アルベルトはまだ大人の背丈の半分もない子供だったが、既に一通りの感情は試していた。

本当に精神をコントロールするためには、何も感じないようにすることが重要なのではない。どのようなものか分析し、受け止めておくべきだった。慣れないことに直面したとき、人は一番動揺するものだから。

知らないものより、知っているもののほうが、対処は易しい。

己の酒量を学ぶように、アルベルトはどの程度のことで己の頭が取り乱すのかを調べていた。子供の心はまだ柔らかい(少なくとも、比較的、柔らかい)ため、そこまで酷いことをしなくとも揺らすことが出来る。勿論、楽な作業ではなかったが、アルベルトには己の道を放棄することは許されなかった。

そうやって、アルベルトは己の人格を安定した形に整えているところだった。
痛み。怒り。喜び。悲しみ。驚き。不安──そのような酒に酔って正体を無くすのは、大抵一度で済んだ。一度もないこともあった。覚えてしまえばアルベルトはそれを完璧に操ることが出来、また、ひとつ覚えれば他に応用することも出来たからだ。出来なければ、それはアルベルトではない。

軍師は、己を律しなければならない。
そして、誰にも己の裡を悟らせてはならない。騙し騙されるのが世の常だが、騙し騙し通すのが謀略の道。

祖父はあまり笑わなかった。それは多分、もっとも簡単な演技のひとつだ。
アルベルトは、指どころか、四肢を切り落とされても笑い顔を作れる。












『銀めっき』











先の継承戦争においてバルバロッサの副軍師だったマッシュ・シルバーバーグが、時を経て革命軍の軍師となったとき、アルベルトの家族には選択肢はふたつしかなくなった。

家も領地も捨てて赤月帝国から亡命するか、拘束され人質となるかだ。

革命軍にマッシュがいる以上、帝国側が、正軍師を務めたレオンの身柄を何としても押さえておきたいと願うのは自然だ。知略に関し、シルバーバーグ以上の能力を発揮する一族はいない。
レオン・シルバーバーグは既に隠遁し、帝国の前から姿を消している──そうなれば、彼の家族を掌中にすることで操り糸をつけるほかない、と、普通の者ならそう考えるだろう。愛する者の命以上に、人を縛り付けるものはそうそうないと。

レオンの子、ジョージ・シルバーバーグもそう考えた。
ジョージはレオンに言わせれば『不出来』な子で、あまり暖かい親子関係を築いているともいえなかったが──まさか可愛い孫を見殺しにすることはしまい?──ジョージの妻が丁度腹に次子を宿し、逃亡生活に耐えられる状態ではなかったことも、希望的観測を後押しした要因だった。

そのときアルベルトはまだ七つになっていなかったが、少なくともジョージよりはるかによくレオンの行動原理を理解していた。また、自分にとって都合がいい事実のみを重視することが、どれ程予測を誤らせるかも。

だから、屋敷での生活が帝国兵の監視下に置かれた後、レオンが敵方に加担したという知らせを聞いても、アルベルトは全く驚かなかった。それに、レオンに対して怒りも抱かなかった。知っていたからだ。

レオンは、アルベルト達のことなど本当にどうでもいいと思っているわけではないと。だが、この場合は、『どうでもいい』と思わせることが、歴史の流れとアルベルトらの命を両立させるために最善だと。

バルバロッサが非情な皇帝であれば、戻らぬばかりか寝返った男の家族など、首を切り落として門前に並べただろう。
だが、彼は、レオンに『ダメージを与えられないだろう』報復のために、父親に見捨てられた善良な男、身重の女、そして年端もいかない幼子を処刑するような男ではなかった。私財を没収されはしたが、ジョージが命乞いをし、恭順をさらに誓えば、彼らは帝都から離れた地に軟禁されるに留まった。

つまり、レオンはバルバロッサを良く知っていたし、逆に、バルバロッサからはレオンの内面を知られないようにしていたというだけのことだ。
レオンは帝国の使者に対し、『後継者など、戦があればどこぞから拾ってこれる』とまで言った──よくある軍師のやり口。

幽閉生活は、当然、心地のいいものではなかった。
マッシュやレオンのことで、帝国の者はアルベルト達にはとても好意的にはなれなかっただろう。それでも、母が身ごもっていることと、アルベルトの年齢がいくらかの緩衝材になった。大抵の人間は、弱者には優しくなれる。

レオンが革命軍に加わってしばらくの後、赤月帝国の旗は焼け落ちた。
マッシュは死んだ。殺されたのだ。そして、残ったレオンとジョージに本当の恨みが向けられたのは、最期の皇帝バルバロッサが見事な最期を遂げた、そのときからだった。

レオンも、そして帝国が滅んだ途端に共和国の庇護を求めたジョージも、裏切り者だ。








+++ +++ +++








赤子のけたたましい泣き声が、古い建物中に響き渡って、そんなわけはないのに壁が破れそうだ。
その場の全員が辟易したころを見計らって、アルベルトは提案した。

「僕に貸して下さい」

アルベルトの腕と胴体をまとめてぐるりと拘束していた縄が解かれ、赤子が渡される。
痺れた手もそのままに、アルベルトはシーザーを抱きとめた。生後一年を過ぎた弟はアルベルトにはかなり重かったが、抱き慣れてはいた。

「大丈夫、大丈夫」

アルベルトは小さく囁きながら、頬で軽くシーザーの額に触れた。
ゆっくりとかかとを上げ、そして降ろす。アルベルトの力では腕を使って揺らすことは出来ないが、こうして振動を与えることは出来る。

それを繰り返すと、シーザーの泣き声が段々小さくなっていく。
知っている匂いに落ち着いたか、シーザーはやがて泣き止んだ。それでも、まだぐずっている。環境が変わってストレスが掛かっているのだろう。

アルベルトは相手を刺激しないように、出来るだけいたいけな口調を作って話しかけることにした。シーザーにではない──ただ煩い、鬱陶しいという理由だけで子供を一人始末するという結論を出しそうな男達に対しては、赤ん坊より気を使って機嫌を取ってやらなければならない。

「人見知りするんです。あと、大きな声とか、大きな音とかも駄目なんです」
「あァん? 何だそりゃァ──」

タイミングよく、シーザーがまたしゃくり上げ始める。
わかっているのかな、とアルベルトは微笑ましく思ったが、顔は困った表情を作っておいた。

彼らはどうしようもないと思ったのか、よく考えるのがいやなのか──おそらく後者だ──アルベルトとシーザーを建物二階の一室に連れて行った。そして、アルベルトの両足を揃えて縄でぐるぐると巻いた上で大きな寝台の脚に繋ぎ、部屋に鍵を掛けて出て行った。

「煩くさせるんじゃねぇぞ」

扉が閉まり、足音が遠ざかるのを確認する。取り合えず、一時的に男達と離れることは出来たようだ。
抱えた弟を見ると、彼は泣き疲れたのか眼を閉じていた。その熱い額に、アルベルトはもう一度頬を寄せた。大丈夫、大丈夫、ともう一度語り掛ける。

「……大丈夫だ、シーザー。爺がいなくても、大丈夫」

ジョージがいかに説き伏せようと、泣いて懇願しようと、レオンがアルベルトとシーザーのために、怒り狂った復讐者達の前に姿を現す事はないだろう。
命が惜しいからではない──今、レオンはハイランドに向かっている筈だ。歴史の流れを自然に保つという彼の願いのためには、命を投げ出して道を断念することは出来ない。

今度は、レオンは自分達の安全を予想して見捨てるわけではない、とアルベルトは知っていた。
バルバロッサと異なり、復讐者はそうと許されればすぐに刃を振るうだろう。首か腕だけになって家族の元に送りつけられるのはぞっとしない。
だがやはり、怒りはなかった。

理解出来る──悲願のためならば、何を捨てても、それは理解出来る。それに、レオンがジョージと共に現れたとしても、用が済めば結局アルベルト達も殺されるのだ。

「────」

レオンが動かない以上、アルベルトは自力で弟を守る必要がある。
人質の効果が全くないことを彼らが悟る前に、行動しなければ。

アルベルトはまず、眠っているシーザーを床の上にそうっと置いた。
それから、尻をついた態勢から体をひっくり返し、一本の丸太状態の両足を引き摺って(膝を曲げることも出来ないのだ)腕の力で寝台によじ登ろうとした。

これは大層な難事業だった──基本的に、アルベルトには腕の力というものがない。腹ばいになった状態から精一杯腕を伸ばし、ベッドヘッドの柵を掴み、顎まで使って何とかにじりあがろうとするが、敷布にずるずると滑った。

くるぶしは動く。
アルベルトは脛と足の甲を直角にして足の親指を床に立て、踏ん張った。ベッドヘッドの柵が格子状になっていたのが幸い、アルベルトは梯子を上るように交互に格子を掴んでは親指を少しずつ前に進ませ、どうにか上半身をベッドの上に乗せた。体が軽かったから何とかなったようなもので、その頃にはかなり息が切れていた。

胸が乗れば、後は比較的楽な作業だ。
アルベルトは寝台の上に移動すると、今度は窓枠に手を掛けて上半身を起こした。

「────」

丁度、男達の半数程が、山道を街に戻っていくところだった。馬車は置いていくのだろう、馬に鞍をつけて乗っている。
アルベルトはまだ馬に乗れないため、持っていかれても別に惜しくはない。それよりも、人数が減るほうがありがたかった。

暮れかけてきた陽の中、目を凝らす。
まだ見張りは立てていないか、あるいはここからは見えない建物の正面にいるらしい。それは好都合だ。夕食までにはもうあまり時間がない。それは不都合だ。その頃には日が落ちてしまう。それは不利にも有利にも働く。この建物はこの計画のために準備され、馬の厩舎もある。それは好都合だ。

アルベルトは部屋を見渡して数秒考えると、次の行動を決定した。
急がなければ。

「────」

アルベルトは寝台の上の毛布を掴んで床に落とすと、なるべく音を立てないようにして寝台から降りた。登るのと降りるのでは、降りるほうが簡単だった──上半身を下ろした後に仰向けになり、今度は腹筋を使ってゆっくりと足を下ろす。音を立ててはいけなかった。

足と寝台の脚を結ぶ縄は短く、アルベルトはこのままでは寝台の周りから離れることが出来ない。
よって、アルベルトが次にしたのは、寝台と己を分離することだった。

アルベルトには縄を切る力はないし、固い結び目を解く力もない。縄に歯を立てたところで、縄の繊維を解き干すまでにはおよそ二十年ほどかかる。また、持ち物は全て取り上げられていた。コートでさえ、着替えさせられたのだ。

さて、縄はどうにも出来ない。すると、縄以外のものを何とかしなければならない──当然、ベッドを引き摺って歩く以外、ということだが。

寝台の脚に結ばれた縄の結び目を、アルベルトは両手の爪を使ってじわじわと下にずり下げた。摩擦が酷かったが、少しずつ動かせば何とかなる。そして、結び目が床についたのを確認すると、アルベルトはまたうつ伏せになった。

「────」

肘で這い、寝台と床の隙間に潜り込む。
体の小さな子供だから出来ることだったが、次の行為は子供には少々骨が折れた。非力なアルベルトなら、尚更だ。
アルベルトは頭の脇に両手を付くと、腕立て伏せの要領で体を持ち上げた。片方の肩を寝台の裏に付けると、そこを支点に体を縦に回転させる。寝台の裏と肩が擦れあい、粗末な服地が避けて皮膚が擦り剥ける。

寝台の脚より高さがあるものが、寝台の下にあれば、脚は浮く。本棚をカフスボタンの上に置けば、斜めに傾いてしまうように。
それは子供にもわかる理屈だ──だが、己がボタンの代わりになるとなれば話は別だった。

ゆっくりと体を回転させると、子供のひとりでは横にずらすことも出来ないだろう寝台の重さがアルベルトの肩に全て掛かった。アルベルトは力ではなく、質量で寝台を僅か浮かせているのだ。
だが、まだ柔らかくて薄いアルベルトの体は、寝台と床に挟み潰されてしまいそうだった。

「っ」

アルベルトは床と寝台の間で危ういバランスを取りながら片手を伸ばし、じりじりと結び目を動かした。
とても長く感じられる時間の後、寝台の脚から縄の輪が抜ける。そこで一瞬、集中が途切れた。

どん、と指先程の距離を寝台の脚が落下して、床を小さく揺らす。
アルベルトは咄嗟にシーザーの方を見た。泣かれたら、男達がまた文句を言いにきてしまうかもしれない。そうなれば、終わりだ。アルベルトは息を殺した。

「────」

シーザーは一瞬眉を寄せたが、そのままアルベルトがじっとしているとまた眠りに入っていった。

アルベルトは息を吐き、寝台の下から這い出た。
突き出た木肌が肩に刺さって血が出ていた。コートを着ていれば、こんな事はないのに。

それでも、休んでいる暇はなかった。

アルベルトは毛布を掴んで、今度は部屋の反対の隅ににじり寄った。柔い肘が擦りむける。毛布で片手が塞がっているのと、毛布と床の摩擦の分、匍匐前進はまたかなりの疲労をアルベルトの小さな肩の上に積んだ──しかしアルベルトにとっては、疲労よりも、時間が蓄積されていくほうが問題だった。

寝台とは反対の壁際には、古い飾り棚があった。
アルベルトは棚を開くと、中の物を取り出した。銅の杯、絵皿、木馬、陶器人形──大きな物は全て掻きだすと、中に代わりに毛布を詰め込んだ。密度を調整するために、陶器人形を中に戻す。
そしてまた棚を閉めると、硝子の向こうに毛布がぴったり張り付いていた。アルベルトは更に、上着を脱いで棚の前に敷いた。

こうすれば、硝子を割っても、あまり派手な音は立たない。
アルベルトは木馬の頭を使って、なるべく力を込め過ぎないように──といっても、それはつまりアルベルトのほぼ全力でいいということだが──ガラスを割った。どしり、という音がして、硝子の破片が短い距離を落下する。

アルベルトは振り返った。シーザーの目が開いていた。

アルベルトは動揺を瞬時に押さえ込んだ。赤子は人のそぶりに敏感に反応する。
大丈夫、大丈夫、とアルベルトは小さく呟いた。それに応えるように、シーザーは小さな目をぱちり、と瞬かせた。
そして、そのまま大人しくしていた。少し、笑っているようにも見えた。

(本当に──わかっているのかも知れないな)

アルベルトは苦笑した。これは、隠す必要はなかった。