麻雀の卓で、恨みをかわぬくらいにほどほどに勝ってから、シーザーは席を立った。
歳が若いと相手が勝手に侮ってくれるので都合がいい。知的遊戯はシーザーが得意とするところだった。……天才的、と言えないのが少々悔しいが、盤上遊戯ならまず負けることはない。勿論、家の外限定の強さだが。

賭場の中に設置されているバーに寄り、数枚のチップと引き換えにしてジンジャーエールとウィスキーソーダを一杯ずつ手に入れる。土産だ。
悪鬼がこのようなものを好むのかは知らないが、いろいろと試してみればいい。

シーザーは、麻雀卓で牌を積みながら、ひとつのことを考えていた。分の悪い賭けを一気にひっくり返す、切り札を手に入れられたら。

それは危険な猛獣に知識もないのに近づくのと、愚かさとしては同等であるとは思ったが、シーザーは結局はこういう結論に至った。
彼に勝つのなら、彼にはない部分を生かさねばならない、と。彼の得意分野で勝負を仕掛けるのだから、死ぬ気でなくては差は埋まらない。

そんなことを考えながら緑一色を上がったと聞けば、同じ卓についていたものは憤るに違いないが、シーザーは気にしなかった。
目線を上げ、軽い安堵のため息をつく。

「……良かった、人死んでなくて」

果たして、今は一般人とそう変わりはない後姿はまだルーレットの台にいた。少しは勝っているらしい。

「なんだ、結構調子いいじゃん」

緑色のフェルト地の上に、こつんとグラスを置く。

「ほら」
「……」

ユーバーは一瞥もくれずに腕だけ伸ばすと、琥珀というには薄すぎる色のそれをぐびりと一口飲んだ。
その目がとたんに半眼になる。

「……なんだこれは」
「ジンジャーエール」
「そっちは?」
「酒」

グラスを口元に運びながらシーザーは答えた。
ユーバーがうんざりした表情になる。

「逆じゃないのか」
「お前酔ったりしないだろ?アルコールなんて勿体無い」
「どんな理屈だ」
「いいじゃん。どうせアルベルトと一緒の時はカレリア産のワインとかガンガン飲んでんだろーが」
「一緒に酒など飲まん」

当然のように返された答えに、ふと、シーザーは疑問に思ったことを聞いてみた。

「なんで?」
「そう訊かれてもな。……必要ないだろう。大体、奴は俺がカップに手を触れるのを好まない」

すぐに壊しそうだからだろうな、とシーザーは思ったが、黙っていた。

二人が手をついている場所に、ざ、と倍になってチップが戻って来る。ユーバーは、そこそこ堅実に儲けている──勘が鋭いのだろうと思う。シーザーは、純粋に運任せのゲームはあまり得意ではなかった。丁半博打なら、まだ心理の読み合いが出来るが、ルーレットでは次の出目はまったくの偶然によって決定される。

小さい山を形成したチップを手慰みに弄りながら、シーザーはユーバーを眺めた。悪鬼は意外に気に入ったのか、ジンジャーエールを舐める様に飲みながら、ギャンブルを楽しんでいるようだ。

シーザーは、周りに聞こえないように声を潜めて(誰も注目していないのは知っているが)呟いた。

「……お前、結構器用だよな」
「そんな事を言われたのは初めてだ」
「器用だよ」

一区切りして、続ける。

「お前の周りには、見る目のない奴しかいなかったんだな」

シーザーは両肘を台について、ひざをぺたりと床に落とした。はっきりと行儀が悪いが、ユーバーも周りの客も気にはすまい。
ユーバーは、特に何も表情を作らずに、グラスを台に置いた。同じように、低く落とした声で答える。

「どの主も──この前の盟友も、俺を扱い難いと言ったがな。貴様が俺の何を知る、小僧」
「アルベルトもそう言ったか?」

ユーバーは微かに首をかしげた。どのような意味のゼスチュアかは判別がつかないが。
シーザーはさらに行儀悪く台の上に顎を乗せ、悪鬼を上目遣いに見やった。

「確かに俺はお前のことあんまり知らないけど、推察くらいは出来る」
「シンダルの遺跡を蟻が眺めて、それが何だか僅かなりとも掴めるか?」
「……相手が自分の事なんかちっとも目に入ってないって事くらいは、わかるさ」

ユーバーはちらりとシーザーに視線を向けると、口元で笑った。

「それは正解だと認めてやろう。他には?」
「……お前は、狂気じゃないな。血に飢えはしても、暴走はしないだろう」

シーザーは思い出す。グラスランドでの紋章戦争。
ユーバーははっきりと戦場の空気を楽しみ、生き血を飲み干し、敵をなますにしていたが、分の悪いときは退くことを知っていた。
双剣を振るう姿はまさしく死神で、前に立つだけで足に震えが起こったが、今はその影をちらりとも見せない。

「そしてお前は、馬鹿でもない。衝動だけでもない。必要とあれば計算して欺き、けど狡賢くはない」

シーザーの言葉に一瞬目を細めると、悪鬼はあっさりと空気の温度を下げた。

「正気も狂気も、俺には関係のないことだ。それは何か、俺の機嫌でもとっているのか?」
「お前不機嫌になったじゃないかよ……残念だけど、違う。俺は自分の考えを言ったまでさ」

悪鬼にまつわる歴史を瞬間脳裏に思い描き、シーザーは再び断定した。

「……お前は器用だよ」

考えれば考えるほど、ユーバーは軍師にとって非常に役に立つ駒だ。
この賭場で会話をする前は、アルベルトは何故あんな危険な存在を傍において使うのだろうといぶかしんでいたのだが、成る程、見合う力を持っていれば良いだけの話だった。

要は、ユーバーを惹きつけるだけの何かがあれば良いのだ。
ユーバーは確かに怖い。怖い存在だが、話が通じないわけではない。彼の目にこちらが蟻ほどにしか映らないのだとしても、役に立つ蟻、興味深い蟻だと思わせればいい。現にアルベルトは、ユーバーとうまくやっているように見えた。

使いこなせるかどうかは自信がないが、いまやシーザーにとってユーバーはかなり魅力的なカードだった。
……その気性をシーザーの性格が受け入れられるかは、別にしても。彼我の距離を埋めるのに、今考えられる最高の一手ではないか?

「ユーバー」
「何だ」

目線はすでに元に戻っていたが、やはり律儀に答えを返す。シーザーは片頬だけで笑った。

「俺に協力してくれないか」
「身の程を知れ」

一瞬で切り捨てられた。ユーバーは、シーザーの視線には気付かないふりでゲームを続けている。
惨めな気持ちになどはならなかったが、幼いころからの疑問がぶり返す。何度も、問うた事がある。一番不愉快な返事が返ってきたのは祖父で、アルベルトにはまだ訊いたことがない。

「なあユーバー。俺とアルベルトは、何が違うんだ?」

すぐに返事が寄こされるとは思っていなかったが、それはほとんど即答に近かった。

「貴様はヒトだ」

あまりと言えばあまりな答えに、シーザーは数秒間呆けていた。
一瞬、悪鬼の首根っこをつかんで市内一周引きずり回したい衝動に駆られたが、その言葉が──愚弄や非難の響きをもつものではなかったと気付き、怒りを納める。

無論褒め言葉ではないだろうが、ユーバーはただそう思ったから言ったのだろう。自分よりもユーバーの方がアルベルトに近い位置に居るのは確かなので、その答えに異論があったとしても、反駁するには不利だ。

シーザーはため息をついた。

「どうなのかね……俺、このまま生きてて、アイツに追いつける気がしねえんだけど」
「現状把握能力は人並みにあって良かったな。人生を棒に振る前に大人しく諦めろ」
「嫌だ」
「それなら、その内貴様を殺すぞ。面倒だ」
「……何でさらりとそんな事言うかな」

少し及び腰になったシーザーを見下ろし、ユーバーは忠告した。
山になったチップのうちからひとつをつまみ上げ、シーザーの目の前で、人差し指と親指を使ってぐにゃりと曲げる。

「これが、今のままでのお前の運命だ」

ユーバーは皮肉ではない調子で断言した。
もうチップではなくなった金属片を床に落とす。絨毯が音を吸い込み、周りの誰もその行方に気付かない。

「アルベルトとは違う道を進め。貴様のその脆弱さでは、覇道は歩めん」
「別に歩きたかねーよ」

即座に切り返された言葉に、ユーバーは訝しげに眉根を寄せた。

「では何だ。人には向き不向きというものがあるのだろう?」
「……言ってもわかんねえだろうから、いい」
「今殺されたいようだな」

にこりと気のいい笑みを浮かべた悪鬼から思わず距離をとり、シーザーは身構えた。
ただ、本気だとすれば声に出す前に実行しているだろうと気づき、大人しくもとの位置まで戻る。

「そんなに大した理由じゃないんだ。ホント」
「もったいぶるとどんどん寿命が短くなるが」

悪鬼の笑顔がどんどん怖くなるので、シーザーは呻いた。

「……困らせたいんだ」

それは正確な表現ではなかったが、シーザーにはそれが精一杯だった。
ユーバーが笑い出さなかったので、開き直って続ける。

「だから、お前に協力してもらえないかなと」
「身の程を知れと言った筈だぞ」

うんざりとした様子でユーバーが首を振る。
それでも、悪鬼の不興を決定的にかっていないのは、自分がアルベルトの弟だからではなく──ジンジャー・エールをおごってやったからだと思いたい。

「貴様に、俺を楽しませることが出来るのか?血と悲鳴と汚物が撒き散らされる戦場、または純粋な混沌」
「……俺はアルベルトみたいにそれを用意することは出来ない」

グラスを干して、シーザーは深く呼吸をした。軽い酩酊感。
それは、酒精によるものではない。確かに──シーザーは気負いなく認めた──自分も、この空気を好んでいる。己の頭脳と唇のみで、物事を運ぶ危険な橋。

「だけど……楽しいものは他にもあるさ」
「例えば?」
「ギャンブルは楽しくなかったか?」
「所詮、命は賭けていないお遊戯だ」

悪鬼の爪先がチップの山を指先で弾く。がらりと簡単に崩れるそれ。

「じゃあ俺が……」

僅かの逡巡の後、シーザーは目を見開いた。
震えないように絞られた声が伸びる。

「……命を賭けると言ったら?」
「つまらん台詞だ」

その手の言葉は聞き飽きているのだろう、ユーバーは鼻で笑った。

「もっと気の利いた提案をしてくれるかと思ったが」
「だが、俺にはお前が興味を引くような掛け金が他にない」
「──ふん、確かにな」

ユーバーはがじりと爪を噛んだ。
シーザーは苦笑して小さく肩をすくめ、賭場の中をざっと見渡した。

「俺が、お前が儲けたそのチップを──三十分で五倍にすると言ったら?」
「どこかで聞いた様な話だ。だが、こんな所でケチな稼ぎ方をしているようなお前では、百万ポッチを三ヶ月で五倍にも出来ないだろうな」
「……それを言われるとな。だが、簡単に出来るようならお前は楽しんでくれないだろ?」
「無謀な特攻など面白くもない」

首を振ったユーバーの手首を、シーザーは強く掴んだ。
実を言えば、これが一番の賭けだった。瞬時に殴り倒され──いや、斬り倒される可能性もあった。

「…………」
「…………」

ユーバーはしかし、シーザーにその手を掴ませたまま、視線を緑の瞳に落とした。
悪鬼に観察されているのだと知り、シーザーの身が僅かに強張る。
しかし、退くわけにはいかなかった。あの──言い表せない差を埋める為には、少しばかりの無茶も必要だろう。

「……俺に、チャンスをくれ」
「俺が、負けた奴を見逃すとでも思っているのか?」

シーザーはゆるゆると首を振った。
悪鬼は、一度決めたら本当にやるだろう。もとより躊躇う様な気質でもないし、性根は真っ直ぐだ。

「俺が負けたら──お前は俺を好きに縊り殺していい。いや、でもなるべく痛くない方向で。でも俺が勝ったら……」

チップを空のグラスにじゃらじゃらと詰めながら、ユーバーが台詞を遮った。

「俺に勝てば、俺が奴を困らせてやろう」
「え」
「目的はそれなのだろう?」
「や、まあ……でもええと、お前が協力してくれる方が」
「問答無用だ。だが──」

ユーバーはシーザーの手を手首のみの動きで振り払うと、逆にその腕を掴んだ。

「え、え、何だよ」
「──稼ぎ方は、その袖の中に隠し持ったカードが使えないゲームに限定して貰おうか」
「……あちゃー」

額に手を当て、シーザーが俯く。まさか、ばれているとは思わなかった。
袖の内側の切り札たちは、この店のイカサマ見張りからもばれた事がなかったのだが。

「丁度良い、俺もルールを知っている、イカサマや小細工を仕込む暇もなかったと断言できる……この台だ。貴様のその小賢しい脳みそも使えん、純粋な運試しが、この賭けには相応しい。さらに時間は……そうだな、俺のグラスの氷が解けるまで」

申し訳程度にジンジャー・エールに浮いた氷を眺め、そして台に視線を移す。
青ざめた情けない顔で、シーザーは呻いた。

「……ルーレット」
「必勝法は存在しないと言ったのは、貴様だったな」

悪鬼は人の悪い笑みを浮かべ(勿論、あの鼠を甚振る猫のような、と表現される)シーザーの顔を覗き込んだ。
瞬時に色を変えた虹彩が、二つの異質な輝きを持って獲物を射竦める。
絞られた瞳孔には、喜悦の色があった。

「……貴様から言い出した事なら、アルベルトとて文句は言えまい」

背筋が凍るというのは、まさにこういう感覚だと取り出して誰かに見せたい、とシーザーは思った。
血の色をした目は冷め、金色の方は興奮にぎらついている。多分──シーザーの死に様と、その後でのアルベルトへの報告を考えているのだろう。
自分の死体を想像するのは感性が拒否したが、アルベルトの反応の方はシーザーにも容易に推測できた。『そうか』の一言。付け足しがあるとしたら──『愚かな』くらいだろうか。

俯いた赤毛の後頭部に、化け物の息が降りかかる。
滴るような、抑えた含み笑い。それでもユーバーは寛容な所を見せた。

「どうする?今ならまだ降りても良いぞ」

数秒の沈黙。
顔を上げ、シーザーは引きつった笑いを見せた。

「前言を撤回する気はない。言葉には責任を持つものだからな」

掴まれた腕を振り払い、余裕を取り繕って見せる。
ユーバーにしてみれば、その程度の虚勢は揶揄する対象にしかならないが。

「──男気あるだろ?」

(……軍師に男気があってどうする)

内心で突っ込んで、ユーバーはうんざりした。やはりこの赤毛には向いていない。
策士に必要なのは、度胸よりも慎重さ、そしてそれよりも計算高さだ。

まあ良いか、とユーバーは思った。
別に賭けがどうなろうと(その結果シーザーを殺す許可が出ようと)、それ程楽しくはないだろうが、アルベルトがどんな顔をするかには興味がある。
ユーバーは、シーザーの後頭部を冷めた視線で眺め、呟いた。

仮に今、一回の賭けでチップを五倍にしようとするならLine(横2列に含まれる6つの数字に賭ける)だが、確立は六分の一。
アルベルトなら、間違ってもそんな勝率の賭けはしないだろう。

「──無謀な賭けに乗るような奴は軍師に向かん」

シーザーはそれには答えず、チップを一握り掴み出して台に置いた。