「──良かろう」
適当に決めて、ユーバーはそう結論付けた。
面兜を持ち上げ、視線を晒す。その動作と共に、重々しい黒い鎧ががしゃりと鳴った。
「俺は貴様に、出来るだけの利を与えよう。貴様は俺に、その逆を」
「────」
「──これが盟約だ、アルベルト・シルバーバーグ」
たった二十年しか生きていない若造が、ユーバーの気を惹く。それが一番難しいことで、そう出来れば、後はアルベルトが頷くだけの単純な作業で済む。
そう、それだけだったのだが──アルベルトは返答まで二秒挟んでから、結局了承しなかった。
「それは嫌だな」
「何?」
色違いの視線に険が込められる前に、アルベルトは違う提案をした。
「出来るだけの利──そんなものは、俺は貴方に望まない。だから、貴方も俺にそんなものを望むな」
「……どう言う意味だ」
「懸命になどならなくていい、ということさ」
アルベルトは口の端に気だるい笑みを浮かべた。
指を一本一本伸ばして机の木目を気まぐれになぞりながら、曇りの日の空の色に似た言葉を吐く。
「俺は『最善』とか『最良』とか……そう、つまり、『最高』とか、そういう意味の言葉が好きではなくてね。貴方は俺の為にベストを尽くさないでいい」
「……訳のわからん命令だ」
「命令じゃない。単に──そう、もっと気楽にやろう、と、そういうことさ」
軍師にとって、気楽、という言葉は縁遠いもののはずだった。
彼らの双肩には一軍の命運が圧し掛かり、全ての事物を検討して──そう、『最も』勝利に近い策を構築するのが仕事。それなのに、アルベルトはそうしないと言う。
「軍師というのは効率という言葉が好きだと思ったが」
「全て、効率よくやればいいというものじゃない。効率が全てだと言うなら、人間は生まれる前に死んでおくべきだな──それなら物を食べる必要も、墓を掘って貰う必要もないから」
大切なのは意義なんだよ。
そう呟いて、アルベルトは伏せていた目を上げた。
「最善という言葉は幻滅と深く結びついている。『それより上』がないんだからな。救われない話だ」
「諦めればいいだろう」
「人間はそう利口に出来ていないのさ。つまりそう──自分で言うのもなんだが、職の関係上、仕事にストレスが多くてね。出来れば俺は、いずれ手を離す駒に執着したくないんだ。だから貴方は、適当にやればいい」
「……俺の協力など必要ないと聞こえるが」
「まさか。全然違う。貴方に『適当に』やって貰えるだけでも、俺は随分助かるよ」
アルベルトはそれこそ適当に言った風にして、一度瞬きをした。しかし、物憂い眼差しは、少しも変わらなかった。目を開けていてもつまらないことにしか直面出来ないとすれば、眠気が覚めることなどないのだろう。
「ユーバー。つまり……率直に言えばね。貴方に俺のためにベストを尽くされると、良心が痛むんだ」
「良心?お笑い種だな」
「笑っていいさ。俺は裏切る必要があれば、貴方を裏切る男だ」
まるで気負いのない様子で、アルベルトはユーバーに向かって微笑んだ。老成した表情だった。
「貴方もそうしてくれ」
だから、危ないときには逃げて構わない。
お互いに、誰かのために懸命になったりしない。
それならお互いに、誰かのために泣くこともない。いつも笑みを浮かべ、気楽にしていられる。
「そうでなければならない。そうじゃないか?」
『保身』
「アルベルト。俺は怒っているぞ」
「……どうして?」
折れた己の剣の刃先を探す気はない。
ユーバーは、肩口に食い込んだ鋼の切っ先を力任せに引き抜いた。黒ずんだ液体が、ぽたりと零れる。それを見て、ぶつくさとユーバーは不満を述べた。
「鎧を着ていればもっと浅手で済んだんだ」
「その服の方が似合う」
「実用性を考えろ」
「実用性?美と相容れない言葉だ」
アルベルトは目だけで笑って、地面に倒れているユーバーに手を差し伸べた。引き起こす力もない癖に、形だけ取り繕ってどうする。
ユーバーは舌打ちすると、手を取ってやり、九割方自力で上半身を起こした。忌々しいペシュメルガの剣の先を、力任せに遠くに投げ捨てる。
眠たげな目が、それを追った。
無性にいらいらして、ユーバーはもう一度呟いた。
はっきりとわからせてやる必要があった。ユーバーは、こんな事態を許容する気はない。
「……俺は怒っているんだ」
「どうして?」
アルベルトはいつも通りに無感動な顔で、同じ言葉を繰り返した。そんな風に、どうして、などと良くのたまえるものだ。本当は、隠していることまで無駄に悟っている癖に。
ユーバーのために、危ない橋を渡る気はないと言った。今でもよく覚えている、あのふざけた言葉。
それで良かった。そう納得していた。なのに──アルベルトはそれを反故にした。
「──貴様は嘘吐きだ」
そう言った瞬間、顔面に砂を投げ付けられた。
まさか、あまりに予想外だったもので、ユーバーはまんまとそれを受けた。避ける気がなかったわけではなかった。本当に、あまりに予想外だったから、
「貴様、!」
「黙れ煩い」
口に入った砂を吐き出す前に、第二撃が来た。
咄嗟にうつむいた頭に、乾いた砂の塊があられのように降りかかる。
「俺が嘘吐きなら、お前は無能だ。何故俺が怒られなければならない。お前の我侭にはいい加減飽き飽きだ」
「アルベルト!止めろ殺すぞ、」
「俺は、死守しろなんて言わなかった。そんな事を、お前に頼んだことがあるか」
一瞬、ユーバーは目を閉じた。──砂が入ると、思ったからだ。
「こんな砦、別に不可欠なものじゃなかった。ペシュメルガが出てきたんだから、お前は逃げて良かった。それなのにお前は馬鹿な勘違いをして、」
「──俺は、」
砂遊びなんて一度もしたことがない筈の男は、ユーバーを見下ろしながら、不出来な駒を叱った。
その表情は、逆光になっていて見えなかった。
「お前は、俺のためになんか、……俺はお前をいずれ裏切るのに、……お前は、俺のためになんか」
「──アルベルト、」
「お前が悪いんだ。お前に、俺の行動を怒る権利なんてない。だって俺は──」
俺を、嘘吐きにしたのは誰だ。
「俺は、泣きたくなんてないんだ」
ユーバーもそうだった。
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