『良い子』







なあ、と。

そんな呼びかけをされるとは、まさか思っていなかった。
この自分が意表を突かれるとは。アルベルトはいっそ、少しばかり愉快だった。

本当に、そんないかにもわかりやすく気安い呼びかけが、こんなときに降ってくるとは思わなかった。
自分にもう少し余裕があったら、どんな対応をしただろうか。アルベルトの唇が、僅かに震えた。

「なあ、死ぬのか」

もう一度呼びかけられて、今度は驚きはしなかった。
ぶっきらぼうな喋り方が、不貞腐れた子どもを連想させる。
ユーバーの姿は見えない。というより何も見えない。辺りが暗いか、自分の目が閉じているのかは知らないが。
見たくないから、丁度良かった。

「貴様もやはり、死ぬのか」

ああ、死ぬよ。お前、実は忘れていただろう。
アルベルトは心の中で笑う。
ユーバーは、少しだけ残念そうに呟いた。遊び相手が引越ししてしまう、そんな気持ちが手に取るようにわかる。

「また、詰まらなくなるなぁ……」

慰めてやりたいと思ったのは、多分、アルベルトよりもユーバーが余程不幸だからだろう。
けれどもう、言葉を紡ぐ息は肺に残されていなくて、喋れないということは、アルベルトはもう既に死んでいるということだ。

「なあ、埋めてやろうか?」

再び驚かされる。そんな気遣いを見せてくれたのは初めてだ。
なんで今になってそんなに普通の人間のように振舞うのか、アルベルトでない男にはもうわからない。

「なあ、焼いてやろうか……前に言っていただろう?葬式とやらの作法」

わからない。
それは──凄く素敵なことだ。今、初めて知ったけれども。

「ちゃんと覚えているぞ。俺は馬鹿ではないからな──くだらない事も、実はよく覚えている。例えば、最初に剣を手にしたときの事も、実はまだ覚えているんだぞ」

悪鬼は笑いの気配も滲ませず、そう言った。

「……と言って貴様は信じるか?」

信じるよ。ユーバー。
俺はもうアルベルトではなくなってしまったから、何もかもを知るというわけにはいかないけれど。
わからないから、事実を知るのではなく、お前を信じるということが出来るよ。

悪鬼は得意げに後を続けた。

「実は、俺は貴様なんかより余程頭が良いんだぞ。貴様なんか、三十年くらいしか記憶がないだろう。俺は……結構、くだらない事も覚えているんだからな」

ああ、大変だな。赤い髪の男は率直にそう思って、頭の中で忠告した。
お前は自分で思っているよりも律儀なんだぞ。知っておけ。

「そう言えば、俺の鎧は何処にやった?売り飛ばしていたりしたら殺すぞ」

悪い。

「……俺と貴様で、沢山戦をしたな。随分と歴史に関わった気がする」

常人から見れば殺伐とした記憶を反芻しているのだろう、悪鬼。
ユーバーは疲れてしまわないのだろうか。自分はたった三十年分だけだから大丈夫だけれど。

少しだけ考える間を取って、ユーバーは得意げに言った。

「偉いだろう、なあ」

胸を張っているのか。アルベルトでなくとも、簡単に想像がつく。
馬鹿にしたら良いのか笑ったら良いのかは判断できないけれども。

「俺は良い働きをしただろう?俺以上に貴様の役に立った力は無い筈だぞ」

確かにその通り、と、男は胸中で頷いた。
呼吸が止まってから、どれ程の時が経っただろうか。

「……なあ。貴様の体が腐るまで、持ち歩いてやろうか。穴を掘るのは面倒臭いからな、骨になるまで引き摺っていこうか。防腐処理はしないぞ。貴様は確かに多少は造作が整っているが、俺程でもないから保存は必要ないだろう」

成る程。さっきの話の続きか。

「骨がばらばらになるまで引き摺って歩いてやれば、まあ埋めたことになるんじゃないか。頭蓋骨はしぶとそうだから、最後に砕いてやる。貴様の体が満遍なく土になれば、実に盛大な葬式だ。ほら、俺程有能な奴はいないぞ。認めろ」

それは確かに世界規模だ、と男は思った。
いつだって、人間より化け物の方が余程ロマンチックなのだ。こんなときに真理を発見してみても、何の役にも立たないが。

「それとも泣いてやろうか。俺も頑張れば涙が流せるかも知れないからな、試してみても良いぞ」

馬鹿め。こんなことで泣こうとするな。
悪鬼が泣くなど、世界の終わりが来てもない。自分でも無理だとわかっているだろうに。
そんなに優しくしたいのか、この時に。そんなものは、受け取れはしないのに。

「俺程有能な奴がここまでしてやろうと言うんだ」

悪鬼は、強請るような声音で傲慢に言った。

「なあ、だから死ぬなよ」

ああ、なんだ。
お前の為か。

お前、俺を引き止めたいからそんな言葉で気を惹いたのか。本当に子どもみたいじゃないか。
俺はまだそんな年じゃない。お前の方こそ、俺を甘やかすべきだったんだぞ。

「……なあ。そろそろ返事をしても許すぞ」

でも、お前は良くやったよ。こんな時でさえ、俺でなく自分の我侭を押し通そうとするお前は、確かに良くやってくれたんだ。

偉いよ。褒めてやりたいよ。だから泣いたりするな。
良い子だから。


「なあ、アルベルト」


赤い髪の男は、その呼びかけを聞いた瞬間、ほんの少しだけ自分の命を惜しんだ。