滴る金色の波。
その只中で、がしゃん、と甲冑が重々しく音を立てた。

歩きもせず、勿論走りもせず、実際の距離をないものとして空間を移動する。
普通の人間にはとても出来ない真似だ。

そんな相手が被る漆黒の兜にはご丁寧にも仰々しい面頬が取り付けられ、顔の上面は全て隠されている。見えるのは僅かに、顎の先だけだ。
それを眺め、アルベルトは目を細めた。

「────」

視線を気にも留めず、男は逆に周囲を見回したようだった──おそらく、気に入らないのだろう。この小さな、床は抜けそうで机は傾いている部屋が。

そして、椅子はひとつしかない。勿論、アルベルトが座っているものだ。

(あの甲冑の重量では、本当に床が抜けるかもしれないな)

呪具を持った右手を机の上に置いたまま、アルベルトは口を閉ざしていた。
言うべき事がない訳ではなく、単に、反応が見たいというそれだけの理由で。

それに対して、彼は無駄な時間を作らなかった。
命令しか舌に乗せられないような口調で、短く言葉を吐く。

「名乗れ若造」
「アルベルト・シルバーバーグ」

小僧ではなく若造か、と多少予想を修正しながら、アルベルトは素直に名を口にした。隠す意味もない。
その姓は記憶にあったのだろう、彼は納得したようだった。

「Adalbertか。仰々しい名だ」

アダルベルト。彼が発音したその読み方は、古い時代のものだ。
今を生きる者は殆ど知るべくもない、その意味。アーダル。ブレヒト。高貴。輝く光。

それを仰々しいと、そうのたまう男の名を、アルベルトもまた正確に発音した。その存在に込められた意味は──

「Yuber」

──影だ。
誰より人目を惹いても己で輝く事はない、夜より黒い星。

何ともロマンチックな符号だ。面映いくらいだな、と思い、アルベルトは口の端で笑んだ。
光と影とは、全くどこぞの御伽噺。












「それでまさか、その名だけで俺と契約を結べると思い上がってはいないだろうな」

そう思っては居なかったが、アルベルトはYESともNOとも答えなかった。ただ、じっとユーバーの観察を続けた。彼が祖父と契約していた頃、姿を見る事はあってもこれ程近くで眺めた事はない。

アルベルトが見たところ、ユーバーはこんな粗末な部屋に呼び出されたことを怒ってはいない。
別に、彼が怒っていないという事は、彼が相手を殺さないという保証にはならないだろうが。

場所を廃屋にしたのは、別に嫌がらせのためではない。
単に、街中を避けただけである。ハルモニア神聖国では、魔との関わりは忌避すべきものとされているのだ。

「……ひとつ頼みがある」
「勿論、どれ程愚かな人間でも、頼みもないのにこの俺を呼び出したりはすまい」
「聞いてくれるか?」
「鬱陶しい。早く言え」

背筋に氷柱を突っ込まれたような威圧感。
今の段階であまり苛立たせるのは得策ではないな、とアルベルトは考えた。しかし、得策でなくとも──
笑みを表情に載せ、自然に切り出す。


「深窓の姫君というわけでもないだろう。顔を見せてくれ」


ひゅっ

「!」

ぶつん、と音がした。
アルベルトの目は勿論その刃の軌跡を追えず、結果だけが眼前に残る。

みるみるあふれ出す血が呪具を真っ赤に染め、切断された人差し指と中指、そして薬指の先端がころりと机の上に転がった。
その瞬間に痛みはなく、血の色を見た途端に脳天をつんざく痛みが走る。

手は神経の集中している部位だ。あらかじめ麻酔をしていなければ悲鳴を上げてしまっていただろう。アルベルトは怪我には慣れていない。

勿論、彼を揶揄うのだから肘から先くらいは覚悟していた。斬りやすいように机の上に置いておいたのだ。
指三本か、とむしろ安心しながら、アルベルトは冷静に右腕の止血点を押さえた。


軽口はお気に召さないか──ずくり、ずくり、と鼓動とともに血を噴出す傷口を眺め、アルベルトは考えた。血を失えば頭も回転しない、残る時間は三百秒程度だろう。
笑みを消さないまま、ユーバーに再び視線を移す。

彼は鼻を鳴らし、動揺しないアルベルトをこう評価した。

「──気狂いか」
「そうかも知れないな」
「異常者なら、気に入られるとでも思ったか?」
「いや。お前は逆に、狂いを嫌うだろう。それに、無意味に侮られるのも好きではないだろうな」

そこでユーバーは、アルベルトが腕に麻酔をしていること──怪我を予想していたこと──に気付いたようだった。
アルベルトの額には、脂汗すら浮かない。

「では何故俺にあんな口を利いた」
「どうせ、話が終わる頃には一度はお前の気に障ることを言うのだから、それをいつにしようが俺の勝手じゃないか?」

ぱつん、と音を立てて今度は小指が跳んだが、アルベルトは口を噤まなかった。

「後できちんと拾っておいてくれ」
「……レオン・シルバーバーグはもっと上手く交渉した筈だがな」
「勿論、俺はそれ以上をしてみせよう。──ユーバー、兜を取ってくれないか」

アルベルトは、己の手などどうでもいいと思っている訳ではない。指が無ければ文字を書くのに困る──ただ、取り返しがつくと思っているだけだ。

「何故、兜に拘る」
「ユーバー」

アルベルトは言い聞かせるようにゆっくりと囁いた。

「お前は、今、俺を気に入るかどうか品定めしているだろう」
「当然だ」
「俺も同じだ。お前を気に入るかどうか品定めしなければ、契約は結べない。俺は、お前の名だけでお前を評価したりはしない。そうだろう?」

アルベルトは、選ばれるのではなく、選ぶのだ。
たとえユーバーがいくら役に立とうが、アルベルトが気に入らないのなら傍に置く気はない。高貴なる光と言うのなら、それくらいの事は出来ていい。

アルベルトは、圧倒的力の差という事実に妥協する気はなかった。事実は、手を加えれば支配可能で、操作可能だ。
現実を、理想に沿わせてみせるのがこの野望。

廃屋が押し潰れるような重苦しい圧力がその場に満ちた。
アルベルトはじっとユーバーを観察し続けた。予想できる、これではアルベルトは命を落とさないと──ユーバーには、弱点がある。

「……一理あるな」

数秒後、ユーバーが呆れたように溜息を吐いたのは、やはり彼が狂いではないからだろう。道理が通じなくとも、論理が通じる輩なら、アルベルトが恐れることはない。

ユーバーは兜を持ち上げた。
ばさり、と豊かな金色の髪が広がる。月光の束のようなそれを無造作に黒い甲冑の上に垂らしつつ、男──少なくともそれに見えるもの──はアルベルトに向き直った。

可愛げというものを母親の胎内に置き忘れてきた、とよくアルベルトは弟に糾弾される(しかも、その分の可愛げは弟が吸収したのだという)が、この時ばかりはその評価も棚上げしたほうが良さそうだった。
アルベルトにも、何かに見惚れるくらいの可愛げはある。

「────」

赤い蛇の目と、銀色の鉱石の目。
どちらも、人間にはあり得ない。奇跡に近い美しさ、しかし異形。

そしてその、下賎な程の生々しさと久遠の無機質さは、鋭く自己主張せざるを得ないために全く調和しない──そんな歪みが、天使のような完璧な造形を返って禍々しく見せていた。
彼を見れば、その美しさより先に、恐怖が人の心を捉えるだろう。

アルベルトは素直に賞賛した。

「素晴らしい」

そんな言葉は聞きなれているのだろう、ユーバーはほぼ無反応だった。
もうあまり時間が無い。知りたい事は知れたので、アルベルトはさっさと結論を出した。

「気に入った」
「おい、貴様」

アルベルトに気に入られたことを、ユーバーは一向に喜ばないようだった。
眉間に深い皺を刻み、苦虫を噛み潰したような顔をしている。

「ふざけるな、この俺を顔だけで選ぶとは」
「俺は美しいものが好きなんだ。人の趣味に文句を言うな」

血の気を失って青白い顔で、アルベルトは続けた。
大分気が遠くなってきた。後、百二十秒程しかない。少し、急ぐ必要があるだろうか。

「後は、お前が俺を気に入るだけだな」
「もう結論は出たぞ。気に入ら、」
「まあ待て」

アルベルトはユーバーに皆まで言わせず、あっさりと核心を突いた。

「どうせ暇なんだろう、お前は」

俺と違って、やるべきこともないんだからな。

ぐうの音も出ない様子で言い返さないユーバーを見て、アルベルトは報酬を提示した。ユーバーの背負う運命を理解したときから、用意していたもの。

きっと、大抵の人間にはわからないだろう。この、綺麗で、不老で、多量の死を生む力と、無慈悲な正気をもつ生き物に、一体何が足りないのか?

「俺のために働けば、血と戦争、多少の運動には困らない。それに──」











「指を治しておいてくれ」

全て語り終えた後、アルベルトはそう言って目を閉じた。断られるとは微塵も思っていない、自信に満ちた口調だった。