「何故、追いかけるんだ?」

旅支度を済ませ、去ろうとしている旧友。
彼に向かって、ヒューゴはいつも言おうと思っては飲み込んでいた言葉をとうとうぶつけてみた。

一年に数度、あるいは数年に一度、きまぐれにひょこりと顔を見せるその男は、もう30も近いのに外見だけはそれよりもかなり若く見えた。
飄々とした笑い顔の中に配置された目、その奥にだけ、彼の人生の本当の長さがある。

「シーザー、もう、止めておけよ」

手入れのされていない赤毛はぼさぼさで、四方八方に広がっている。眠たげな緑色が、ゆるりとヒューゴに向けられた。
彼の人生に踏み込むような発言にも、怒ってはいないらしい。いっそ取り乱してくれればこちらはやりやすいのだが──いや、軍師相手に言葉で勝とうとは無謀もいいところだな、とヒューゴは思い直した。
こちらの心情だけを武器に、特攻するのが一番なのだろう。

「シーザーを好きな人は沢山いるよ。信頼できる人と一緒になって、子どもを作って、家庭を守っていけばいい」

馬の手綱を握り締め、ヒューゴは誰もが望む安定を口にした。
カラヤ馬に手綱は必要ない。この穏やかな目をした牝馬はシーザーのものだ。初めて会った頃は乗せようとしても乗らなかったのに(というよりは、乗れなかったのだと思う)、いつの間にかシーザーはいろいろなことが出来るようになっていた。

この馬を渡したくなかった。

病気にでもなればいい。と、ヒューゴは非道なことを思った。
勿論、命に関わるようなものでなくていい。ただ、長い旅は出来なくなるような、そんな病気。
それか、恋をするのでもいい。それ以外は目に入らなくなるような、恋。

「誰かに勉強を教えるんでもいい、経験を伝えたっていい、伝記を書くとか、歴史を記録するんでもいいよ。猫でも飼って、好きなだけ昼寝して、100まで生きてればいい。シーザー、お前にはそれが出来るし、その資格もあるよ」

面倒臭いことは嫌いだろう?楽をすればいい。
シーザーは、もう十分良くやったと思う。誰も、このことに関して彼以上のことは出来なかっただろう。
だから、もういいじゃないかと思う。義務も義理も、存分に果たした。

彼の人生は、彼のものであり、他の誰の為にもない筈だ。
血縁者だとは言え、シーザーがその責任を負うこともない筈。

「うーん……そりゃいい話だなぁ」

シーザーは、その緑色の瞳に軽い笑みを滲ませて頷いた。
ヒューゴは願いを込めてその姿を見据えた。いい話──そんな人生を手に入れる為に、皆が努力をしている。満ち足りた生、それこそが何にも換えがたいのだと、知っている者は賢い。

「でも、俺にゃやっぱ無理だわ」

シーザーはあっさりとそう言った。十分な検討をしたようには、ヒューゴには思えなかった。
言い募ろうと口を開きかけ、しかし先を読んだような台詞に遮られる。

シーザーはいつもの笑い顔で、放蕩息子のような酷い言葉を吐いた。
家庭なんか持てないし、定職なんかにつけないよ、と。

「俺の人生、アイツの為に使っちゃうから」

それが単なる情や、労力のひとかけら、未練の切れ端、思考の一部分ならば、浪費することについてヒューゴは何も言わなかっただろう。
だが──だが。
あの男に、シーザーの存在、丸ごとそのものを、費やす価値があるものか。

ぎゅっと握り締めていた筈の手綱は、いつの間にかシーザーの手に移っている。
呆然とそれを眺めながら、思考よりも唇の方が早く動いた。

「シーザー!!俺は、お前が好きだよ。親友だと思ってる……!」

だから、辛い思いをして欲しくない。
幸せになって欲しい。
怪我をして欲しくないし、憎しみや罵倒にまみれさせたくない。勿論、死んで欲しくない。

その道を──選んで欲しくない。

「おう、サンキュ。俺もお前が好きだよ。──親友だと思ってる」

シーザーは笑みを消し、真面目に答えた。珍しいことに、茶化す響きは無かった。
自分の人生を丸ごと投げ捨てるという宣言をした割には、まったく真摯に見える態度だった。

馬の首筋を撫でながら、シーザーは目を細めてヒューゴを見た。
そして、唐突な質問を投げつけてきた。

「お前さ、世界に自分ひとりっきりになったら、生きていけるか?」
「無理だろう」
「食べ物や飲み物や、家や服や薬や、そんなのは無限にあるとして、だ」

ヒューゴはそんな世界を想像した。
先程の仮定と、あまり劇的に変わったようには思われなかった。

「そしたらまあ、生きてはいけるだろうな……でもそんなのは嫌だから、死んでしまうかもしれない」
「そうだよな」

孤独に耐えられないのは、兎ばかりではないのだろう。
誰もが納得する答えだ。

「天国に一人きり、って言われても、あんまり嬉しくねえよな」

シーザーはふわりと笑った。

「……でもまあ、二人きり、だったら意外と悪くねぇかもよ」
「え?」

ヒューゴは問い返そうとした。
けれどそれはやはり、少しだけ遅かったらしい。唖然とするヒューゴを尻目に、シーザーは流暢に、そして滝のように大量に言葉を垂れ流し始めた。

「アイツ、全然ダメダメなんだよ。もうホント、爬虫類の方がマシなんじゃねえの、ってレベルの鈍さでさ、全然、自分の事わかってねえの。傷付いてんのに気付かねえの。うん、まあ、俺も最初の二十年くらいは気付かなかったんだけどよ、気付いたときは目から鱗なんて騒ぎじゃなかったね。もっとダイナミックなモンが出てきたよ。恐竜とか」

恐竜がこぼれてしまったらしい瞳は、もう完全に色々なものをそぎ落としていた。
ヒューゴはその場に立ち尽くし、朝日に照らされるその笑顔を見詰めていた。

「俺、バカだったのよ」

そう、自分達は随分と大人になった。
ヒューゴは唐突に、そのことを再認識した。
子供ではないのだ。やるべきことをきちんと理解している。状況も把握できている。目線は高くなり、知っていることも増えた。

「アイツも隠すのスゲェ上手だからさ、自分でも気付いてないくらいだからさ、だから見えなかったんだわ」
「アイツ、要領悪いんだよ。真面目過ぎんの。単純に、手ぇ抜いて生きてたらもっと楽で、それでもって十分幸せになれんのに」
「自分のこと、必要悪だって割り切って、なんか悪意ばっかり浴びて、それを平気だって勘違いしてて、アイツあんなに頑張ってんのに、自分の事なんか考えてないのに、世界のこと考えてんのに。誰もアイツのことわかってなくてさ」
「寒い中さ、凍えたまんまの犬とか猫とか、見てたら胸がぎゅっとなるだろ。それがましてやアイツだったりしたら」

シーザーはいつものように、へらりと唇を曲げた。

「……放っとけねえじゃん」

無知とは罪と、誰かが言う。
では、全て知った上で行うならば──

そこでヒューゴの思考は途切れた。シーザーの台詞が終わったからだ。

「俺が行かなかったら、アイツはひとりだ」

そうかもしれない。
ヒューゴはその事実については理解出来た。だが、それだけだった。

「それは、そういう道を選んだからだろう……?」

ヒューゴは知っている。
あの男が、どれ程のことをして来たか。
カラヤの村が焼け、一族は殆ど殺された。あの恨み。怒り。悲しみと涙。そして同じ事を、呼吸と同じ数だけ繰り返しているのだ。
許せるものではない──相手が反省もしていないのならば、尚更。

「そうなるような事を、して来たんだぞ」

その果てに彼が孤独であるのなら、それは。
──自業自得としか、思えなかった。

シーザーは、またも軽く頷いた。

「そうだよ。アイツは酷ぇよ。恨まれる事も一杯してるし、何万人も殺してきた」
「だったら──」
「けど」

その、極悪非道を。

「俺が、許しちゃいけないか?」

それは既に疑問ではなかった。
許可を求めてもいない。シーザーは断言した。多分、世界に向かって。

「誰が許さなくても、俺がアイツを許す。何があっても、見捨てない」

シーザー、とヒューゴは唇を動かしたつもりだった。だが、声にはならなかった。
少しだけ年上の男は、優しく距離を取った。そして嫌味ではなく、言った。

「ヒューゴ。お前はまだ、一途を知らないんだな」

たった一つで、何もかもが埋められるというのだろうか。
訊いてみたかったが、聞いてはいけない気がした。乾いた風に眼球が晒されて、ヒューゴは泣き出したくなった。

シーザーは、親友だと言ったそれと同じ声で、こう呟いた。

「俺はお前が好きだけど、お前とアイツが崖から落ちそうになってたらアイツを助けるよ」
「お前がアイツを殺そうとしたら、きっと俺はお前を殺すよ」

迷いなく呟いた。
その様子を見て、ヒューゴの胸は痛んだ。引き止めたかった。行かせたくなかった。

けれどシーザーは、何の未練もなくこういってしまうのだろう。



「この世と天秤にかけてもな、俺はアイツを選ぶだろうよ」



きっと、100まで生きて幸せに死ぬ資格は無いぜ。

赤毛の男は朗らかに笑ってそう宣言すると、ひらひらと手を振って馬に跨った。
その別れは、親友と、そして多分、もっと色々なものに告げられている。

──彼は随分前からずっと遠くにいたのだと、ヒューゴはその時ようやく気が付いた。







『極悪とは』