「軍師と言うものは、城で一番忙しい人間だと思っていたが──」
ユーバーは冷たい眼差しでアルベルトを見下ろした。
急に呼びつけられ、北半球まで送れと言われ、重大な仕事かと思えば──単に避暑である。ふざけている。
涼しい風が吹く木陰。煌く湖面。絵に描いて額縁に嵌めてあるような風景だ。
アルベルトはユーバーの言葉を聞いているのか居ないのか、ユーバーに抱えさせた荷物の中から辞書のような分厚い本(人が持つと思って!)を引き抜いている。
ユーバーにパラソルを立てさせ、椅子と机を組み立てさせている最中に、だ。
良く考えれば、飴どころか首を貰っても見合わない話ではないか?
「貴様程怠け癖のある軍師は居ないな」
「いいや、居るよ」
「何処にだ?コウノトリがやってくる島のキャベツ畑の木のうろの中にか?」
「もっと近いところに居る」
「俺の目の前ということだな。赤毛で目の色は緑」
「惜しい。大方合っているが、答は俺の弟だ」
「威張るな!シルバーバーグは貴様の父の代で突然変異でも起こしたのか」
アルベルトはバスケットの中からベーコンと卵を挟んだパンを摘み出すと、ユーバーに差し出してきた。それで機嫌を取っているつもりなのか?見縊るな、茶もつけなければ及第点とは言えない。
「わかっているよ」
何がわかっているのか知らないが、アルベルトは勝手にそう言って紅茶を淹れる準備をし始めたので(何から何まで他人の世話になる貴族の癖に、何故かこの男は紅茶だけは自分で淹れる)、ユーバーはもぐもぐと口を動かすことにした。ポットを一睨みして湯だけは沸かしてやった。
小麦。塩。卵。脂。バター。胡椒。肉。芥子。酢。窃取した成分を一通り検証してから、ユーバーは結論を出す。
「毒は入っていないぞ」
「それは良かった。それではもうひとつどうぞ」
断る理由はないので、ユーバーはバスケットごとパンを膝の上に載せた。アルベルトには、お願いします分けて下さいと言われたら考えてやればいい。
「仕事はないのか」
「勤勉でない軍師は信用されないからな──やろうと思えば幾らでも。だが、誰がこなしてもそれなりになる仕事なら、俺がペンを握らなくともいいだろう?」
「傲慢だな」
アルベルトは飛び切りの冗談を聞いたように、ふと笑った。
「それは違うよ、ユーバー」
紙面から眼差しを離さないまま、続ける。
「お前は何でも一人で出来るから、そういう考えになるんだろうがな……出来うる限り全てのことを自分がやらなれば駄目だと考える方が、余程傲慢な話だ。実際、オンリーワンなんてそうそう無いのさ」
誰であろうが、代わることは出来る。そうアルベルトは言う。
卓越した剣の使い手であっても、人並み外れた知識の持ち主であっても──その者が出来ることを、他の誰もなしえない、と言う訳ではない。もっと柔軟に考えれば、一人で獅子を仕留めなくとも、百人で追い込めばいいだけの話だと。
そして。
「俺はな、お前みたいに一人で何でも出来る存在じゃない」
アルベルトは膝の上の書物の頁を繰りながら、口の端に笑みを載せた。ユーバーは疑いの眼でそれを見た。
「だから、仕組みを作ることしか出来ない」
「仕組み?」
「たとえばな。俺は自分の足で追うのでは、兎の一匹も捕まえられないが、夕食に兎を食べたいと思えば簡単に皿の上に載せられる。戦争も同じだ。剣を振り翳して突撃する雑兵の真似は、俺はやろうと思っても無理だが──上から差配することで、戦に勝つことは出来る。仕組みというのはつまり、効率よく駒を並べることだ。だから有能な官を揃えることが出来れば兵站案なんて俺が眠っていても完成するし、軍議用の資料もすぐに整う」
「では、本当に上手い仕組みになっているなら、貴様など居なくてもいいと言うことになるぞ」
「ああ」
アルベルトは気負い無く頷いた。
「俺は居なくともいいんだよ」
「──仕組みを構築することさえ出来ればいい。この世界のな」
あるべき歴史を作り上げれば、誰が死んでも未来はあるべき姿になる。
現実は、常に数式のように原因から結果へと美しく流れ続けるのだから。
重要なのは仕組みであって、俺ではない。そう言って、アルベルトはユーバーを見た。
もう一度繰り返す。重要なのは、悲願であって個人ではない。
「俺に出来るのは、執事に言いつけて、料理番を雇い、兎を仕入れさせることだ。ひとつひとつは微々たる連鎖だ。大層なことはしなくていい──理解すればいい。そして、調律すればいい」
通貨や、宗教や、国家も、歴史が砂粒から作り上げた仕組みだ。調律し、利用できる。もっと大きな仕組みの歯車にして、全てを巻き込む因果が編み上げられる。
「人間には、お前のようなことは出来ない──だが、仕組みはお前にも出来ないことを可能にする」
「……それを普通、大層なこと、と言うんじゃないのか」
その目は暗い森の深くの色。泡立ちもしない底なし沼の色。半分瞼の裏側に隠された、気だるげな色──生気はなく、しかしそこにはユーバーには持ち得ないものがある。
夢想だ。
そして野望だ。
それは決して崩れることのない意思だ。空想こそが理想になる。
──瞬きの間に生を終える筈の人間が、この世の往く末に手を伸ばそうとする、その煌き。
長く生きることではなく、誰より強くなることではなく。生き延びずとも、か弱くとも、永遠を手に入れる者の目だ。
何も出来ないと言いながら、それ以上を掴み取る。
「……千年王国を作るのか」
「いや、完全世界をだ」
「信じているのか、そんなものを」
「信じているよ、そんなものをな」
ユーバーは低く喉を震わせた。笑うつもりだった。
ユーバーにはそんな夢想を信じることは出来ない。
「あるがままの運命が見えないのか?」
「俺は、あるべき姿こそを信じる。世界が間違っているのなら、嘆く前に訂正すればいい」
陽光が輝き反射する湖面に、ユーバーは視線を移動させた。
青い空と、緑の草と、白い湖面。本来なら様々な色で鮮やかな筈の景色が、ユーバーには殆ど灰色に見えている。真の紋章が見せる、灰色の未来。たとえではなく、全てが灰色の世界。静謐で、生命は絶え、色彩は全て消え失せ、喜びも悲しみもない。発狂する程の静けさと孤独。
混沌が敗れ去り、秩序が全てを支配し、世界は停止するとその光景は告げている。
──そのことをユーバーは知っている。
だからユーバーには信じることは出来ない。死期は明日だと宣告された老人が、恋を望むことがないように。
ユーバーは利口に現実を受け入れ、アルベルトは理想のために夢を見る──結局、殆どの者が選ぶのは前者の姿勢だ。叶わぬ光に向かって足掻き苦しむより、諦念を感じている方が楽だから。
そう、楽だから。そんな風に誤魔化さなければ──生きていけないから。
ユーバーは、バスケットの中から今度は野菜とチーズを挟んだパンを取り出すと、むしゃむしゃと咀嚼した。子どもがピクニックに行くような有様だ、この甘ったるい夢。紅茶にミルク、砂糖菓子より綺麗な景色。
ユーバーは小さく呟いた。
「……見てみたいな」
「見せてやる。──お前は、生き延びてさえ居れば、それを見る事が出来る」
それでも、アルベルトは言う。
嘘吐きな唇で、誰もが信じてしまいたいことを言う。悪魔の常套手段。騙されてはいけないのに、騙されたい気持ちにさせる。
毒薬は口に優しい。
「あるべき世界を見せてやる」
一人では何も出来ない男が、よくも言う。
だが、それがアルベルトだ。
神をも畏れぬ真似をするくせ、自らを特別ではないと言い切る皮肉。
限界を理解するにも関わらず、全能を信じる純粋。
他のどこにもない、とユーバーはそう思う。
彼が骨も残らなくなった未来、ユーバーは、この空の青と草の緑を、灰色の混じることのないそれを見る事が出来るだろうか。
たった今彼が見ている筈の景色がユーバーの目にも映るだろうか。
──時差がありすぎるな、とユーバーは思ったが、口には出さなかった。
それが不満だなんて感情を持てば、一人で何でも出来なくなってしまう。
(もうひとつどうぞ)
嫌だ。
きっと、これを覚えているだけでもう充分だ。
『軽く千年の約束』
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