王国は腐敗の只中にあった。

王は暴虐と荒淫に耽り、貴族は怠惰で贅沢、民の間では殺人や強姦などの罪が持て囃された。文化は負の方向に爛熟していき、誠実、勤勉、公正、そういったものは時代遅れとされた。

王も、貴族も、民も、どの醜行にも目も当てられなかった。

最早、何処から手を付けて良いのかわからないほど、その王国は醗酵していた。
ぐずぐずに腐った果実が元の瑞々しさを取り戻すのは不可能であり、国どころか、民族ひとつが滅びを迎える他の未来はないように思えた。

そんな王国の最晩年期、一人の王子が生まれた。

王の何番目かの妃の何番目かの男児。ろくな祝いもされなかったのは当然で、その国においては最早王の子など尊ぶものではなかった。王自身でさえ、己のろくでもなさと、世のろくでもなさを悟ったふりで陶酔していたからだ。

まず、その王子はぱっとした外見を持たなかった。壁に這うツタの葉のようにありふれた姿で、髪も目も、別れた次の瞬間には忘れてしまうような地味な色だった。
次に、その王子はぱっとした能力も持たなかった。近親姦の果てに生まれた王の血族は、ひ弱でねじくれた体しか与えられず、知性も十人並みだった。
最後に、その王子はぱっとした精神も持たなかった。王子の心は弱く、すぐに傷付き血を流した。暴力に怖気付き、闇に怯えた。

まさか、誰も、そんな王子に期待などしなかった。何に対する期待も、全て。
だからまさか、そんな王子が腐った王国を地に埋め、新しい種とすると、誰が予想出来ただろうか?

少なくともこの時点では、まだ誰もいなかった。

「うっ、うああ……!」

泣いているのは、その場で死に瀕している男や女ではなく、王子ただ一人だった。
蛆がわいた傷口の熱さを感じながら、少女は己の頭を抱きかかえる頼りない手を思った。かわいそうに。かわいそうに。

「すまない……すまない……!」

少女の頬にぽたぽたと涙が垂れ落ちる。
泣き咽ぶ王子を慰めてやりたかったが、少女にはその力が無かった。ぼんやりと目線で周囲に助けを求めると、近くの壁に背を預けている幼馴染が、わかっているよ、と言う風に目で微笑んだ。わかっているよ、だけどそのまま抱かれていてやってくれ。

皆、誰も彼も、わかっている。
だから、王子もわかっていいのだ。謝る必要なんてない。

「私が……ふっ、私がもっと強ければ、うっ……うぅ」
「もう……行って……下さい」
「駄目だ、お前たちを置いていける筈がない……!」

幼馴染が諭したが、王子は立ち上がる様子を見せなかった。
王子の膝に頭を乗せた少女が、そのうちゆっくりと目を閉じる。それが、合図だった。せめて少女は王子と共に死なせてやりたいというのが、その場の総意だったのだ。

「駄目だ、まだ生きているのに……!」

「これからも」生きていける男、そして女が、王子の腕を取って立たせた。
王子は抵抗したが、彼にもわかっている筈だった。ここに留まっていては、敵がやってくる。

王子の弱い心から血が噴出すのが、目に見えるようだった。
王子には、皆を救うような強さは何も無い。子供のようにただ泣くばかりだ。

けれどそれだからこそ、彼らはここで、何かを理解して死んでいける。
王子がただ弱くなかったら、この国の有り様のために、臆面もなく涙を流す事はなかっただろう。大声も上げられないほど、他に何も出来ないほど、身も世もなく頑是無い赤子のように泣く事は。

「私は、お前達に、どうやって報いればいいんだ……!」

貴方はけして、魅力的でも、聡明でも、力強くもない。
ただ、自分の為に泣いてくれる人を救いたいと思って、私達は戦おうと思うのです。

貴方はいつか、それを理解するでしょう。
















砦に立て篭もった残党共を狩り尽し、ユーバーは己の双剣の血をそのあたりの草で拭った。
軽い仕事だ。

ユーバーは、己の所業がどういう意味をもつのかをあまり考えることはない。
そんなことは、計算好きな軍師に任せればいいのだ。砦ひとつの戦略的な重要性など、どうでもよかった。

ユーバーにとって、人の命や営みは、ちっぽけな砂粒だ。
何を思って必死になっているのかは知らないが、砂を固めて城を作ったところで、軽く蹴飛ばせば崩れてしまう。

空になったこの砦も、作った人間と同じにいつか砂に還る。全く、世の中には砂ばかりだ。

「……この砦は古い遺跡を利用して作ったものだと言われているな」

後ろから掛かった声に、ユーバーは振り向いた。
アルベルトは、ご苦労様、とでも言うように軽くユーバーの肩を叩いた。人間の朋友がやるような気安い仕草だが、腹は立たない。

「これが王宮だったころは、歴史上の空白期だ……興味深いものだが、古過ぎてどうにも調べようがない」
「……ここの奴らに書物を残すような知性は無かったからな」
「知っているのか?」
「忘れた」

ユーバーは鼻を鳴らして砦の壁を蹴りつけた。
壁に這ったツタの葉が靴の裏に散らされる。

「何処の国のどんな歴史も、似たようなものだろう。芽吹き、栄え、腐敗し、血が流れ、崩壊する。決まった宿命だ」

全く忌々しい、とユーバーは吐き捨てた。

「惜しいな。俺は知りたかったのだが」
「ふん。貴様が今まで泣かせた人間の名を全て思い出せたら教えてやる」