悲劇を描いた戯曲、過ぎた執着の果てに、死を選ぶ愚かな恋物語。

それを戯れに紐解くその手を見ながら、いつだったか、アルベルトは言った事がある。似合わない、全くくだらない、有り得る事などない仮定を。

「いつか、私が名を捨てたなら。貴方はどうしますか」

日ごと姿を変える月のように、角度によって意味の変わる笑みを浮かべ、その唇は言った。

「貴様の下を去るしかないな」

その理由をアルベルトは理解していたので。
残酷な問いの償いに、その髪をそっと撫でた。慰め返すように、指は外された。














『それは睦言ではなく』













ごほ、と咳き込みながら、ペシュメルガは剣を地に突き立て、崩れかけそうな体を支えた。

長年の願望を果たした歓喜などはなく、ただ気だるく、いっその事座り込んでしまいたい気分だった。
負った傷は致命的なものではないにしろ、けして軽くはない。

ふと、今まで思いつきもしなかった考えが脳裏を過ぎる。これからの、自らの処遇について。
明白な目的があり、その為に全てを削り落としていたときは、考えもしなかったことだ。

ぬるりと、黒く滑った液体が地面に広がっていくのを横目に、ペシュメルガは深い溜息を吐いた。いずれ塵になるその汚らしいものが、何処となく羨ましい気がした。

破損した鎧を脱ぎ捨てて、その後自分に一体何が残っているのか、ペシュメルガにはわからない。
黒く長い髪を断ち切って、破壊の大剣を捨て去って、あるいは人間らしい笑顔を浮かべて?
それは、この数百年と天秤にかけるにふさわしい褒美だろうか。

ごうごうと風が鳴く荒れ果てた大地の上で、ペシュメルガは孤独の意味を知る。
夢のように、思い描く。いつか己の影が、この命を追いかけてきたら。それすら、喜びのように、待ち遠しく思えた。この砂の中、一人埋もれていくよりは。
愛すべきものは何もない、乾燥した大気の空虚さ。ペシュメルガは今になって理解した──己が殺した相手が、己と同じただひとつの存在だったと。

人間では、この歪んだ命の隣には立てない。

胸の傷から滴り落ちる鮮血の色はいつか黒く濁り、腐っていくのだろう。
そして己に止めを刺してくれるのは一体誰だ?

「────」

ふと、気配を感じてペシュメルガは顔を上げた。
死体の散らばる砂の向こうに、赤い髪の、敵軍の正軍師の顔を認めて少しだけ唇を歪めてみせる。

圧倒的な勝利を収めた筈のその人間の目は、しかし冷たく凪いでいた。

「────」

ペシュメルガはそのまなざしを不可解に思った。
軍師の目論見は成功し、彼の軍は勝ち、ペシュメルガは引き換えに目的を果たした。その癖、赤い髪の男はとても満足しているようには見えない。
この場に現れる意図もわからない。

人間の戦争の勝敗になど興味はなく、だから、ペシュメルガが部隊を放って勝手な単独行動をとったことで自軍にどれ程の被害が出ようが──今は、何も感じ取れない。数百年の悲願に、人間の思惑など関係があるものか。

今朝までは、違う考え方をしていたのかも知れないが、少なくともペシュメルガは現在はそう思っている。
反吐の出るような悪というものが、自分が消してしまおうとあがいていたものが、どういう姿をしていたか、確かに見えていた筈のそれもわからなくなっている。足元に醜く凝っている塩の塊のような塵を、どうして憎んでいたのかも。

ざあ、と風が吹いて、塵がさらさらと空気に溶ける。

それを目で追いながら、赤い髪の男が唇を動かしたが、ペシュメルガには聞こえなかった。けれど、その様をみて思い出したこともある。

「……お前は、確かあれの隣にいたな」

人間であるのに、とそう続ける。そして、酷く腹立たしい気分になった。
ただの人間に陥れられて、あの黒い影は己に殺される羽目になった。──己は、目的を失う羽目になった。

そこで、ようやくペシュメルガは気付いた。
醜く崩れ、狂ってしまい、消さねばならぬものだったけれど──あれはペシュメルガ自身だった。あれを愛していた。鏡に映る虚像よりも近く、一枚の紙の裏と表だった。同じ顔、同じ声、同じ形。

その自身を死地に追い込んだ相手に、憎しみともつかない感情を抱いて、ペシュメルガは男に向き直った。殺してしまうか、と呼吸をするように自然に思う。それが誰に似ているか、もう考えもしない──あれは、己なのだから。

「その癖、使い捨てたのか」
「──」
「俺はそのことに対して、お前に礼を言うべきか」

男はようやくペシュメルガに視線を戻した。
そして、単純に返す。

「──そうしたいと言うのなら」

勿論、ペシュメルガは男に感謝などしたくはなかった。
己の存在意義を見失ったペシュメルガは、これから空虚を齧って飢えをしのぐしかない。埋まらない空ろを抱えて、長い永い、永劫の時を。

男は暗緑色の瞳を半分だけ瞼に隠して、こちらを見詰めている。
そこで、ペシュメルガはようやく相手の名前を思い出した。

「──アルベルト・シルバーバーグ」

『高貴なる血統』。
確かに、目の前の男はその名にふさわしいように見えた。その血にまつわるもの以外には、誇る何かはない人間。

「お前に、俺を当てこする資格はない筈だが」

ユーバーを直接殺したのは確かにペシュメルガだろう。
だが、彼をその因果に突き落としたのはアルベルトだ。

さらりと、言葉が流れる。

「ええ。確かに私にその資格はありません」

アルベルトはペシュメルガと距離を置いたまま、静かにそう言った。

「ユーバーの死は、私の勝利に必要だった。私は彼が死ぬことを知りながら、貴方と戦うことを命じました」
「他の道は無かったか」
「ありました」

けれど、これが最良の手段でしたので。

アルベルトは、確かにそう言った。その夕日のような色の髪を、空虚な風に嬲らせて。
だから一瞬、ペシュメルガは、アルベルトが自分と同類なのかと錯覚した。

人間ではないと。

「……お前は、ヒトか?」
「私は、アルベルト・シルバーバーグです」

アルベルトはうっすらと笑った。
ペシュメルガは、目を細めた。ユーバーと同じ、その顔で。

「──それは矜持か」
「いいえ、違います。誇りや恥を知っては軍師は出来ない」

人の身分など、とうに捨てている。
神も畏れず、全てを操ろう。世界を利用し、荒れ狂うものの手すら取ってやろう。

「私にあるのは悲願のみです」




確認するように、もう一度、アルベルトは言った。
ごうごうと鳴る風の音に、掻き消されることもないその事実。

「私には貴方を責める資格はありません」

人ではないような、そんな温度の声で。
穏やかに。







「けれど、私は貴方が嫌いです」


「貴方は、私が殺します」















悲劇を描いた戯曲、過ぎた執着の果てに、死を選ぶ愚かな恋物語。
名の代わりに互いを請う、それは美しい恋人達の話だ。

けれど、アルベルトは、似合わない、全くくだらない、有り得る事などない仮定など、口にしてはならなかった。


この名でなければ、傍にいる理由も持てなかった。