アルベルトはシーザーにとって、目の上のこぶだった。

実際は、アルベルトがシーザーのこぶなのではなく、シーザーがアルベルトの踵の裏の黒子──存在が邪魔にすらならない染み──と言った方が正確だが、つまりそういうことだ。

シーザーが生まれ落ちたときから、アルベルトは『完璧』という概念が具現化した存在として君臨していた。非の打ち所がない、という部分さえ欠点にならない、由緒ある一族の嫡子。

シーザーは、何処を見ても、何を聞いても、アルベルトへの賛辞だけが溢れている世界で育った。アルベルト、アルベルト、アルベルト、内外から連呼される名前と実績。いっそシルバーバーグ一族ではなくアルベルト一族に改名するべきなのではないかというお祭り騒ぎ。勝手にしてくれ。

そこで、己の年齢が二桁に差し掛かった頃、シーザーはアルベルトに追い付こうという努力を放棄した。可能な限り怠け、勉学から逃避することにしたのである。
頭の出来が悪かったというわけではない。シーザーはどちらかと言えば器用に回転する脳を持っていたし、一を聞けば十一、二くらいは知ることが出来た。
それでもシーザーは勤勉に学ぶことを嫌った。学ぶこと自体が嫌というより、下らない見栄の問題だった──努力していなければ、敵わない理由になる。アルベルトの方が勤勉だから、アルベルトの方が優秀なのだと言うことが出来る。

けれど本当のところは、七年という時間の差すら問題ではなく、単に、シーザーはアルベルトではない、とそれだけの話で。そう、『つまりそういうこと』だ。やっていられない。

「────」

そして現在、怠けぶりもすっかり板につき、シーザーはむしろ、『是非そのまま栄光一直線でお願いします、こぶ様』という気分になっていた。アルベルトが一族の看板を背負って立てばシルバーバーグは安泰だし、シーザーはその脛を齧って生きていける。何せ、一応弟なのだから──踵の裏でも、削ってしまうわけにはいくまい?
ハルモニアから留学の誘いを受けました。ああそう。留学先で歴代最優秀の成績を残しました。そりゃ、それくらい当然なんじゃないの?ハルモニアの若き軍師として、内外からの名声が高いです。予想通りだから報告しなくていいよ。

そんな調子で、実家でだらだらと菓子を齧っていたシーザーの人生に亀裂が入ったのは、アルベルトのこの一言だった。

「俺は家を出る」
「………………」

もぐもぐ、と頬袋に詰め込んでいた菓子を全て咀嚼し終わってから、シーザーは続く言葉がないことに気付いてようやく視線を上げた。

「……………………は?」
「家を出る、と言ったんだ。シーザー、寝転びながら物を食べるのは止めなさい」

シーザーはようやく異変を悟り、遅ればせながらむくりと起き上がった。
アルベルトに向き直ると、確認するように言う。

「家ならもう出てんじゃん。年中ろくに帰ってこねぇし」
「そうではない。家督を継がないということだ」
「はああ?」

シーザーは馬鹿か河馬のように大きく口を開け、それから慌てて閉じた。

「何言ってんだ、お前以外に誰が継ぐんだよこの家」
「確か俺には、弟が一人居た筈だがな」

冗談ではない。余計な苦労を今更背負い込むなんて真っ平だ。
しかし、アルベルトがこんな風に冗談を言うわけはない。シーザーは背筋にひやりとしたものを感じつつ急いで言い返すことにした。

「出来の悪い、が抜けてるぜ」

アルベルトは答えず、さっさと立ち上がった。
決定事項を告げただけ、という態度に、シーザーの焦りが増す。アルベルトは本気だ。

「待てよ。爺さんが許すわけないだろ?いや、爺さんだけじゃない、他の誰だって許すわけない。俺には無理だし、お前は自分の責任ってモンをもっと考え──オイ、待てって、アルベルト。待てよ!」

シーザーがカウチを下りたときには、アルベルトは扉の取っ手に手を掛けていた。
待て、ともう一度言ったが、無情に扉が閉まる。取り残されたシーザーはしばし呆然としていた。

「どうしたってんだ、一体……」

しかし、アルベルトがそんな事を宣言したところで、一族の期待と看板を背負って立つ男が家督を継がないなどという我侭は通らない。
その筈だろう、とシーザーは期待していたのだが──流石、アルベルトはこの点でも抜かりなく優秀な男だった。

シーザーが唖然とする程、シルバーバーグ家の者は物分りが良かった。いや、懐柔されていたと言った方が正しいか。計算が上手な分、犬よりも躾が良く出来ている。
『アルベルトが言うなら仕方ない』『アルベルトは、もっと大きな舞台でやることがあるのだろう』『シルバーバーグの名を捨てないのならば問題はない』、とばかりにアルベルトの行動を容認し、そればかりか、今まで何の期待もしていなかっただろうシーザーの育成に力を入れ始めた。

──つまり、そのとき既に、シーザーはアルベルトの踵の裏には居なかった。つながりすらなく、その影の落ちる小石になっていた。

用意された食事を食べ、大人しく昼寝をしていれば文句を言われなかった生活は一変し、シーザーは奴隷のように拘束された。朝から晩まで知識を頭に押し込められ、行儀作法の教師までついた。
その間にアルベルトは、遠い地に戦争に出かけてしまった。シーザーのこの苦難を、予想しなかった訳ではないだろうに!

怒りに燃えたシーザーは、立ち塞がる父親、母親、執事、女中に従僕、馬屋番、アップル女史までを待ったなしの古式ゆかしいチェス一本勝負で正々堂々叩きのめし(シルバーバーグ一族における『実力行使』は、筋力を使わない)、女史に引っ付いていく形で家出した。














「──わかって貰えたか、俺の可哀想な状況?」
「へえ、そうなんだ、って感じかな……」

一大演説をぶちあげたシーザーに対し、あまり感慨深くもない表情でヒューゴはサイダーをずずず、と啜った。

「…………俺はさ、てっきり『グラスランドの』可哀想な状況を救う為に、シーザーが手助けを申し出てくれたんだと思ってたよ」
「裏を読めって」

シーザーは朝食のプレートの上の目玉焼きにぐさりとフォークを突き刺した。
幼子に掛け算を教えるような調子で、悪びれずにのたまう。

「見知らぬ他人が利害計算なしに動く訳無いだろ」
「いや、そういう人も結構居ると思うけど……」
「お前は自分がそういうタイプだからな。でも大概、上手い話があったら騙されるって思ってた方が当たりだよ。世の中、善人は搾取されるように出来てるモンだ」
「どうしてシーザーはそういう風に、捻くれた見方ばっかりするんだ?」
「俺自身が捻くれてるからだよ」
「わかってるなら、直せばいいのに……」
「素直な軍師なんて、無能の代名詞だな」

いつの間にか横に押し退けられていたサラダの皿を、ヒューゴは元の位置に戻した。気付かれたか、とシーザーの表情が微妙に歪む。

「……でもまあ、シーザーがお兄さんを連れ戻したいって気持ちは良くわかったよ」
「ちょっと待て。いつ、誰が、あのこぶ男を連れ戻したいだなんて言った?」

ちゃんと聞いてたか、とシーザーは無作法にフォークの先をヒューゴに突きつけた。
まじまじとその切っ先を見詰めてから、ヒューゴはきょとんと首をかしげる。

「今、ここで、シーザーが?」
「言ってねぇよ」

突きつけたフォークをぴこぽこ、と左右に振りながら、シーザーは眉間に皺を寄せた。

「あの、陰険で、狡猾で、人に嫌がらせしかしないクソ兄貴を連れ戻して俺に何のメリットがあるんだよ」
「……シーザー、お兄さんを探しにここまで来たって言ってなかったっけ?」
「そんなモン、家出の大義名分に決まってるだろ。アルベルトを探してるフリしてりゃ、とりあえず家から仕送りして貰えるからな。まさか、うっかり鉢合わせちまうとは思ってなかったさ」

継がない為に出奔した家から援助を受ける。胸を張っては言えない筈のろくでもない台詞に、シーザーはまるで違和感を覚えていないようだった。
それでもヒューゴは、一応食い下がってみた。

「だって、ブラス城で、『世界はお前の思い通りにならないと証明してみせる』って大きな声で……」
「ああ、そりゃあそうだ」

シーザーは、全く顔色を変えず、平然と肯定した。

「俺がこの軍に力を貸すのは、あの馬鹿野郎の鼻っ柱をへし折って、足を引っ張るためだもん。アルベルトに嫌がらせが出来るなら、俺はちょっと面倒なことだってやってやるね。精々アイツの言う『小賢しい策』を沢山出してやるさ。ざまあみろってんだ」
「……世界の命運は?グラスランドの平和は?」
「そういうのの為に戦うのは、英雄の仕事」

『シルバーバーグの名が出ると歴史が動く』『歴史の転換期に必ず姿を現す』──かの名家を評してそう噂されるのは、『シルバーバーグは好きに歴史で遊んでよい』という許可ではない筈なのだが。

傍迷惑な兄弟だな、とヒューゴが口に出さなかったのは、一重に、私怨だろうが何だろうがシーザーが軍師としてこの城に留まるのは喜ばしいことだからである。
行儀の良い英雄の代わりに軍師に鉄槌を下したのは、朝食の席に背後から近寄って来たアップルだった。

アップルは、シーザーの首筋に、冷たい野菜ジュースのコップを押し付けた。

「ひえっ!」
「また貴方はそういう事ばかり言って。マッシュ先生の教えまで疑われてしまうわ」
「冷てぇって!何だよアップルさん、俺はその人に師事した憶えはないよ」
「それでも、つながりはあるんです。大体貴方はもう少し、軍師としての威厳というものを考えて──」
「わかったよ、付け髭買って来る」
「待ちなさいシーザー、これを飲んでから」
「俺まだ若いから。お肌のための栄養素はアップルさんに譲るよ」

余計な一言を付け加えつつ、シーザーはそそくさと食堂から退避していった。
いつも飄々としているシーザーだが、お目付け役のアップルには頭が上がらないのだ──そんな事を考えつつ、ヒューゴはシーザーの代わりにアップルから野菜ジュースを受け取った。好き嫌いがあると、背は伸びないらしいので。

「ごめんなさいね」
「え、何がですか?」
「あの子の言いぐさに呆れたかしら、と思って。笑い事ではないのにね」
「いえ、別に」

ぷるぷるとヒューゴが首を振った。

「どっちかというと……凄いなって」
「え?どうして?」
「あんな調子なのに、普通の人は考え付かない策が楽々出てくるし。シーザーはお兄さんの方が凄いっていつも言うけど、俺はシーザー以上に頭が良い人が居るなんて信じられないな」

そう言ったヒューゴに、アップルはふと微笑み、それを掌の内側に隠した。











アップルも、昔はそう思っていた。
天才は、軽々と、アップルの及びもつかない彼方を行くのだと。自信たっぷりに己の策を組み立てて、その気になればどんな劣勢も跳ね除けられるのだと。些細な悪戯のようにして、神をも畏れぬ真似をするのだと。

本当にそんな風な調子で戦争が出来たなら、どんなに楽だろうか。
勝つために、己の命や、それ以上のものを賭けなくて居られるのなら、床を覆うほどの羊皮紙が真っ黒になるまで陣形を書き散らさなくてもいい。
慣れない土地で、幼さを侮る視線と異邦人との不信を跳ね除け、神ではない己の策に何千の命を賭けさせるより大変な事は──そして、完璧に近い兄、あのアルベルトに対抗するより大変なことは、そうそうない。行儀作法を学んで何処かの名家を継ぐ方が、余程易しい。

軍師の性格が捻くれるのは自然の成り行きだ、とアップルは思う。いつだって誰かを騙して、重大な問題であればある程それを些細なことに見せたがる種族。

シーザーの部屋にはいつも、鍵が掛かっている。
シーザーは外に出ているときはいつも、呑気な顔で昼寝をしている。


『素直な軍師なんて、無能の代名詞だな』






(本当なら、十七の子は背負わなくてもいい苦労だわ)

でもまあ、お兄ちゃん子だから仕方ないのよね。

本人が聞いたら逐一否定せずにはいられないだろう言葉を胸の内でわざわざ選びつつ、アップルは、シーザーはちゃんと結婚出来るのかしら、と余計なことを思った。













『出来のいい兄貴を持つと
弟は苦労します』