『僕モ殺セ』










「作戦は成功を収めた。不備はない」

レオンが珍しく褒める言葉を、アルベルトは特に感慨なく受け止めた。
表向きは祖父付きの軍師見習いとなっているが、実はこれがアルベルトの初陣だった。表向きは、というのは、まさか十を少し過ぎたばかりの少年に、一軍を任せる程豪気な(あるいは狂気の?)君主はいないからだ。

馬に乗るレオン・シルバーバーグは、アルベルトより随分と視線が高い。
夕闇に溶けるシルエットは、アルベルトを見下ろしてはいなかった。祖父と孫、いや、軍師とその付き人は、同じ方向を見詰めていた。つまり、戦場を。

「こんなものか、と思っているか」
「いえ」

お互いのみに聞こえる声音で会話しながら、アルベルトはただぼんやりと遠くを眺めていた。髪をなぶる風は生温く、生臭い臭いがした。
転々と転がる屍、馬の屍骸、特に珍しいものはない。
笑い声を上げながら、兵士が隊列に従って戻って来る。その足元は泥に汚れている。

「宜しい。では、帰るぞ」
「はい」

従順に振り返りかけたアルベルトの視界に、兵士の列が引き摺っているものが目に入った。
仲間の死体か、と一瞬錯覚しかけたそれは、鎧を纏っていない。それに、随分と細かった。そして、まだ生きているようだった。歩いてもいる──自力で、とはとても言えなかったが。

農作業用の野良着と、その両手は、べったりと赤黒かった。そこらの兵士より余程、血を浴びていた。
女だ。

「どうした。置いていくぞ」
「────」

はい、と答えないまま、アルベルトの目は次々と、『あってはならないもの』を発見した。
泣き叫ぶ少女が、家畜のように首に縄をつけられて引き摺られていく。衣服は着ていない。隠すもののない素裸のまま、靴だけを履いて、鼻血を垂らしている。叫び声は意味をなしておらず、狂いかけている事は一目でわかった。
首を引かれて歩く少女が胸に抱いているのは、生首だった。

おそらく、父か、兄か、あるいは、恋人の。
そして彼女は、その生首を作り出した相手にこれから死ぬまで犯される。

「──現地人からの略奪は、」

禁止されている、とアルベルトが呟くその前に、レオンが引き取った。

「慰安婦を勝手に補充することも、殺すこともな」
「では、お爺様、」
「それは建前だ」

レオンは深い溜息を吐くと、馬の歩みを止めた。

「先程不備はないと言ったが、それは取り消そう」
「────」
「策ではない。お前の心が、まだ、軍師には足りない」

ぐ、と馬上から首を掴まれて、アルベルトは仰け反った。
逆光に黒く塗りつぶされた祖父の顔が、こちらを見下ろしている。気道が狭まり、呼吸が困難になった。

「兵は一秒後には死んでいるかも知れない立場だ。子孫を残す本能が働くのは当たり前だ」
「、……っ、」
「軍規など、死んでから役に立つものではない。目の前の快楽が全てだ。戦場で上官殺しが多発するのも頷ける──どれもこれも、お前は知っていることだろう」

学んだ筈だ、と繰り返される。
襟首を突き放されて、アルベルトは地面に尻餅を突いた。その時、近くで叫び声が上がった──見れば、女が背中から斬り倒されるところだった。死に切れず、足掻く手が地を掻き毟る。

遊びだ、と祖父が呟いた。
歪んだ暴力の発露は、兵の気晴らしになる──知っている。アルベルトはそれを知っている。

「……!」

上がる舌打ちと、笑い声。肌で剣の血糊を拭われる体。
彼女は敵ですらない。血を吐きながら呻くその顔と視線があった気がして、アルベルトは目を伏せた。

「私は、」
「──そんな命令はしていない、などと口にするな」

レオンは馬から下りると、アルベルトの顔を上げさせた。
悲劇の一端を、強者が一方的に弱者を搾取する様を、視界に映す。

「お前は悲惨な戦いにも、凄惨な死体にも慣れさせた筈だ。何故を今更尖る事がある」
「私、は、」
「無駄な死人は出さず、覚悟の出来ている者同士の戦いを調整するだけ、か?自分ならそれが可能と思っていたか?」

美しい戦争を?

「それは驕りだ、アルベルト。お前は神には程遠い

レオンはアルベルトの髪から手を離すと、傲然と腕を組んだ。

「お前があれを制止してみるなど、無駄だ。綺麗事だ。醜い争いを前に、夢を見る偽善者共の言い分だ。闘争の正当化は、君主の仕事という事だ。それを知っていただろうアルベルト。お前には教えた筈だ。お前は飲み込んだ筈だ。現実を──戦は、既に狂気で地獄だと言う事をだ。その地獄を踏み台にして、我らが目的を果たすという事を、だ」
「──」
「そして『あれ』は無駄な死ではない。全て織り込み済み、だ──戦をすると決めたときから、織り込むより他にはないのだ。お前に『あれ』を止める事は出来ない。我々は『あれ』を利用するが、無くす事は出来ない……」

兵士達は、殊更に非道を見せ付けている訳ではない。
だが、その分、その自然さは生々しかった。これが『普通』だということが──非戦闘員を嬲り殺すことすら、戦を理由にすれば禁忌ではなくなる。

「彼らが醜いか」

沈んでいく夕陽。
家に戻れば妻子が、恋人が居る男達が、誰かの妻子を、恋人を、自分自身を──食う。

「では、その兵を動かして勝利を得るお前はどうだ。理不尽に弱者を襲い、嬲り、平穏を粉々に破壊し、赤子を殺し、村を焼き、女を犯したのは誰だと言うつもりだ」

非の打ち所のない作戦も。
厳しい軍律も。
『これ』を無くす事は出来ない。
必然的に起こるもの──それを知っていたのは誰だ。

転がって来た生首を、レオンは冷たく見下ろした。

「お前が利用したもの・・だ。そうだろう、正軍師」
「……はい」

アルベルトが無言で立ち上がるのを確認し、レオンも再び馬上の人となった。
悲鳴は耳を素通りし、惨劇にもやがて慣れていく。死者は喋らず、弱者に力はない。

完全な仕事パーフェクトワークだ。誰も、これ以上の事は出来まい」








+++ +++ +++








立ち尽くしている間に足元から這い上がって来る虫を、払い落とす事は許されない。頬に集る羽虫も、追えない。
陽気に、既に屍は腐り始めていた。舞い飛ぶ蝿は繁殖場を自由に選べるし、鳥達も食うに困らない。

屍は本当に、アルベルトは見慣れていた。
けれど、それは屍ではなかった。

うつぶせたまま、それはアルベルトを見上げていた。じっと。
呼吸をしていた。
たかる虫を食みながら、それは心底からの憎悪だけを目に宿していた。既に人ではなく、蠍か何かに近しいものになっていた。

アルベルトと同じ年頃のその農村の少年は、伏したまま、こう命令した。
懇願ではなく、命令だった。
家族の死体に並びながら、その腐る臭いを嗅ぎながら、水分を失いがらがらにひび割れた声で、彼はアルベルトに罰を下した。短く。

開いた腹のなかから、臓物を掴み出すような言葉。

「       」

日にさらされた髪の間に、虫が潜っていく。
やがて鳥に奪われる目玉の中に埋め込まれているのは、絶望と言うよりは、心底からの呪いだった。

生きながら腐敗している少年の手は泥に塗れ、顔面はどす黒く腫れ上がっていた。
アルベルトは白いコートに身を包み、それを見下ろしている。

少年はまだ生きていたし、おそらく、これからも呼吸をすることは出来そうだった。致命傷は負っておらず、動く事も出来るに違いない。
けれど──彼は地に伏していた。仲間達と、同じように。


「────」

アルベルトはゆっくりと視線を彷徨わせると、民家の軒先に置いてある臼に歩み寄った。
大きな石の塊を動かそうとしたが、アルベルトの力では持ち上がらない。

そこで、手入れされた庭の方にアルベルトは侵入した。
美しく咲いた花──もう誰も見ない花──を踏み躙りながら、縁石に使われていた一抱え程の石に、腰を据えて取り掛かる。
前かがみになって、それを胸に抱く。生首ではない、とくだらないことを考えた。

この手は、あの少女のものとは違う。
美しい手だ。農作業すらした事のない手だ。

はあっ……はあっ……はあっ……はあっ……はあっ……はあっ……

重い荷物に、息が切れる。
息を切らしたことすら──アルベルトにはなかった。そして、これからもないのだろう。

石を抱いて、アルベルトは歩を進めた。たった数十歩の距離が、遠い。
腕が千切れるほどに痛んだ。アルベルトの額から汗が伝い、他人のもののような呼吸の音だけが耳を打つ。

はあっ……はあっ……はあっ……はあっ……はあっ……はあっ……

眩しい日差しの中、花の上を、アルベルトは歩いた。
腕が震えた。頭が真っ白になっていて、気付いたときには女の死体を踏んで躓いていた。重い音を立てて、石が地面に落ちる。顔面から倒れ込み、アルベルトは手のひらをすりむいた。
それを見てから、アルベルトはもう一度、石を持ち上げた。荒い呼吸のまま、元居た場所へと戻る。

はあっ……はあっ……はあっ……はあっ……はあっ……はあっ……

ぷるぷると痙攣する腕を使って、アルベルトは、石を自分の頭上まで持ち上げた。
焼付く日差しが目を射る。眩しくて仕方がない気がするのに、見上げる少年の目ははっきりと見えた。

アルベルトは剣を持たず、アルベルトは剣を扱えない。
鈍器とは、もっとも原始的な武器だ。
指が震える。
汗が滴る。
重い石を持ち上げたまま、アルベルトは動きを止めた。
しかし、ずっとこのままではいられない。下ろすか、それとも。
けだものじみた呼吸が、耳に障る。
鼓膜のすぐ後ろで、心臓が鳴っている。
今ならまだ、止められる。
引き返せる。
誰かが耳の後ろで囁く。

「────!」

しかし、目が見ている。
その目が──アルベルトを、見ている。



もう一度、少年は命令した。



「       」



腫れてつぶれかけた片目の奥から、命令した。
その目に映るアルベルトの顔は、歪んでいた。

醜いのは誰かを、彼は知っていた。
生きながらにして腐っている少年は誰かを。






ごしゃっ





どこかで、アルベルトのどこかすぐ近くで、何か水っぽいものが割れる音がした。



















これが罪だなどと、陳腐な台詞をアルベルトは言わない。
ただ、アルベルトは、綺麗な手に小さな傷を作っただけだ。言ってみれば、ただそれだけだ。

アルベルトが支払ったものは、その程度で。
責める声もここには最早、ない。

完璧な仕事だ。この心以外は。
確かに祖父の言う通り。
アルベルトにはもう何も出来ない。

何故誰もこれ以上のことが出来ない。
何故こんな不出来なもの以上がここにはない。
これが完璧なら、それは絶望というのだろう。

アルベルトがここでなしたことは、戦に勝つために必要な行為では、全く、なかった。
肉体的にはこれからも生きていけた筈の少年をアルベルトは消し去り、それも全く、正当化されるものではなかった。


綺麗な手を持つアルベルトは、怖気を奮うほど、ひたすらに。
穢い。

アルベルトは腐っている。



「       」


がくがくと震える指で覆った口元から、小さく、言葉が落ちた。
少年の言葉はアルベルトに向けられたもので、アルベルトの言葉は世界に向けられたものだった。


少年の言葉は、アルベルトが叶えた。
アルベルトの言葉は、そのまま地中に埋められた。望みは、そう容易く叶うものではなかったし、誰にも聞かせてはいけない言葉だった。