「若君」

随分と古い記憶の中にあるそれと寸分違わぬ響きの、その柔和な声。
アルベルトは、つ、と視線を上げた。同時に、手元の本をぱたりと閉じる。

アルベルトがわざわざ読書を止めてまで応対するのは、この声が相手だからだ。
幼少年期には母よりも余程世話になった。

白髪交じりの栗色の髪の老女、使用人のマヌエラは、この屋敷でアルベルトとシーザーの兄弟仲を取り持つ数少ないうちの一人だ。
何の権力もないが、やはり幼い頃を知られているのが理由だろうか、アルベルトもこの老女には比較的譲った姿勢をみせる。

「差し出がましいとは思いますが、一言お耳に入れておきたいことがございまして」
「ああ」
「坊ちゃんの事なんで御座いますけれどねえ……」

マヌエラはそこで一度口を止め、思案して言葉を選ぶ様子を見せた。

予想通りだった。
彼女がアルベルトにこの表情を見せるのは、シーザーのことを頼むとき以外にない。

マヌエラがこんな事をアルベルトに言うのは、それが一番だと思っているからだ。シーザー本人に聞かせようものなら鼻で笑われるだろうが。
シーザーは両親の言う事を素直に聞く年齢をとっくに過ぎている。兄であったら聞くのかと言えばそれはむしろ逆であるが、アルベルトには力があった。
兄弟と言う情から付随的に発生する言葉の力ではなく、それよりももっと直接、その論法そのものに宿る魔法が。

マヌエラは困ったように微笑んだまま、こう続けた。

「お酒やお煙草などでしたら、誰しも一度は憧れる道、そうっとしておいても宜しいと思うんですが……それだけではないような気がして」
「例えば」
「……坊ちゃんのお部屋に入ると、微かに、百合の花に似た香りが」

アルベルトは珍しく、溜息をついた。
軽く眉根を寄せて、心底呆れた様な声音。

「──売るほうならまだしも、手を出すとはな」
「若君」

不適切なその言い方をやんわりと咎める呼びかけに、アルベルトは僅かな表情で謝意を示した。
けれども、問題が消えたわけではない。

アルベルトはマヌエラに礼を言って下がらせると、両手を組んで顎を乗せ、うんざりと呟いた。
窓からこぼれる長閑な日差しとはそぐわない、皮肉な表情。

「我が弟ながら、そこまで愚かではないと思っていたのだが」

その言葉尻を捉えるように、部屋の扉が乱暴にばたんと開いた。ノックも、断りの声もなしに。
その時点でアルベルトには相手が誰だかわかった。先程退室したマヌエラと入れ替わりのように入ってくる、件の「坊ちゃん」。

「よお」

ひょろりとした痩身。顔立ちはあまり似ていない。目と髪の色味も大分違う。似ているのは目を眇める癖くらいだが、血が繋がっているのは確かだった。
ジャケットのポケットに両手を突っ込んで、軽く猫背に立っている。
珍しい事だな、とアルベルトは思ったが、それを口に出すよりシーザーがこう切り出す方が一瞬早かった。

「金、貸してくれ」

アルベルトはゆるゆると半分ほど瞼を閉じて、弟を見た。
シーザーは気にした様子も見せず、先程と同じような言葉を放とうとする。

「聞こえなかったか?金、貸してく」
「シーザー」

言葉を遮って、アルベルトは警告を発した。
シーザーは小憎たらしい笑みを浮かべて、様子を伺うようにアルベルトを見た。

「何だよ」

その時点で、アルベルトの胆は決まった。
自分が発した言葉への、責任と言うものを教えよう。

「お前はいくつだ」
「十七?」
「わかっているならば良いが」

何をだよ、とシーザーが問う前に、アルベルトは随分と人の悪い顔でさらりと言った。

「十七はもう、甘えが許される年ではないぞ」
「はあ?」
「貸してやろう」
「え?」

あまりにあっさりと出た許可に、シーザーは耳を疑った。
何か裏があるのではと思考が及びかけたが、アルベルトが行動を起こす方が一瞬早かった。

手袋をはめた手で書棚の引き出しを開け、中から取り出したものをどさりどさりと机の上に放る。
無造作に置かれたそれらと、笑うアルベルトの口元を、シーザーはぽかんと口を開けて眺めた。
随分と非現実的だ。

「百万ポッチだ」

束になって山になった高額紙幣。
炎の英雄でさえ個人では持ち得なかった金額が何故、家のちょっとした引き出しから出てくるのか。

「は?」

シーザーが我に返るのを丁度見越したようなタイミングで、アルベルトは言葉を続けた。

「三ヶ月で五倍にして返せ」
「はああ!?」

怒涛のような勢いで返ってくるであろう文句を、アルベルトは小馬鹿にした表情ひとつで遮断して見せた。

「……出来ないのか、シーザー」
「ったり前だ!何処の世界にこんな暴利な──」
「十七にもなって?」

にこり、と。
別人のように愛想の良い顔をアルベルトは作る。シーザーが言葉につまり、引きつった顔で呻いた。
それは完璧に、他人相手の演技。

──甘えが許される歳ではないと、言った筈だ。








+++ +++ +++







何の遠慮もなく扉を開き、アルベルトはその部屋に入った。
部屋の主が外出しているのを知っての行動である。無断進入を気にするような繊細さを持ち合わせているとしたら、むしろその方が不自然だ──アルベルトという男の場合は。

後ろ手に扉を閉めると、まずはざっと部屋全体を見渡した。
やや散らかっているが、もともと物が少ないためだろう、気になる程ではない。

「…………」

成る程、注意しなければ気付かないが、微かに何か香っている。
アルベルトは十秒ほど考えると、迷いなく歩を進めた。

乱雑に本が納められている書棚を通過し、様々な小物が乗っている飾り棚を通過し、雑誌が散らばるライティングデスクを通過し、クローゼットを通過し。
そして、ベッドの前で立ち止まり、手を伸ばす。

ベッドの下にではなく、マットレスの下にではなく、枕の下にではなく、勿論、シーツや掛け布団の中にでもない。
アルベルトは丁度ベッドに日が差し込むように設計された窓に手をかけると、静かにそれを開け放った。新鮮な空気と風が、葡萄酒色の前髪を揺らす。

ベッドに膝を乗せて身を乗り出し、アルベルトは丁度外に向けて庇のようになっている窓枠の下を探った。
程なく引きずり出したのは、手のひらに乗るくらいの金属製の密閉型の箱。どうやら磁石で吸い付けていたらしい。
ベッドから降りると、アルベルトはそれを子細に点検した。目に付く仕掛けはない。
錠も掛かっておらず、スライドさせると簡単に開いた。途端にきついほど香る、花のような匂い。
中に入っていたのは、大きめの薬包が六つと、煙草用に比べてやや短い煙管。

そこで、アルベルトの後ろから声が掛かった。

「……何故わかった?」

暗緑色の目は動揺を見せず、静かに切り返す。

「知りたいのか」
「それなりにな」
「……別に大した推理ではない」

アルベルトは箱から顔を上げると、つまらなそうに解説した。

「部屋に匂いが染み付くと言う事は頻繁に使用していると言う事だろう。となればいちいち取り出し辛いところには隠すまい?ベッドの上で怠けている姿を見慣れていれば、そこから手を伸ばせば届く場所だというのは想像に難くない。更に、使用人が良く触れるベッド自体は見つかる危険が大き過ぎるな。部屋の外というのも意表をついて良いだろう……という悦に入った考えもすぐ連想出来る。夜、窓を開けても寒くない季節だというのも、理由と言えば理由か。燃え滓も捨て易い」
「聞いてみれば詰まらないな」
「だから、大した推理ではないと言っただろう」

アルベルトは薬包の中から、開封した跡があるひとつを選んで、開いた。
薄く緑がかった肌理の粗い粉を少量つまみ上げると煙管に詰める。

「吸うのか?」
「お前がだ」

意外そうに聞いてきた相手との距離を詰め、その口に煙管を咥えさせる。
すんなりと口を開いたところからして、興味がなくはないのだろう。

「こそこそと弟の部屋を漁って何を見つけたのかと思ったら、兄弟そろってろくでもないな」
「お前の野次馬根性もそれ程高等なものでもないと思うが」
「……体よく利用している癖して、何という言い草だ」

ユーバーは咥えた煙管を歯で操って二、三度上下させた。
ぱちりと音がして、火が付いた気配がする。そのからくりを訊く気はアルベルトにはない。ユーバーとて、説明は出来ないのだろうから。アルベルトが、肺で血液に酸素を取り込むやり方を説明できないのと同じように。

「…………」

すう、と確かに吸い込んでいる筈なのに、ユーバーが吐く息からは花の匂いがしない。
成分を完全に取り込んでいるのか、とアルベルトは少し感心した。毒見もよくやらせるのだが、内臓器官はどうなっているのだろう。
解剖学者の目つきに気付いたのか、ユーバーは一歩身を引くと煙管を口から離した。

「……甘過ぎる」
「お子様用か?」
「幻覚系、気分高揚系ではなく、精神安定剤、抗欝剤に近い成分だな」

ユーバーはベッドに腰を下ろすと、窓辺に手をかけ煙管を逆さにして残りを捨てた。

「中毒性は低いかもしれないが、他に比べての話だ。今すぐどうこうというものではないがやはり麻薬は麻薬だな、副作用がある──どうするんだ」
「どうする、とは?」

アルベルトは煙管を取り上げ、元通りに箱に仕舞った。
薬包も整えて蓋を閉じ、ユーバーに手渡す。

「弟だ」
「決めかねる」

そう言ったアルベルトの表情を見て、ユーバーは、珍しい事だが少しシーザーに同情した。
そして箱を所定の位置に戻すと、窓を閉めた。