──貴方が誰かを愛するときが来るとしたら、
きっと同じくらい、その相手を憎むことになる。

──私が誰かと生きるときが来るとしたら、
きっとそれよりも、死んだ方がましに違いない。





















最初に、視界を灼きつくす真っ白な光。
鼓膜の損傷と共に、世界から音が消える。

アルベルトは頭を伏せ、膝を抱えて衝撃に備えた。折れた木に直撃された御者と馬は即座に圧死し、アルベルトは横倒しになった馬車の壁に肩を酷く打ちつけた。
ただし、頑丈な馬車には窓ガラスが割れた以上の損傷はなく、アルベルトの怪我は深刻なものにはならない。更に言えば、アルベルトに混乱はない。

アルベルトは、眩む目と痛む頭、そして利かない耳を抱えて、その頑丈な箱の中から即座に脱出する必要があった。
落雷によって倒れた木は炎上している。雨がそれを鎮火するよりも、アルベルトが焦げる方が早いのは明らかだった。あるいは、地面が緩んで馬車ごと崩れ落ちるかも。

殆ど手探りで、アルベルトは空を向いた馬車の扉を持ち上げた。
滴り落ちてくる雨に途端に頭髪が湿り始め、それなのに皮膚は熱気であぶられる。

運が悪い、とアルベルトは呟いた。
荷物を掴むと、おぼつかない動作で馬車の外に出る。それでも、彼に出来る最速の行動だった──大体、アルベルトにとって手足という部品は付録のようなもので、性能を期待されてはいない。

山火事にはなるまい、とアルベルトは判断する。
湿気、風、そして森林の若さ。そんな事を自動的に考慮しながら、炎から距離を取る為によろよろと数歩だけ歩き──そこで、二度目の不運があった。足を泥に取られ、アルベルトは馬車と大木の衝撃に崩れていた道を、更に数十歩程滑り落ちた。正確に言えば、不運ではなく、それは単に運動能力の問題だったのかも知れないが。

「────」

白いコートは泥まみれだ。けれどその生地は健気に水分を弾き、湿気を内側まで通さない。
アルベルトがこの重いコートを着るのには、それなりの理由がある。雨に濡れる、単にそれだけで、虚弱なシルバーバーグ一族には大分深刻な被害になりうるのだ。

足をくじいていないことを確認して、アルベルトはすぐに立ち上がった。
このまま雨に打たれてはいられない。

歩いて人里まで下りるのは現実的ではないにしろ、救助を待つのに相応しい場所は他にあった。
事故現場から離れず、けれど風雨の避けられるところが良い。

目が眩み鼓膜が破れている中でろくに歩ける筈もなく、アルベルトは単に、葉を密集させている低木に寄り添うことにした。


アルベルトは手探りで荷物の口を開け、書物を取り出すと尻の下に敷いた。それから傘を広げた。周囲は、壁のような潅木。
秘密基地のようだ、と馬鹿げたことを思いながら、一人で少し笑った。

雨が止むまで二刻程だろう、そう考えながら何度か瞬きをする。視界の白濁は、まだ残っていた。
地盤が緩むほど激しい雨ではない。アルベルトが予定の通りに現れなければ、その頃には部下が探しに来る。
それまでこのまま待てば良いだけのことで、落雷がもたらした困難は、その程度だった。

がさり、と音がした。

「────」

ふと、アルベルトは少し可笑しくなる。実際に、口の端を緩めてアルベルトは笑った。
──運が悪い。

この状況では、動物達も鼻が利かず、活動をやめているものが多いだろう──それは的外れな把握ではないが、獣とて、雨が降れば帰る棲家がある。
獣道を邪魔者が塞いでいれば、機嫌が悪くもなる。いや、むしろ良くなるか?障害というよりも、アルベルトは単なる肉だから。

ぼやけた視界でも相手の正体は掴める。シャドウドッグだ──見える範囲では二匹だが、群れで行動する種だからその辺りにもっと居るだろう。

アルベルトは傘の柄から手を離すと、迅速に(彼に可能な限り、という事だが)、袖の内に指先を突っ込んだ。
炎の壁の札が、そこに収まっている。

──筈だった。

「────」

珍しいことだが、アルベルトは本当に大笑いしたい気分になっている。
袖が破れていた。どこかに引っ掛けたのか、そんな原因に予想がついても意味はない。ただ、破れた場所から浸み込んだ泥が、札を台無しにしている結果だけが重要だった。

動きに反応して、正面のシャドウドッグが飛び掛ってくるのを、咄嗟に傘を蹴飛ばして盾にした。
泥をはね散らかして、泥濘の中に傘の柄が浸る。モンスターの姿はその影に一度隠れたが、当然直ぐに、障害物にもならないものを飛び越えてきた。
















『天の罰』

















こんな風に走った記憶は、アルベルトにはない。

貴族には、『走る』という選択肢はないのだ。歩くか、座るか、立つかだ。それも、出来うる限りの優美さを持って。
生れ落ちたときから、アルベルトには走る必要などなかった。傅かれる立場であり、必要ならば誰かに命令をしてそれで済む。

喘ぐように、水気を含んだ空気を貪りながら、アルベルトはまた崖を転がり落ちた。不可抗力というよりは、今度は故意に選んだのだ。そうしなければ、その場で追いつかれてしまっただろう。

下りたのではない、落ちたのだ。口と鼻に詰まった土を吐き出して、またよろよろと立ち上がる。

くじいた足を気に掛けている場合ではない。シャドウドッグは、軽々と崖を飛び降りてきていた。
ふらふらと、アルベルトは地を蹴った。コートは既に、白い部分を失っていた。

泥と水でぐしゃぐしゃになったみすぼらしい姿。
笑い出したくなる。これが、アルベルト・シルバーバーグか。

惨めなものだ。パンの代わりに、土を食べている。


「、」

運動と縁遠い四肢は痙攣を始めている。苦しい。
だが、アルベルトは、己の体に命令した。『走れ』と。

生きる為の最善手を。
生きる為──悲願を達成するために、出来る限りの事を。

「──、──、」

躓きながら、アルベルトは走った。
そのふくらはぎの裏側に噛み付いてくるモンスターを避けようとして、転ぶ。

「っ」

アルベルトは、既に、逃げ切れないという事は知っていた。確信を持って。
けれどアルベルトは、その死に、抗うための努力をしなければならなかった。生を放棄するなど、許されない。

「!」

噛み付いてくる相手の口の中に、咄嗟に腕を突っ込む。
当然噛まれて、激痛が走った。牙が神経を突き破り、肉を貫通する感触。

生臭い息が触れ、顔の上に、血液と涎の混合物がぽたぽたと落ちる。
腕に力を込めたが、何秒も持たないのは明白だった。

それどころか、数瞬後には別の一匹がアルベルトの喉笛を噛み千切るだろう。そしてその爪で、体もずたずたに引き裂くだろう。

「────」

アルベルトはふと微笑んだ。考える事は何もない──何も、考えなくて良い。
明日のことも、明後日のことも、その先のことも、もう、考えなくて良いのだ。
抗えないのだ。出来るだけの事はした。己に出来る事は、全てだ。

だから──





ああ、やっと。
己は死ぬのだ。






体に衝撃が走る。
音の聞こえないアルベルトが捉えたのは、悲鳴ではなく空気の振動だった。
視界に溢れる、真っ赤な血。びしゃびしゃ、とそれを顔面で受ける。

首と胴体を切り離されたシャドウドッグは、どろりとした眼光でアルベルトを睨んでいた。
そして──その先で。
真っ赤な目をした黒い男が立っていた。彼が持つ刃物もやはり、赤く濡れていた。

帽子が泥の上に落ちていて、彼が余裕なく動いた事が知れた。


だから、アルベルトは死ななかった。
これ程──運が悪かったのに。

彼は間に合った。

もしも。後、一瞬。それだけ、遅ければ。彼がそんな風に懸命に、動かなければ。



「────」


ああ。
ああ!


その一瞬、もしかしたら。
アルベルトは、ユーバーを憎んだのかも知れない。



「っ!」

差し伸べられた手を、アルベルトは振り払った。
嫌悪。それが一番近かった。あるいは、憎悪。生理的な悪寒に突き動かされて、アルベルトは腕を振り回した。赤子が、毛布を暑苦しがって跳ね除けるように。

「何故、」

口に出している言葉を理解せずに、アルベルトは癇癪を起こした。
形振り構わず、どうやってか立ち上がっていた。ずるり、と獣の首が腕から落ち、そんな事にも気付かないまま、血に塗れた腕を振り上げた。
激情のまま、口走りかける。

「何故……!」

お前はわかっていただろうに・・・・・・・・・・・・・
何故助けた。








乾いた、威勢の良い音など出なかった。

全く無様なやり方だった。それでも、ユーバーは避けなかった。アルベルトこそが衝撃にふら付いて、木に背中を預ける結果になった。

「────」

僅かに俯いたユーバーの横顔を、アルベルトは見た。
体が勝手に荒い息を整える。脳裏の空白に理性が雪崩れ込む。



──自分は今、何をした?



ユーバーを殴った。
軍師であるアルベルトが──この手で。殴ったのだ。
アルベルトを、助けてくれた、ユーバーを。

ユーバーは怒ることはなかった。
ただ、顔をゆっくりと持ち上げて、アルベルトを見て、静かに言った。





「──俺が謝る必要が、あるか?」




無表情。冷たい言葉。
鼓膜が破れた耳には聞こえないけれど、その響きはアルベルトには容易に知れた。

けれどそう口にしたユーバーの方が、傷付いているように見えた。雨の中に佇む姿は非常に美しいのに、それ故に、すぐに崩れてしまいそうに見えた。何より脆いもののように見えた。

悪かった、と、アルベルトは心の中で告げた。口にする事は出来なかった。
──本当に、悪かった。

お前を責めてしまった。

「ないよ」

無音の世界、言葉が聞こえる筈がない。聞こえる筈のない言葉が、どうしてわかってしまうのか。
わからなければ、とアルベルトは思った。
お前の孤独など、わからなければ。

自分が何もわからなければ、こんな風にはならなかっただろう。
思うまま相手を傷つけられただろう。糾弾の言葉を口にして、泣き喚いて。

この身に、雷が落ちてくれれば良かったと。どうにもならないものに打ち砕かれて死にたかったと。
何もわからなければ、何も構わずに言えただろう。

ユーバーは、また唇を動かした。


「……泣かないのか」


泣かないよ、とアルベルトはやはり心の中で返した。
この世界では空すら泣くが、アルベルトは泣かない。滴る雨を受けながら、アルベルトは微笑んだ。

お前が泣かないのと同じように、俺は泣かないんだ。

だから人間のように上手に慰め合うことは出来なくて。
けれど、それだから、傍にいる事が出来て。

「ありがとう」

アルベルトは、感謝の言葉だけ口にした。
嘘なら、この唇から幾らでも紡ぎ出せる。情を囁くことも出来る。


「帰ろう」


騙されたふりをして、ユーバーが目を閉じた。

おいていかないよ、なんて愛の台詞。
お前がいなければ、なんて呪いの言葉。
どちらも、言ってしまえばすぐに嘘にしてしまえる。手間の掛からない演技と、物語のような愁嘆場で、それなりに楽に済む。

それなのに、そんな台詞が口に出来なくて、アルベルトはいつものように微笑んだ。
降る雨がぺったりと髪を濡らして、ぽたぽた、ぽたぽたと顎から雫が伝う。


お前と私に、雷が落ちてくれれば良かった。
──そんな言葉など。



言えないんだ。



いつか私は、お前を置いていく。
アルベルトも目を閉じた。視界が暗くなる。


「帰ろう、ユーバー」
「──……  」


アルベルトは雨の雫を払って、返事を確かに受け取った。
鼓膜も網膜も、何も使わなくても、知れてしまう。
言えない言葉だって、聞こえてしまう。
いつものように。

救いようがないものだから、救われないのだろう。
ただ寄り添うだけで傷付いている。
いつものように。



雷なんて、都合よく落ちてはくれなくて。
いつものように──生きていくしか出来なくて。



それが当然なので、アルベルトは納得する。





雷よりも、似合いの罰だった。


















貴方は私を憎みますか。

ああ。
それならば──私は貴方と。





















『天の罰』:END.