死ねと命じたようなものだ、というのは、誰に問われても否定出来ない。
アルベルトにとってはそれは「ようなもの」ではなかったけれども。
アルベルトにはわからないことはない。
己で口に出した言葉がどのような結果をもたらすのか、アルベルトは完璧に予測していた。
例えば、林檎を宙に放り投げたらそのまま静止するか?落下するに決まっている。
死体を硝子ケースに容れて飾って置いたら王子が迎えに来るか?腐るに決まっている。
アルベルトにはわからないことはない。
明々白々、捻じ曲げようがない成り行きだ。
水は高きから低きへ流れ、一と一とを加算すれば二になり、光が水滴中に入りその表面内側で一度反射したときの最小偏角が約百三十八度ならば虹が出来る。
そういうものだ。
アルベルトにはわからないことはない。
この結果をアルベルトは知っていた。しかし、彼は知らなかっただろう。
アルベルトが──彼に、死ねと言ったことなど。
いつものように、普通の顔で、愛の言葉を吐くよりも軽く、そう言ったことなど。
『敗北』
アルベルトは、無益に駒を消費しない。
だが、必要とあれば投げ打つのに躊躇いはなかった。
アルベルトとはそういうものだ。
破壊された砦の中を、アルベルトは歩く。
黒ずんだ血で、コートは酷く汚れている。石造りの回廊には、敵味方入り乱れての骸が折り重なって倒れ、気温のせいか早くも嫌な臭いを立て始めていた。
生者はいない。
苦鳴すらも絶え、そこはただ静謐だった。その中を、アルベルトは一人歩く。
この結果は必要だった。彼の策の為には。
血糊で滑りそうになる足元に注意を向けながら、アルベルトは進んだ。その歩みは遅々としたもので、既にこの砦に足を踏み入れてから二刻は経過しようとしているにも関わらず、今だ入り口付近をうろついている有様だった。しかし、それはアルベルトが怠けていた為ではない。
アルベルトの手袋はいまや、腐りかけた血と肉片で酷い事になっていた。
だがそれには全く頓着せず、彼は部屋の片隅にくずおれて血反吐を撒き散らかし、滅茶苦茶に踏み潰されて装備や髪色すらわからなくなっている死体の傍に屈み込んだ。うつ伏せて爆ぜ割れたその頭を持ち上げる。
「…………」
立ち上がる。
アルベルトは、派手な戦闘の形跡がある場所を選んで移動した。
折れた穂先、飛び散った鎧の破片に躓かないよう、慎重に体重を移動させる。視線は細かく辺りを観察している。
静かだ。
人が思い描ける限界の悲惨、あるいは絶望とは、きっとこのようなものだろう。
呼びかけられず、呼びかけることもなく、ただ、ひとり。
鬼すらいない地獄だ。
階段の踊り場に千切れ飛んでいた腕をアルベルトは拾い上げた。
指は砕けて潰れているそれをしげしげと眺める。そして、それをまたもとの場所に戻す。
上りの道を選び、アルベルトは前進した。
右手に曲がったとき、壁に深々と突き刺さった先端だけを残した刃物の破片に目を留めた。
手のひらが切れるのには構わず、時間を掛けてそれを抜き出す。
よく観察すれば、質の低い鋼だった。あっさりとそれを床に落とし、アルベルトはまたゆっくりと歩を進めた。
アルベルトは死体を恐れる事はない。あるいはその汚濁とて、好むわけではないが忌避するわけでもない。辿ってきた道、そしてこれから辿る道だ。
死体は何も言わず、こちらの言う事にも耳を傾けない。それは現象としての存在ではなく、何の変哲もない物体である。
アルベルトを見ることもない。アルベルトを憎む事すらない。
一際激しい戦闘があったのだろう、壁一面が紋章によって炙られている。
これでは、この狭い廊下にいたものは例外なく焼け爛れた筈だ。だが、その事実は予測するまでもない。結果が足元に転がっている。
アルベルトはひとつひとつ丁寧に調べた。
状態が悲惨なものは、一瞥しただけでは判断が難しい。
その奥は広い部屋になっていた。
死体は切り裂かれたものが多かった。あるいは、炎によってではなく焦がされたような痕があるもの。
アルベルトは無言で室内に踏み込んだ。天井にまで上がる血飛沫、ひたすら濁った空気。
赤黒い世界、そしてその中にアルベルトは、一番黒いものを見つけた。片腕と片脚を失ったそれは、胸に大穴を空け、壁に背を預けて座っていた。
アルベルトは呼びかけない。
死者が応える事はないと知っているからだ。
アルベルトにはわからないことはない。
アルベルトはそれの前に跪き、俯いたその顔を覗き込んだ。
色の違う両の目は開いたままで、残った腕には刃が握られている。
黒ずんだもので汚れたその肌に触れかけ、しかしアルベルトは手を退いた。
手袋を外す。
今度こそ辿った肌は冷たく、柔らかさの欠片もなかった。
「…………」
それだけは今だ美しい金髪ごと、アルベルトはその頭を抱き抱えた。
突然、千切れかけたその左腕が動いた。
アルベルトの目が見開かれる。交差する視線。ひゅ、と軽い音を立て、アルベルトの喉笛が切り裂かれた。
──そうアルベルトは感じたのだが、それは誤解だった。
スカーフを破り、皮一枚だけ掠め、刃はすり抜けた。
今こそ完璧に力尽きたのか、音も立てずにその腕は崩れた。砂のように。
「────」
何か、言った。
アルベルトはその言葉を聞き取ろうとしたが、無理だった。わななく唇は痙攣したように見えただけで、空気の漏れる音すら弱々しかった。
悪鬼が、自分を殺そうと思ったのか、それともわざと外したのか、アルベルトにはわからなかった。
果たして、彼が、何処まで知っていたのかも。
骸は見る間に消し飛び、その表情すら、アルベルトの手の届かない所へと消え去った。
悪鬼の名を呼んだが、返答はなかった。