「はっ……は…はははは」
シーザーは乾いた笑い声を上げた。
とりあえず、絶望するしかなかったのだ。
熱い。
疲れた。
喉が渇いた。
動物的な思考であることは自覚していたが、こんなときにまで人間的に己を律してどうなるというのだろう。
何せ、この半日というもの、シーザーは自分以外の人間と会わなかったし、それどころか、自分の着ている服と靴以外の人工物すら見ていなかった。
大体シーザーは基本的に『都会っ子』であり、知識としてではない実践的なサバイバル技術などは全くといっていいほど持ち合わせていない。
しかも、それがもし身についていたとしても、今この状況でどれ程の役に立つかはわからなかった。
何せ、ここには驚くほどに物がない。
シーザー自身とその着用物を除き、ここにあるのは次の三つだ。
空気。
光。
砂。
なんてシンプルな世界!
風と影と熱と太陽は除外した。風と影と熱とは現象であり、太陽には触れられない。それに、太陽を含めたら、見えてはいないが月や星まで含めなければならなくなる。
光──光は物質だろうか?シーザーは逃避のようにそんな事にまで考えを及ばせたが、せっかく3つあるものをわざわざ2つに減らしては悲しくなるので一応ものとして数えておくことにする。
あははは、と、別に出したくもないのに笑いがこぼれる。シーザーは、自分が壊れかけていることを自覚した。
行き倒れる、と真剣に思う。
砂、砂は本当にきめが細やかで、最早ベルベットに近い手触りだった。しかし、触れ続けるには熱過ぎたのであまり意味はない。
知識としては知っていたが、まさか実際に訪れることになるとは思わなかった──シーザーが今えっちらおっちらと一秒に一歩ペースで進んでいるのは、三百六十度地平線が広がる砂漠だ。
シーザーは死にたくなくて歩いていた。
勿論、効果的な方法ではないのは知っているが、とりあえず生存の可能性を少しでも多くするために歩いた。どの方角へ歩くのが正解なのかもわかっていなかったが、シーザーの知識のうちでは砂漠は大陸の南端にあり(ここで意図的に、移動する前は夜で移動した後は朝だったことを鑑みればここは別大陸であるという事実を無視した)、その先はまだ人が住めるような場所は確認されていなかった筈であるので、北に向かっていた。
一番問題なのは、熱だった。直射日光を上着でどうにか避け、最初のうちシーザーは自分の知識を活用しようと試みた──すなわち、日陰を探すか、穴を掘ってそこに隠れるかして、夜になるまで待つのだ。
そんな生温い方法が通用する場所ではなかった。
日光により砂は凶器と化している。道具もないのに触り続けては、火傷をすること必定だった。
そもそも、砂のきめが細やか過ぎるために、穴を掘ることは不可能だった。砂丘も刻々と移動している。無理やりに砂に身をうずめても、すぐに掘り起こされるか逆に生き埋めになる。
シーザーは賢く、早々に諦めた。その賢さがどれ程の役に立つのかは、やはり不明なのだが。
まずシーザーの体が求めたのは水だった。しかし見渡す限りここにはサボテンひとつ生えていない。サボテンは水を多量に蓄えているという知識はやはり無駄になった。
風が軽い砂を巻き上げ、シーザーの目と鼻と口とを攻撃し、耳を詰まらせる。岩石砂漠ならば、もう少し対処もしようがあったのに、ここには完璧に砂しかなかった。何万年も、そしてこの先もずっと、この場所にはそれしかないのだろう。
ここは、空虚であり、死と孤独が沢山詰まっていた。
シーザーは既に、己が生に向かって歩いているのか、死に向かって歩いているのか判断がつかなくなっている。
歩くことは苦痛だった。しかし、倒れることもまた苦痛だ。
口の中は乾燥というのもおこがましい状態で、鉄と砂の味に満ちている。
ぼんやりと空転する脳が描き出すのは、黒と赤のイメージ。周りの世界は白い砂と青い空で構成されていて、色彩としては真逆であるのに何故かと思ったら応えはすぐに出た。
熱くて、冷たくて、激しくて、美しくて、永遠に近い砂漠。
何かに似ていると思ったら、悪鬼に似ている。
歩き出してから大分時間が立ったが、太陽は沈む気配を見せない。
昼は過ぎている。だが、日が落ちるまで自分が生きているという確証を、シーザーは何処からも見出せなかった。
落日。この砂漠に落ちる夕日は、多分綺麗なのだろうと思う。
夕日はアルベルトに似ている。終焉の、退廃の、赤さ。
なかなかロマンチックなことを考えている、とシーザーは面白くなった。
極限の状態で思うにしてはくだらない。
砂漠と夕日に対して、自分はなんだろう。
いくら考えても、シーザーは自分に自分以外のイメージを重ねることは出来なかった。
砂漠と、夕日と、自分。
正確に真実を表している気がした。砂漠も夕日も、シーザーとは違うもので、シーザーを見ることはなく、シーザーを簡単に殺す。
抗うことは出来ない。
「ははは……」
そう、ここでシーザーが死ぬのは、砂漠の──悪鬼の気まぐれだ。
多分、自分は選択肢を間違えたのだと思う。
彼を謀った自分を許さず、ユーバーは間接的な処刑を行ったのだろう。熱い空気によって肺にまで火傷を負い、シーザーはもうすぐ死ぬ。
日が落ちてくれればいい。
ここに来て。
ありえないことをシーザーは望み、砕けたひざがシーザーの体を砂の上に引き倒した。
顔面を焼く、痛み。
シーザーはようよう仰向けになると、そこで力尽きた。
顔には上着がかかっているから目を焼かれる心配はないが、どうやら意識を保てそうにもない。
ユーバーは何故こんなことをしたのだろう、とシーザーは考えた。そういえば、処刑にしては回りくどすぎる。
アルベルトを困らせてやるとユーバーは言った。けれど、こんな事でアルベルトが困るとはシーザーには思えなかった。
シーザーを鍛えるため?確かそんなことも言っていた気がするが頭脳派の自分を体力的に苛めることには何の意義も見出せない。
「っかんね……」
ぴり、と舌が切れた。
ここで死んだら、腐るより先に干からびて砂になるのだろう。
砂漠の一部に?
その想像は酷く忌避感情をあおった。
永遠の孤独に飲み込まれたくなど、ない。
シーザーは考えた。最早動かせるのは思考だけだ。
何のために、ユーバーはシーザーを砂漠に放り出した?
その答えを見つけかけた瞬間、意識はぶつりと途切れた。
+++ +++ +++
意識を取り戻したとき、シーザーは水の中で溺れかけていた。
疑問に思うより先に生存本能に従い手足が動き(疲労の極地にあるのにご苦労なことで)、シーザーは水面に顔を出した。
よく確認すれば、地に足は着く。浅い泉だ。
「死んだかと思ったぞ」
「……俺も、そう思いました」
目覚めて最初に聞いた台詞は神経を逆撫でしてしかるべきだったが、シーザーにはそんな気力はなかった。
安堵感の方が強かった。
怒りを発するより、他にすることがある。シーザーは慎重に水分を摂取すると、岸にたどり着いて身を引き上げた。
空中に出た途端、魚のように力尽きて地面とキスする。
ユーバーは木の根元に座っていた。
蹴り起こされることも覚悟していたのだが、どうやら少しは休ませてくれる気があるらしい。
シーザーは眠りに落ちる前に、重要なことを聞こうと思った。
「お前さ……結局、何がしたかったんだよ……」
「貴様に言い訳を用意してやろうと思った」
ユーバーは意味不明な答えを返してきた。
勿論、いくらわかりやすくても『気まぐれ』などと言われるよりかはずっとましなのだろうが、シーザーはもう少し先を望んでいた。
「どういうことだ……」
「わからないのか?」
「俺はアルベルトじゃない……」
そうか。そうだな、とユーバーは言った。
別に、愚弄の気配はない。シーザーとて、自分を卑下したわけではない。
「あそこは辛かったか?」
「……ああ……」
「おい、説明してやろうと言うのに寝るな」
大きめの石が頭に当たり、シーザーは眠りの淵から三歩後退した。
今はまだいいが、そのうちユーバーのことだから頭を割る一撃にエスカレートする。
「辛かった……」
「経験したことがない辛さだったろう」
「ああ……その、経験が……何?」
「何故辛かった」
何故?
「喉が渇いたからか」
「ああ……」
「限界以上に疲弊したからか」
「ああ……」
「死が怖かったからか」
「ああ……」
「それとも──」
「ああ……」
シーザーは、考えた。
辛かった。何が一番辛かった?
「あそこには……希望がなかった……」
シーザーは無力だった。
何かを望むあてもなかった。
けれどそれでも世界はあり、生きるために体は動いた。
心は既に諦めていたのに。
生きたい、と思ったわけではなく、ただ、死にたくない、と。
消極的な呼吸だった。苦痛に満ちていた。確かに──不幸だった。
「そうだ」
「…………」
「絶望だっただろう?」
ここで眠ってはいけない。
シーザーは身を起こした。ユーバーはシーザーを見ていた。笑みもなく。
「それがお前の理由になる」
ユーバーは、顎をしゃくって空を示した。
シーザーは視線でそれを追う。そこにあったのは、覚えのあるシルエット。
「ルビークの……虫兵……?」
「意思の拘束。不自由。飢餓。理不尽。無力。奴らには全て揃っているぞ」
「そんなのは……知って……」
「そう、貴様はよく知っていた筈だな、捨石やら奴隷やらの境遇を。だが」
「わかっては……なかった……絶望……」
こめかみが痛んだ。
「今はわかるだろう?それが、俺が貴様に用意してやった言い訳だ」
シーザーには、悪鬼の言いたいことがまだ理解出来なかった。
弁解させてもらうなら、生死の境をさまよったばかりで能力に余裕がないのだ。
「貴様らは大義名分がなければ動けんのだろう?」
「ユーバー、よくわからない……」
「貴様らは、貴様らの望みだけでは動けない。だからお膳立てしてやろうというんだ」
ユーバーは、その金と赤の目をシーザーにまっすぐに向けて、言った。
冗談ではなく、完全に本気だった。しかも命令というよりは、確認に近かった。
「ハルモニアを滅ぼせ」
──え?
シーザーは目を見開いた。ハルモニア。神官長ヒクサクの治める、長い歴史を持つ富める国。
揺らぎからは一番遠い国。制度と規律によって従順な人々が構成する国。
それを──どうすると?
「貴様の兄は、強国の支配による一応の平静を目指している」
理想の形。あるべき姿。
それは何なのだろう。シーザーは、そんなものは信じ切れなかった。
「それを平和というのかは知らんがな、歴史的視野に立って見れば、死人は減っている筈だ──自由の代わりに命がある。技術があるから命が延びる。規格があるから安定する。ハルモニア支配下の平均寿命を知っているか?赤子の出生率は?病死の確率は?芽のうちに潰すから、大規模な反乱もないだろう?あれがわかたれたらどれ程の争いが起きる?皆自由を得て、生産率は下がり、潰しあい、奪い合い──自由に死ぬ」
それは──それは。
シーザーは口元に手を当てた。眩暈がする。
「だが、貴様は奴を困らせたいのだろう」
「え……?」
「貴様は目先の欲で動くといい。その方が俺も好みだ」
ユーバーは、自由だ。
だから、悪と呼ばれるのかもしれない。シーザーはそう思った。
人の命や歴史の意味など、ユーバーにとってなんら問題にはならないのだろう。
彼の世界には、やらなくてはならないことや、やってはならないことなどはなく、ただ、やりたいことと、やりたくないことだけがあるのだ。
「ハルモニアを滅ぼせ。──その途中、戦があり、人の血が流れ、終局的に苦痛が増すことになろうとも」
「なろうとも……?」
「今絶望を味わっている奴らが、解放されるぞ。俺が貴様にやる言い訳はそれだ」
シーザーは、目を閉じた。
心臓の音が、かつてない大きさで聞こえる。
ここにある絶望か。その先にある絶望か。
生のために歩くのか。死のために歩くのか。
本当の不幸とは、その逆とは、何処にある?
安定のために今彼らを犠牲にするか──彼らのために未来に波乱を招くか。
自問、自答。さあ、考えろ、シーザー・シルバーバーグ。
その名は何を望み、どんな道を歩むべきだ?
俺は何を望み、どんな道を歩みたい?
眠りに落ちたシーザーを尻目に、ユーバーは寛いでいた。
彼を邪魔するものなど、何もない。望みは形にすればいい。
彼自身はハルモニアの存在などどうでも良かったし、三等市民のことなど更にどうでも良かった。
ただ、アルベルトを困らせてやるのは面白い。
どちらが正しいのか?
ユーバーにはそれについての興味は全くなかった。