だけでは寂しいから。

だが、頭から様々な返り血を浴びたままだということをとうに忘れていたユーバーは、結局村に恐怖を振り撒くことになった。











『休息』










アルベルトの部屋に転移すると、そこは無人だった。

蜀台の火のない空間は真っ暗だったが、ユーバーはすいすいと机や棚を避け、寝台にごろりと寝転んだ。靴の泥も、血糊も落としていない。文句を言われるかもしれないけれど、気にすることではなかった。

呼ばれてはいないが、この部屋はユーバーにとってはかなり使い勝手のいいところだ。
まず、人間は入ってこないし、獣も入ってこない。外に出ていると、寄ってくる生き物の半分くらいは結局殺してしまうユーバーにとっては、たまにはこういう場所も必要なのだ。それに、アルベルトはかなり裕福な生活をしているから、この空間はいつも綺麗で、過ごしやすいように整えられている。少しくらいユーバーが散らかしても、次にはまた元通りだ。

「────」

寝台に乗って目を閉じていても、ユーバーに眠気は襲ってこない。

眠るふりはできる。目覚めるふりも。付け加えれば、ユーバーは眠ったふりがとても上手い。
だから、ユーバーが眠らないことを知る者は然程多くない。同族くらいだ、この感覚がわかるのは。

どれくらいの時間が経ったか、アルベルトが部屋に帰ってきた音がした。
扉を開ける音、蜀台を置く音、暖炉の火を確かめる音、部屋を横切る音、コートを脱ぐ音、そして寝台に近付いてきて、溜息を吐く音。

ユーバーはそれらをつぶさに聞いたが、そこには、躊躇いや警戒の所作は感じ取れなかった。
いや、いつもよりも動きがのたくさしているくらいだ。

「……ユーバー」

呆れた声音が振ってきても、光に顔を照らされても、ユーバーは目を開けない。ただ、眩しい、とばかりに眉を顰めてごろんと背を向けた。ぐずる子供の動き。

「起きろ、ユーバー」
「…………」
「起きろ」

ユーバーは不明瞭な声で呻いた。

「……どうせ、貴様は……数日眠らんでも、平気だろうが……」
「駄目だ。丁度今、俺は、」

妙なところで言葉が途切れた、と思った次の瞬間には、アルベルトの頭が勢い良くベッドに墜落した。

ユーバーが横目で見ると、床に膝をついたまま、柔らかな毛布に顔が完全に埋没している。窒息するのではないかとユーバーは思い、数秒考えてから、身を起こした。
脇に腕を通し、ずるずるとアルベルトの体を寝台に上げてやる。彼が持っていた蜀台の火は、既に床の上で消えていた。

「────」

どうやら、その『数日』とやらはとうに過ぎていたらしい。それにしても、この男は本当に眠り方が下手で、ユーバーはからくり人形でも見ている気分になる。人間ではないような錯覚を起こすのだ。
活動を続けた日々の眠りを取り返すように、アルベルトの睡眠は深い。これはもう、死体で──寝ている間は本当に、何をしても起きないのではないかと思う。腕を切り落としても、足を引き千切っても。

アルベルトの寝息は静かだ。何をしても抵抗の欠片も出来ない状態で、眠っている。
ユーバーは自分自身に確認するように考えた。

(こいつは、恐れていないような気がする)

けれど、きっとそれは違う。そうでないと、ユーバーは多少不愉快だ。ユーバーが怖くないなんて、それでは何だか、あなどられているようだし、操られているようでもあるから。
それでも、アルベルトのやり方は上手だった。それを認めないわけにはいかず、ユーバーは益々不愉快になった。事実が何処にあるにしろ、彼はそれを彼が描くとおりの真実に見せかけることが出来るのだ。

実際──

(恐れていないような気がする)

そんな気がすることを、ユーバーは認めざるを得ないのだから。

ユーバーはこの部屋では割と穏やかで、殺人を犯したこともない(ここはアルベルトの部屋で、彼はまだ生きている)。アルベルトと会話することは割と楽しくて、事実から目を逸らしても別にいいかと思う。

虚構ばかりだとしても、現実よりも楽しいなら、それはそれでいいのだ。
現実はもう見飽きた。

(……それなりに過ごしやすい)

傍らで眠るアルベルトから、温度が伝わってくる。それだけに着目し、ユーバーはどうしようもないほど冷え冷えとした虚ろなものが胸のうちにあることからは目を逸らしている。それがユーバーのやり方だ。
考える事をやめて、瞼を閉じる。

(休んでいる気がするんだ)

本当は必要無いのに。







ユーバーは眠るふりをした。
どうしてこんな事が上手くなってしまったのかは、思い返さない。