久しぶりだな、という挨拶などなかった。
そもそも、過去に相手と会話らしきものを交わした心当たりがない。忘れてしまったのか、元からなかったのか。

ただ、目の前の相手の名前と自分の名前は知っていて、それで多分全てなのだと思う。
こうなるには。

「ぐぅっ……!」

ずぐり

体の中心線上に、穴をあけられる感覚。
自分の刃は、相手の鎧の上から左肩口に刺さってはいるが、明らかにこちらのほうが重症だ。
畜生め。

「は……!」

ずる、と引き抜かれ、その拍子にまた傷口を少し斬られる感触。
もう片方の刃を、相手の頭めがけて振り下ろそうとしたが、手首を押さえられ果たせない。

黒色の髪の隙間から覗く無感動な目が、こちらを縛り付けてくる。
逃れなければならない。

胸にあいた穴から、赤みがかかった黒い液体が溢れ出す。
やけに粘性のそれは、少しも綺麗ではない。そのことに苛立ちが増す。

多分、もう既に腐り果てているのだ。この内側は。
それを見苦しく思って、多分目の前の存在は剣を振るうのだ。

自分は何故だろう。

「ペシュ……ル、ガ」

その名を呟いた意味はわからない。

羨ましい、とユーバーは思う。
彼には、彼にだけは、例えばそれが自分を殺すことであっても、明確な目的がある。

何故自分にはないのだろう?
彼とは似通っている部分の方が多い筈なのに。

ユーバーには意味が足りない。






『縋る』






どしゃり、と。
水っぽい音を立てて壁に体を寄りかからせた存在に、アルベルトは僅かに目を見張った。

約束の時間に現れたのはアルベルトの予定通り。
ただ、この黒と金色の美しい魔物は、今までアルベルトが見たこともないくらいに弱っていた。

死ぬのではないか、とアルベルトは思った。初めてユーバーに対してそう思った。
彼の立っている場所から、床が黒々と汚れていく。
言葉はない。

椅子から立ち上がり、アルベルトはゆっくりとユーバーに近づいた。
よく見ればその表情に苦痛の色はない。
だが、アルベルトにはユーバーに痛みがないとは思えなかった。辛い時程殊更表情を作る人種を、アルベルトは知っていた。

ユーバーが壁に寄りかかっている為か、いつもはやや上がり気味になる視線は今は平行だ。
アルベルトは数秒ユーバーを観察すると、口元を歪めて視線を背けた。

「……!」

瞬間、アルベルトの頬が裂けた。
赤い血が飛び散る。

ユーバーは、激しく刃毀れした剣をアルベルトの喉元に突きつけると、乾いた声で言った。

「──貴様が俺を呼びつけた癖、他所を向くとは傲慢にも程が有るぞ」

唇を吊り上げると、アルベルトは全く心のこもらない調子で言った。

「それは失礼。あまりに見苦しくてな」

アルベルトは自分の頬を流れる血をぬぐう。
ユーバーはそれを眺めた。うっとりするほど赤い。
この鮮やかさ。ユーバーにはない。

「俺の部屋に死体を置いていかれても困るんだが」
「知るか、精々苦労しろ」

アルベルトの台詞から察するに、自分はそろそろ死ぬのかもしれない。ユーバーは他人事のようにそう思った。
今の今までそんな事は考え付かなかった。ユーバーはあまり、自発的に何か考えたりしないからだろう。

ユーバーはいつも、誰かの意思に寄り添って動いていた。
悩んだり、迷ったりすることもなく。ただそこに在って動物のように毛繕いをし、不満を感じればそれを取り除き、快楽を感じればそれを追求した。
他にすることもなかった。

ずるり、と背が滑って、ユーバーは壁に沿って崩れ落ちる体を認識する。
アルベルトの視線が険しくなった。

「……なんて顔をしている」
「勘違いするなよ、ユーバー」

アルベルトは、ユーバーを見下ろして、噛んで含めるように言い聞かせた。

「傷ついて、お前が不快なのではない」

アルベルトの暗い色の瞳の中に、ユーバーはいつも意思の力を感じる。
それは固くて、鋭くて、きらきらしていて、憧れる。夢想の癖に、それはとても強くて、揺るがない。

「それを見るこの俺が不快なのだ」

アルベルトの手が、いつもの優雅な動作でユーバーの髪の毛を撫で付けた。
泥と砂と赤黒い液体で濡れた金の髪を、一房すくい取り口付ける。

「俺の綺麗な駒だ」

アルベルトは机に戻ると、地図を取り出してユーバーの元に引き返した。
しるしをつけた一点を示し、いつものように指示をする。
今すぐ行って、殺して来い、と。

「……嫌だと言ったら?」

数秒の沈黙の後、ユーバーはそう問った。
嫌も何も、そもそもそんなことは不可能だと思う。ユーバーの力は流れ、冷たい床の上で泥と入り混じっている。

アルベルトは目を細めた。

「言わせない」
「貴様が俺に命令出来る立場だと思ったら大間違いだぞ、人間……」

いくら瀕死とて、ユーバーはいまだアルベルトを縊り殺すことくらいは出来る。
道連れなどに興味はないが、軽視されるのは気に食わなかった。
アルベルトは、うっすらと微笑を浮かべた。聞き分けのない子どもを諭すように。

「俺がお前にそう望むのに?よく考えろ、ユーバー」
「……」
「行け」

ユーバーは考えた。そして尋ねた。

「……果たせなかったら、どうなる」
「そんな予定があるものか」

アルベルトは、恐るべき傲慢さで断言した。
思わずユーバーは笑った。まるで、アルベルトに本当に運命を定める権利があるかのような口ぶりだ。

「さて、俺にはまだ仕事があるから行くぞ。お前にもあるから、終わったらすぐに戻れよ」
「戻れなかったら?」
「……ユーバー、俺に何度同じことを言わせる?」

戸口に立ったアルベルトは眉間にしわを寄せて振り返った。苛立っているのか、それとも演技か。

「行って殺せ」
「──」
「そして戻れ!」

そして扉が閉められる。
ユーバーは半ば呆れてその背を見送った。
この対応は予想外だ。

ひんやりと、冷えた部屋で一人。
汚れた手を持ち上げ、額に当てた。

「く、くっく……ははは……」

ユーバーは声を潜めて笑った。
嗚咽に聞こえるかもしれない小ささで。

「……あの男が声を荒げるとはな。もしかして、執着されているのか?」

ユーバーは手を伸ばし、腹の上から地図を拾い上げると、いつもと同じように金色の波を起こした。
部屋には汚れた山高帽だけが残った。






+++ +++ +++






動く度にこの身から流れ落ちる液体からは、やはり腐臭がする。
どれだけ人の血を浴びても、その臭いは誤魔化せない。

折れかけた双剣を、呼吸と同じくらい自然に振りながら、ユーバーは考えた。
痛みは既に麻痺している。胸に開いた穴を、風が通り抜ける不快感。
後、どれだけ動けるだろう?

生臭い空気の中、落ちる日差しだけが清浄だ。
人の悲鳴も、ユーバーの耳には届かない。

溶けてぐずぐずに煮詰まったものを無理矢理固めて作った姿、ユーバーは自分を綺麗だと思ったことはない。
だから、今ここで死んでしまっても別に良いのかも知れない。執着するものもない。
けれど。

「……俺が必要か?」

自分には、身を尽くしても望むことなど何もない。
あるのは空虚だ。あるいはいくばくかの憎悪。恐ろしい程に冷えている。

腐り果てたこの身を引き摺って歩いていくには、それだけでは少し足りない。



目に見える範囲のものを殺し尽くし、それから悪鬼は倒れ伏した。

「俺が必要なんだろう……?」





ユーバーは、自分を呼ぶ声と伸ばされる手とを、待った。