作り出したガラスの断面で脚の縄を切断するのに、またかなりの時間が掛かった。何かを切るための道具ではないのだから、仕方のないことだ。

焦りは全てを鈍らせる。だから、アルベルトは焦ってはいなかった──着実に進めればいい。どんな勝負も、浮き足立ってはならない。たっぷり半刻、アルベルトは縄と、そして硝子の切っ先と挌闘した。

「────」

両足が自由になれば、後は早い。

アルベルトはシーザーを毛布に包み、敷布で背負い紐を作って背負った。
残った敷布に銅の杯、蜀台と蝋燭、暖炉に刺さった乾いた木切れを包み、腰に下げる。余った布は両手に巻く。

窓から下に垂らした縄を両手で握って滑り降りる。ほぼ墜落する気分だったが、ざらざらした縄の摩擦はアルベルトの腕の力を底上げしてくれた。
シーザーはやはり、泣かなかった。それどころか彼はまたアルベルトの背中でうつらうつらとし始めている。よく育ちそうだな、とアルベルトは逆に感心した。

まだ陽は落ちていない。
建物は切り立った斜面に接して建っており、その他の三方は街に通じる山道を除いて全て森になっていた。

ここまで馬で一刻以上かかったのだから、帰るにはアルベルトの脚で二日は必要だ。山道を下れば追いつかれる。
ただ、このまますぐに目の前の木々の中に駆け込み、明るいうちに夜を越す場所を見定めれば、隠れることは出来るだろう。たったそれだけで、アルベルトの死亡確率はぐんと下がる。

しかし、アルベルトはまだ、逃げるわけにはいかなかった。

「────」

アルベルトは全身で人の気配を探りながら、窓を避け建物の壁に沿って進んだ。
正面扉と山道がある面にも、見張りはいなかった。

呑気なことだ、と思うが、まだアルベルト達を攫ったばかりなので油断しているのだろう。あるいは、不測の事態に備えるということを知らないのかもしれない。

「────」

厩舎に行くには、正面扉の前を通らなければならない。

しかし、風通しのためか、扉は半分開いていた。中からは、話し声が聞こえてくる──アルベルトも一度通ったから知っている、正面扉の次はすぐ広いホールになっていて、大きな机がいくつか置いてあるのだ。男達はそこにいるのだろう。

すると、仮に誰かひとりでも扉の方を注視していれば、そこを通り過ぎる者に気付くに違いない。
純粋に、確率の問題だ。しかも、勝率はわからない。乗ってはいけない賭けだ。逃げることを最優先に考えるなら、これは愚策だ。

けれど、どうしても、そうしなければならない。

「────」

それだけ理解したアルベルトは、一秒だって逡巡の時間は取らなかった。
アルベルトは足音を殺して歩き始めた。ゆっくりと。静かに──厩舎のほうへ。

心拍は平静だ。
指の先も冷たくならないし、胸も苦しくはない。
汗も掻かない。

アルベルトは、恐怖も緊張も知っている。
だから、律することが出来る。

アルベルトは怯えを殺すことが出来る。だから、扉の前を駆け抜ける、といったような愚も犯さない。
圧迫から早く解放されたい気もちはわかるが、それでは音が立つし、何より、速い動きのものは視界の端に映るだけで注意を惹くからだ。

急ぎ過ぎず、遅過ぎず、アルベルトは慎重に歩を進めた。扉の方には視線すらやらなかった。
小石を避け、草を踏み、十歩を歩いても──

「────」

──それでも、建物の中からは、誰も出てこなかった。

アルベルトは厩舎に入ると、飼料を探した。厩舎には草のほかに、馬に力をつけさせるための飼料も用意してある筈だ──出来ればふすまが良かったのだが、置いてあったのは燕麦だった。

必要なものを確保した後、アルベルトは今度こそ森の中へと逃走を図った。











『銀めっき』











水でふやかした燕麦を煮つめ、飲み込まないようにしながら歯で何度も噛み、磨り潰して柔らかくする。

そうして作った食事を、アルベルトは己の指を匙にしてシーザーの口に運んだ。いつもの離乳食とは違うからだろう、シーザーはぐずった。

「良い子だから、食べなさい」

アルベルトは小声で囁きながら辛抱強く赤子をあやし、燕麦を食べさせた。

乳幼児は脆い。生後一年経たないうちに、大半が死んでしまう。アルベルトの家は裕福であったからその率を下げることが出来たが、シーザーが一歳を越えても健やかでいることはけして当然のことではなかった。
その程度に成長するまでに、三人に二人は死ぬ。農家の女など、十度以上出産を経験するのが常だ──そうでないと、血をつなぐことが出来ないのだ。

彼らの死因は様々だ。病、ストレス、栄養失調──七つか八つになるまで、つまりアルベルトの年頃になるまでは、子供はいつ死んでもおかしくない。昨日笑っていても、今日突然動かなくなる。それが現実だ。

そんな脆い赤子を、扱いも知らない者が攫うなど、死んでもいいと思っていなければ出来まい。

アルベルトはおそらく、数日物を食べなくても命に別状はないだろう。疲労しても、まだ取り返しがつく。
だが、シーザーは違う。腹がすけば泣き喚き、泣くことでまた体力を削り、体力が減ることで免疫力も下がる。本当に、すぐに死んでしまう生き物なのだ。

だから、アルベルトはどうしても、食べ物が欲しかった。厩舎を目指したのはそのためだった──アルベルトのみが生き残っても、仕方が無い。
シーザーを抱き、座った体勢で上半身を前後に揺らしながら囁く。

「良い子だ。シーザーは良い子だね……」

疲労が重く静かにアルベルトの体に纏わり付いている。

夜の森は暗い。
アルベルトにはモンスターを殺す力も、逃げる力も何もなかった。勿論、追手に見付かっても同じだ。だから精々、這い寄る虫を遠ざけるくらいだ。
だが、隠れ家の中で毛布に包まり、体温を分け合いながらアルベルトはシーザーに言い聞かせた。怖がらなくていいのだ。何も心配することはない。

「大丈夫……大丈夫……わかるだろう、怖くない……僕がいる」

酷使した体が、脳に睡魔を忍び寄らせる。
幼児の熱い体温を頬に感じながら、アルベルトはゆっくりと囁き続けた。アルベルトが落ち着いていれば、シーザーもそれを感じ取る。

「僕がいるから……」

抱き締めると、赤子の息のにおいがする。真っ暗な中では、この温もりだけが全てだった。シーザー、シーザー、とあやしながら名を呼ぶと、それが己の根幹のような錯覚を覚えた。この命のために、出来るだけのことをしてやりたいと思う。アルベルトの存在をシーザーのために全て使ってやったとて、アルベルト自身は不満を感じないだろう。兄とは、弟とは、そういうものだ。
それなのに現実を忘れる事は出来ない。

保障のない夢を囁いて騙し騙しても、騙しているアルベルトだけは事実を知っている。

アルベルトにとって、シーザーはただひとりの弟だ。
そして、それ以上に──そうだ、それ以上に。

「僕がいるから……」

これは嘘だ。

アルベルトがいることで、シーザーは安心など出来ない。その逆だ。
アルベルトは生まれたとき、既に己の生き方を決めていた。シーザーが生まれたときもまた、その将来を一方的に決めた。そして、その為に、シーザーもアルベルトの駒だ。

この血の、後継者だ。

「僕が、いるから」

これは嘘だ。これは嘘だ。どうしたところで、これは嘘だ。
アルベルトは、本当にシーザーの傍にいることなんて出来ない。愛しても、優しくしても、それは全て──兄として、弟にしてやるべきことではなく。

「──……大丈夫……」

よく言えたものだ、と自分でも思った。
それでも、嘘を吐いていても、アルベルトの鼓動はいつも平静だ。声のひとつも、震えない。








二日目になって、アルベルトは異変を察知した。何かが近付いてくる。

「────」

土を踏んで近付いてくる足音、がしゃり、がしゃりと重い金属が触れ合う音、あたりの草を払って何かを探している音が聞こえても、アルベルトはぴくりとも動かなかった。ただ、じっと息を潜め、シーザーの背を撫で続けた。大丈夫、大丈夫。

どうせ、見付かったが最後、逃げられはしない。
だが、シーザーは恐怖をコントロールする事は出来ない。そんな脆いものを、どうしてあえて怯えさせる必要がある?

そのときがくるまでは、何も知らないほうが幸せだ。





















この自分に下された命令が、たかが『遠縁の』餓鬼の救出とは。

確かに、転移が出来るユーバーにとってはさほど困難なことではなかったが、だからといって面倒でなくなるわけではない。

「……手間取らせてくれた」

ようやく見つけた子供を、ユーバーは冷えた目つきで見下ろした。
実際、誘拐を企んだ者を殺し尽くすほうが、彼を発見するより余程時間がかからなかった。あのままじっとしていれば──まあ、巻き込んでついでに斬ったかもしれないが──すぐに片付いたのに。

レオンから聞いていた服装とは違うが、ここまではっきりした赤毛だ、これで間違いないだろう。

ユーバーはそう決めると、蹲って丸まっている子供の襟首を掴んで持ち上げた。大した抵抗もなく、小さな体は地面から離れた。

「────」

ここで、ユーバーにはふたつ、気に留まったことがあった。

薄汚れた子供は暴れず、また、その目は酷く落ち着いていた。
そして、子供は一人ではなかった。胸にしっかりと、更に小さな子供を抱いていた。赤子、というべきか──は目を閉じていたが、それはただ単に眠っているだけらしい。

赤子を奪い取り、健康状態にあまり問題がなさそうなことを確認すると、ユーバーは鼻を鳴らした。

「……よく、こんな手のかかるものを連れて逃げたな」

それは褒め言葉ではない。

むしろ、ユーバーとしては、泣き喚くしか能のない小うるさい生物はあるだけ邪魔なので、できれば死んでいて欲しかった。
レオンも、赤子についてはほぼ諦めていた──ということは、どうしても持ち帰らなければならないものではない筈だ。

ユーバーは極自然に、赤子の襟首を放した。子供の襟首の方は掴んだまま。

「!」

子供が腕を伸ばしたが、届かない。
赤子はユーバーの胸の高さから地面に落下した。そして、小さく重い、聞き逃しようの無い衝突音を響かせた。











降ろしてくれと子供が丁寧に頼むもので、ユーバーはそうしてやった。

子供が赤子に近寄り、火の付いたように喚くそれ(どうやら、打ち所は悪くなかったらしい)をそっと抱き上げる。
骨を折っていないか、頭を打っていないかを丁寧に確かめているので、ユーバーは肩を竦めた。

「何だ、大事そうだな。レオンは重視していないようだったが──連れていかなければならないものか?」
「はい」

察するに、兄弟か何かだろうか。
赤子の様子を確認し終わってから子供がようやく立ち上がったので、ユーバーは呆れた。煩い泣き声が耳に付く。

「無益なことをするものだな」
「無益?」

子を必死になって守る親をユーバーは幾らも見てきたが、いつも同じ感想を抱く。
見捨てても、手荒に扱っても、幾らでも取り返しがつくのに、と。

ユーバーにとっては、本当に、どうでもいいことだ。


「貴様らは、またすぐ生まれてくるだろうが」




殺しても殺しても踏み潰しても、同じようなものがうようよと。
虫けら並みだ。







「無駄な騒ぎだ。また捨てられたくなければ、その煩いのを黙らせろ」

そう言った瞬間、子供は振り返った。
そして、素直に謝罪した。

「ごめんなさい」

俯き加減になった子供の目の端がぬめりとユーバーを突き刺し、ばらばらに引き裂いた。
──そんなような気がしたが、それは勿論、不思議な光の加減だった。















子供は微笑して、転移の準備をするユーバーに近寄って来た。その挙動に屈託はまるでなく、むしろこちらに親しい相手だと勘違いさせるぐらいだった。

珍しい、とユーバーは思った。人間は、ユーバーの言動を見て、恐れるか、怒るか、泣くかするものなのに──この子供は、怯えもしない。
ことり、と丁寧な音がしそうな様子でその位置に据えられ、全てを受容しているようだ。

「ありがとうございます」
「……ふん。ここに来たのはレオンの頼みだ」
「いえ、それもありますが……いい経験をしたので」
「ぶら下げられたことがなかったか? お望みなら、レオンの足下にまで放り投げてやるが」

そうではなく、と子供は曖昧に言った。
その瞬間また一際赤子の声が大きくなり、その続きはユーバーの耳には入らなかった。











(憎しみは、まだ覚えていなかったので、ありがとうございます)