じゃらりじゃらりと、円盤の中で派手な音を立てながら指先ほどのちっぽけな玉が転がる。そしてため息。
こつこつと、動物の白い骨で作られた小さな直方体が積み上げられ、四つの手がそれを順々に拾っては捨てていく。そして掛け声。
ぱさり、と上質の紙で作られた四角形が五枚投げ出され、その色はすべて赤だったりする。そして歓声。
人の囁く声。人の足音。
毛足の長い絨毯や紫色の煙では受け止めきれないそれが、この空間には満ちていて、耳を麻痺させる。
(……トーマスやヒューゴには、見せらんないな)
シーザーは、煙管を片手にそう思った。トン、と、安っぽい錆色の皿に灰を落とす。
彼が居るのは、小規模だが立派な賭博場だった。青い光が、場に満ちている。魔法によるイカサマを許さない、『静かなる湖』の結界だ。
無地の壁紙が張られた灰色の板に背を預け、シーザーは漠然とした視線を辺りに投げている。備え付けの灰皿が、丁度良い高さに置かれ、それをはさんだ反対側には、ぼさぼさの髪をした猫背の男が、やはり同じように煙管をふかしていた。百合の花に似た匂い。
男が大半、その連れで女が少々。客の入りは、まあまあだろう。
シーザーは壁から身を離すと、青い海に島のように浮いているギャンブルの台の周りを泳ぎ始めた。
ダイス、カード、ルーレット。変わったところで牌。コインは今時流行らないらしい。チップを積み上げた男の背後に回り、気紛れに顎を突き出して観察する。危ないな、勝ち過ぎだ、と内心で呟く。
視線を飛ばして換金所も覗く。チップに変えるために並んでいる客の方が、金に換えるための客より少しばかり多い。
チップは偽造防止の為に精緻な細工が施されている。大規模な鋳造所でなければ作れないし、シリアルナンバー入りだ。それならば贋金でも作った方がよほど割が良いだろう──見つかった途端に死刑だろうが。
シーザーは煙管を持ち替えて、もう一口喫った。
ひたひたと、何かが皮膚をふさぐような感覚。
別に、頭の回転が鈍っているわけではないと思う。
花の匂いで嗅覚が麻痺し、世界に薄紙が一枚張られたみたいで、リラックスする。大丈夫、今だけだと思って誤魔化す。
わかっている。馬鹿にしているそぶりだけれど、薬は怖いものだ。簡単に人を滅ぼす。
けれど、溺れるのならまだましだとも思う。あれよりは。まだ、まし。
「…………」
バカラの台の近くを通り過ぎる時、一人の中年と目が合った。
古典的なイカサマを見逃さないように、客に混じって店の者がいる。勿論、従業員の服装などせず、いかにも背景ですよという顔をして。
警戒態勢のことは知っているだろうに、一日に五人はイカサマ師が捕まる。大体、こんなところに入り浸る奴が賢いわけはないのだから、当然なのかもしれないが。
シーザーは自分のことは棚に上げてそう思った。
ダイスの台を覗く。振っているのは、気分を出した着流しの男。熟年の技など感じさせないところが良い。
椀の中に飛び出した小さな立方体が、それぞれの目を上に向けて止まる。1、4、4。そうまずくはない目だ。そして、着流しが振ったのは3、1、5。チップが何枚か客の前に移動する。
額が小さいときは、逆に負けてやった方が、結果としていい儲けになるのだ。店としては。
シーザーは、湾を横にまっすぐに泳ぎきって向こう岸に着いた。煙管に火を付け直す時間が欲しい。
先ほどと同じように漫然と全体を見渡して、薄い色の空気を吸い込む。
良い首尾だ。この賭場が、一ヶ月前に開かれたばかりとは思えない。
取り留めのないことを考えながら、片手に持ったチップを撫でさする。悪くない手触りだが、自分の体温が移っていて気色悪い。
さて、ブラックジャックの台に行くか、今日はクラップスにするか、シーザーは煙を含みながら思案した。
とん、と、シーザーと同じようなポーズで壁に腰を落ち着けた誰かが居る。
パーソナルスペースを侵すほどの至近距離、背の高い男だ。シーザーは気兼ねなく身をよじり、少し間を空けて立った。横目で見遣る。
簡単なつくりのシャツと上着、そしてぺたりとした靴。
立ち枯れて完璧に乾ききった雑草のような灰色とも茶色ともつかぬ髪。
通った鼻筋以外は平凡な、似顔絵を描くのに困りそうな顔。
まずい、と思った瞬間には、目が合っていた。たまにある、気まずい瞬間。にやり、と男が笑う。
「……!」
途端にあげそうになった悲鳴を何とか飲み込んだ自分の喉に、シーザーは拍手喝采を送りたかった。
どきどきと心臓が激しい鼓動を刻む。
男の目は両方茶色だったのに、目があった瞬間、赤と金とに変えて見せられたからだ。
+++ +++ +++
「……何してんだよ、こんな所で」
「暇潰し」
思ったとおりの答えが返ってきて、眩暈がする。
視線をずらして、お互い真正面を向いたまま会話を始めた。
「他にやることねえのかよ。変装……じゃねえな、変態までして」
「俺は目立つからな」
自意識過剰とも取れる台詞は、けれど納得できるものだった。
いつもの、黒と白と金と赤だけで構成されたユーバーの姿は、どんな時でも注目を集めてしまうだろう。
慣れれば、それ程不愉快ではない相手だった。それこそ危険なことだと思いつきはしても、実感としては得られない。
幻術なのか、構成組織から変えているのか、ユーバーは全く普通の男に見えた。いつもの圧迫感もない。
シーザーは口の中でその台詞を五、六度転がしてから、思い切って問いかけてみた。
「……あいつは?」
「ふん、知るか」
即座に返された答えに、シーザーは内心ほっとした。
もしかして、アルベルトがユーバーを寄越したのかと気を回したのだが。
あの冷ややかな目が、幾千の罵倒よりも鮮やかな侮蔑の色を乗せるのを想像するだけで、苛立ちが募る。もっと悪いのは、徹底的な無関心の色。すべての声は、一週間後の天気予報よりも聞き流される。
それから、先程のユーバーのぶっきらぼうな言い草の方に興味を移した。変に子供のような態度で、シーザーを油断させてどうしようというのだろう。
策を弄する必要性を感じなかったので、今度は迷わず躊躇わずに訊く。
「喧嘩?」
「黙れ」
悪鬼は嘘はつかない。その部分に関して、アルベルトと正反対だ。
肩の力を抜いて、シーザーはため息をついた。シンパシー、そして認めたくはないが僅かな羨望を覚えてしまうのはどうしようもない。
「何したの」
「……」
言いたくない事は言わないだろうが、聞いて欲しそうな雰囲気も伺える。
もう一度聞けば答えるだろう。興味を引かれて、シーザーは何気なく聞こえるような声音で繰り返した。
「何したの」
「……わからん。手紙を読んでピアノに触って本を投げてソファに寝転んだらもう機嫌が悪かった」
「……多分、三番目だな」
ユーバーは、わからん、と断言した。俺は悪くない、とも。
今は褪せた色の短髪を掻き揚げて、がりがりとむしる。
「ふにゃふにゃだったから、もう読めんだろうと気を利かせてやったんだぞ?」
「………………」
不意に、ずきんと胸が痛んでシーザーは顔をしかめた。ありえない妄想が浮かんだからだ。女々しい感情に吐き気がこみ上げる。
今一瞬脳裏に過ぎった姿。──水気が沁みて、傷んだ本を拾い上げる。そんなものは、アルベルトではない。
そんなことを考えながら、全く気のない言葉を空気に放り投げる。
「そうなのか」
「そうなんだ」
ユーバーは生真面目に頷いた。
シーザーは、煙管の火を消した。煩わしくなったからだ。薄紙を破って、緊張したい。馴れ合うのは危険だ。思い出せ。これは、人ではなく、指一本でシーザーを殺す、アルベルトの駒だ。
「貴様こそ、ここで何をしているんだ」
ふと、軽い世間話のようにユーバーが問いかけてくる。
前提を全部取り外して客観的に眺めれば、多分、二人は気の置けない友人のように見えたかもしれない。
「……金儲け」
シーザーは、自分でも情けなく聞こえる声で答えた。
「学校には行かないのか」
「お前はアルベルトか」
眉を寄せて、不快感を表す。ユーバーも、シーザーの切り返しによって似たような表情だろう。
麻雀の台から大きな歓声が上がった。役満でも上がったのだろうか。麻雀卓には一台につきひとり店の者が入るが、他は自由なので取り付きやすい。
「苦学生なんだよ。学校に行ってる暇があったら稼ぐ」
「貴様の家は金に困っていないだろうが」
「家はな。俺は違う」
限りなく苦い顔を作ってシーザーは言った。
どんな悪徳金融でも有り得ないような利率で、しかも大金を借りてしまったのだ。
シルバーバーグの家土地財産をすべて売るような真似は流石に出来ない。そもそもシーザーのものでもない。何十年か後、親が亡くなり、アルベルトが家を出れば転がり込んでくるのかも知れないが。
ははあ、と察したようにユーバーが笑うのが気に入らなかったが、自業自得なのは知っている。
「例の借金か」
「……あんな馬鹿な事、言わなきゃ良かった」
正直な気持ちだ。
もしも過去に戻れるのなら、アルベルトに金の無心などしないように、自分の部屋のドアを釘付けにしたい。それで一食くらい抜く羽目になっても、原因不明の嫌がらせに苛立っても、客観的に見れば今より幸せな筈だ。
「奴を困らせたかったのか?」
ずばり、と聞かれてすぐに答えが返せない。
どうだ、という気持ちがあったのは確かだ。
ユーバーは正直だから、そんな生き物に嘘を吐くのは気が引ける。シーザーは、アルベルト程面の皮が厚くない。アルベルトは面の皮を剥いだら何も残らないのだろうから、別に責めているわけではないのだが。
「かもな」
「馬鹿め」
「知ってるよ」
「つまらんな」
ユーバーは目を眇めて、賭博場からシーザーに視線を移した。
「貴様もつまらん。この場所もつまらん」
「……暴れないでくれよ」
真剣にぞっとして、シーザーは釘を刺した。
シーザーはユーバーに命令も願い事も出来る立場にないから、どれほどの効果があるのかは知らないが。考えながら言葉をつないだ。
「お前も遊べば良いじゃないか」
「やり方も知らん」
「じゃルーレットだな」
とん、と壁を蹴って、軽く身を浮かす。
シーザーがルーレット台に泳ぎ着き振り返ると、ユーバーは大人しくついてきていた。
なぜか口元が緩む。自分が握っていたチップを一枚、ぽんと渡してやった。
「好きなところに賭けろよ。まあ、最初は無難に一対一が良いかな」
「一対一」
「掛け率のことさ。赤か黒か、奇数か偶数か、前半か後半か、だな。ほら選べよ」
「……」
ユーバーはあまり考え込まず、黒のスペースに無造作にチップを置いた。
台を囲む顔を見渡してから、古風なタイをしたディーラーがルーレットを回す。ボールを投げ入れる。
音を立て、円を描いて転がるそれを、今は茶色いユーバーの目が追った。シーザーも釣られてじっと見つめる。
一投一投にそれ程長い時間はかからない。盤の回転が、遅くなり、やがてゆっくりと止まる。
からからから、から。
ほう、という息が、台の周りから立ち上る。
「黒の33」
ユーバーの前に二つに増えたチップが戻って来た。
「……成る程」
目線が急かすので、簡単に掛け率と掛け方を教えてやる。1目掛けから6目掛け、縦一列に大中小。ユーバーは一度聞いたことは全て覚えるようだ。なのに、生まれたての子供のように知らないことが多いのは、覚えていることが多すぎて、掘り出せなくなるからに違いない。
シーザーは、自分の仕事をしようとルーレットの台から離れた。どうやら、興味はきちんともてたらしいから一人で遊んで帰るだろう。
内心で祈る。
ユーバーが鴨にならないように、というよりは、店の者がユーバーを鴨にしないように。
悪鬼が変に人間臭い今、彼らには自分が何を相手にしているかわからないのだから。