シーザーが消えた。というより、帰って来ない。
家の者が気付いてあたふたと騒ぎ始める中、アルベルトはいつもと変わりなく(少なくとも、いつもと変わりなく見える様子で)過ごしていた。

一晩くらい、どうということでもない。三つの幼子ではあるまいし。
大体、十七の息子が外泊したなら、問題は次の日の夕食を豪勢にするか、そのことにまったく触れずに生温い笑みを浮かべるかの選択くらいしかないだろう、家族としては。
そもそもシーザーは最近夜な夜な家を抜け出していたのだから、今更というものだ──(夕食に顔を出す程度のちゃちなアリバイ工作に騙される家人程、アルベルトはお目出度く出来ていない)。

「若君、坊ちゃんは何処へ行ってしまったのでしょうか」
「脅迫状は来ていないのだろう?俺に出来ることなどないよ、マヌエラ」

アルベルトは脊髄反射に近い反応で言葉を返した。そのとき彼は今後の身の振り方の検討と、読書と、祖父の過去の戦略立案の粗探しをしていたのだ。
次の日の夜も、シーザーは帰ってこなかった。

「若君……」
「人をやって探させている」

嘘だった。

「……若君」
「俺のせいなのか?マヌエラ。心配してもどうにもなるまい」

それが三晩、四晩と続く段になって、アルベルトはようやく脳内会議の懸案項目題435番に弟のことを取り上げる気になった。
434番は新しいコートの入手先のこと、436番は目障りな大臣の子息の処遇についてだったのだが、一日中家にいて動かなかったところで、もっと重要な項目が次々と生まれるのはとめようもなく、アルベルトがとうとうその問題を頭の片隅にでも取り上げたのはさらにその二日後になった。 

「……手間を掛けさせる」

アルベルトは自分対自分という決着のつかないチェスをしながら、片手間にシーザーのことを考え始めた。

下手な金策をしている。
誘拐された。
事故にあった。
迷子になった。
謀殺された。
病気になった。
記憶喪失した。
事件に巻き込まれた。
家出をした。

その他。

謀殺、迷子、記憶喪失、家出については、アルベルトにはすでにどうしようもない出来事なので除外する。
事故や病気ならば連絡が来るだろうし、身元不明者は新聞に載る。一応目を通したが、それらしき情報はなかった。行き倒れて誰にも発見されていないならもう手遅れだろう。除外。
偶発的な事件に巻き込まれたならばアルベルトの感知するところではない。除外。
シーザーを狙った事件ならば、自己の責任だろう。除外。
金策ならば問題はない。除外。

残るは誘拐、あるいはその他だが──

誘拐ならば、身代金の請求か、もしくはアルベルトへの要求、怨恨を綴った手紙などが来る筈なので、可能性としては薄い。
その他──その他。

「…………」

アルベルトは眉根を寄せた。
黒のポーンでナイトの首を狩り、お返しにビショップを奪われ、更に同じくビショップを捕らえ、そのお返しにナイトの命を絶たれた。
戦況に変わりはないが、場面がひとつ進む。

「……ユーバー?」

呼ぶ声に応えはない。
そういえば、ここ数日見かけていない。
そんなことは珍しくもないが、何故だか嫌な予感がした。面倒なことになりそうな気配だ。

ユーバーを呼びつけることは少ない。
大抵、どうしても必要なときは向こうからこちらへやってくるのだ。多分、契約とやらの因果律を嗅ぎ取っているのだろう。

「……」

眉間のしわをますます深め、アルベルトは白い駒を動かした。
声がかかったのはその時だった。

「浮かない顔だな」

調子に乗ったその声音を聞いて、アルベルトは予感が具体化しだすのを感じた。
アルベルトの前にある何も載っていないテーブルにどっかりと腰を下ろした悪鬼の機嫌は随分と宜しいらしい。

アルベルトはユーバーを見上げた。
予感はすでに確信になっていた。

「何をした?」
「芸のない聞き方だな」
「後で行き方を教えてやるからモンスターパークで『もさもさショー』でも見てくるといい」
「芸達者なのか?」
「俺より愛嬌はある」
「期待できない基準だ」

ふう、とアルベルトはため息をついて、一度会話を区切った。
窓の外に視線を移して続ける。

「シーザーをどうしたんだ」
「どうでもいいだろう。貴様には関係ないことだ」
「少なくとも、お前よりかは縁がある」

そこまでは、予想の範囲内の受け答えだったのだ。
黒のクイーンを斜めに動かして、アルベルトは次の言葉を待つ。

「……それはどうだろうな?」

そう、悪鬼が言った。
瞬間、音を立てて全ての駒が薙ぎ払われた──アルベルトの脳裏に描き出されていた盤の上から。

「────」

目を閉じる。開ける。
アルベルトは、ひっくり返ったチェスボードをゆっくりと丁寧に拾い上げ、頭の隅に仕舞い込んだ。
代わりに、遮光幕を探し出す。自身を覆うように、張り巡らせる。
防衛行動は久しぶりだった。

く、と嘲るような笑みを浮かべたユーバーは、アルベルトの髪に指を伸ばす。
首を振ってその手から逃れ、アルベルトは不快さを表情に載せる。

「どういう意味だ?」
「……動揺しているのか?」

ユーバーは優しげに、毒のある声音で囁いた。今度こそ葡萄酒色に触れ、易々と微笑む。
残酷に。悪鬼に相応しく。

「貴様が、既にわかっていることをわざわざ聞くとはな」

アルベルトが、ゆっくりと目を伏せた。
その様子を見て、ユーバーは充足感を得る。とても、気分が良い。

「……お前が奴に興味を持つとは思わなかった」

吐き出された言葉に、ユーバーは頷く。自分も、こうなるとは思っていなかった。

「俺にとっては簡単なことを、死ぬ程思い悩む様子がおかしくてな」
「人の弟を玩具にするな」

今度こそ、ユーバーは声を立てて笑った。

「何だ、貴様、なんて捻りの無い台詞だ!」
「……お前を面白がらせるために喋っているわけではないんだが」
「これが笑わずにいられるか」

ユーバーは身をかがめ、暗緑色の瞳を覗き込んだ。
そして問う。

「アルベルト、貴様悔しいのか?」

アルベルトはすっ、と目を細めた。

「……悔しい?」
「そうだ」
「それはあれか、お前が雷の紋章の継承者から無様に逃げ出した時に感じた奴か」
「──どうも、調子が出ないようだなアルベルト」

ユーバーは怒らなかった。
目を三日月型に歪ませて、葡萄酒色の髪を手で梳く。愛玩動物を撫でる手つきで。

「……俺の機嫌を伺えよ、シルバーバーグ」

髪を掴み、顔を仰向かせ、ユーバーは舌なめずりをした。
獲物をいたぶる猫の顔つきで。


「俺の興味を惹かねば」



「さっさと乗り換えてしまうぞ?」
















アルベルトは立ち上がった。
優雅な様子で背を向け、部屋を出て行こうとする。

「逃げるのか?」

揶揄の声に振り返らず、アルベルトは言った。
硬質なその響き。

「──好きにすれば良い。だが、シーザーに余計な手は出すな」
「俺にそう、命令すると?何を恐れているんだ、アルベルト」
「恐れる?」
「言われずとも、俺は俺の好きにするさ。その途中で何が起ころうとも──」
「黙れよ、化物」

冷えた石のような声が、ユーバーの言葉を遮った。

「あまり俺を怒らせるな」

そして扉が閉まる。
殊更丁寧に──何かを我慢する様子で。







「くっ、くくくくっ……」

一人になった部屋で、堪えきれずに、ユーバーは唇を震わせた。

「はははは!」

そして、同じ血を持つ赤毛の未熟な方に向かって、心の中で呟く。
あれを困らせるなど、実はとても簡単なことだ──自分はその方法を知っている。

「執着は無くせない。人の性だな、シルバーバーグ?」

全く、互いに互いが見えていない。
それだからこそ、面白くもあるのだが。