ぽーん、とひとつだけ伸びやかに広がった音の漣が、物理的に自分の前髪を揺らしたような気がした。
思わず足を止めたが、音の正体は全く持ってはっきりしている。ピアノだ。

「?」

思い当たる可能性を考えている間に、またひとつ。はっきりとした波が空気を掻き分け、鼓膜にまで届く。
曲ではない。シーザーにはどの音かわからないけれど、鍵盤を押しているだけだ。多分人差し指で。

シルバーバーグ邸は広いが、音楽室はない。
けれど母が若い頃嗜んでいたピアノが、確か第五書庫のとなりの小さな部屋に押し込めてあった。間違いなく、その音だろう。
シーザーが疑問に思っているのは、何故唐突にピアノが鳴ったのか、そして今も鳴り続けているのかということである。

ポルターガイストの類は信じていないので、誰かがピアノに触っていることは明白だ。
別にたいしたことではない。ピアノくらいいくらでも触れば良い。ただ、この家の者がピアノに興味を示したことなど、物心ついてから一度もなかったと思う。
シルバーバーグ家に策謀と一緒に血に乗って受け継がれているのは回りの失笑を買うほどの音感の無さで、シーザーは幼年学校の音楽の授業が体育と同じくらい嫌いだった。父はそれについては何も言わなかったので確実に同類である。アルベルトも、シーザーの前で歌ったことがない(鼻歌すら一度も!)所から見て、音楽に関しては人前で披露出来たものではないのだろうと思われる。

誰だろう。シーザーは単純にそう思った。
母ですらもう十年以上、あるいはもっと弾いていないピアノに対して、興味を示す者がこの家にいたとは。

ぽーん、ぽーんと響いていたその音が消える前に、シーザーは廊下をUターンした。
つまり、シーザーはいつものことだが暇だったのだ。






+++ +++ +++






かちゃり、とノブを回して小部屋の中に頭を突っ込んだとき、シーザーはすぐさま自分の好奇心を呪った。
何もなかったことにして首を引っ込めて扉を閉め直したいが、明らかに眼が合ってしまった後ではマイナス効果しか及ぼさないだろう。

外した黒い手袋が無造作にピアノの蓋の上に載せられている。
白く長い指先が沈み、上がり、音がまたひとつ伸びた。

「入れ」

有無を言わさぬ声に促され、シーザーは渋々と入室した。あまり近寄りたくない、というのが、誰憚ることなく宣言できる本音だ。
この男の回避、パリングスキルのために、部隊がどれ程苦しめられたことか。戦争中、シーザーは彼の黒影を見つけたら最優先で部隊に紋章を使わせた。それでも散々に蹴散らされることが多く、特にダック隊など良い生贄状態だった。

破壊者の中でも主に破壊担当である、ユーバーだ。

シーザーはあんなものを呼び出す方法などレオンから受け継がなくて本気でよかったと思っているが、アルベルトは気にせず使い倒している。それは、才能の違いではなく面の皮の厚さの違いだろう。彼に言わせれば、それすら軍師の必須条件らしいが。

掃除はされているが、やはり人があまり使わないためか寂れた感のある部屋。その中でユーバーとピアノという組み合わせは、思ったほどの違和感はなかった。多分、色合いが似ているためだと推察する。

開き直って、シーザーはこの男(多分男だろう。性別くらいはあるに違いない)と会話してみることにした。マンツーマンで向き合ったこと自体そもそもないので、反応は全くの未知である。

「それ、全然調律とかしてないと思うんだけどな──アンタ、ピアノ弾けんの」
「見てわからないか」
「それが、『実際に今弾いてみせているだろう』って意味だったら俺には見てもわかんないぜ。俺の住んでる世界的に言えば、それは楽器を鳴らしてるんじゃなくて鍵盤を押してるんだ」

ユーバーは答えなかった。
機嫌を損ねたか?シーザーはピアノ横のチェストの上に立てかけられている楽譜を取り上げ、答えのわかっている問いを投げかけた。

「音符とか読めるわけ?」
「ピアノを弾くのに、そのせせこましいお玉杓子どもが必要か?」
「質問を質問で返すなよ」

ユーバーは、やけに細部まで繊細に作られているように思える白い指で鍵盤を撫でた。
無造作な筈その動きが、気取って見えるのはどうしたわけだろう。

「この道具は」

ユーバーは一番下の白鍵を押し込んだ。ずん、と重低音が響く。

「ここから」

今度は、最高音の白鍵。ぴーん、と微かに耳を引っかく音。

「ここまで」

二つの音が消え去り、ユーバーは指を離した。

「音が順番に並んでいるだけだ。猿でもわかる仕組みだ」
「や、そういう事じゃなくてな……ただ音を出すのと、音楽とは違うだろ」
「違う?」

ふん、と呆れたようにユーバーは鼻を鳴らした。
そして傲岸不遜に言い放つ。

「お前らの耳は馬鹿だ。俺は──」

上下する人差し指。
ひとつだけ、
鳴る、
震わせる、

音だ。

「これでも、十分綺麗に聞こえる」

返す言葉をシーザーが探そうとしたとき、小部屋の扉がまた開いた。
ふ、と計算されつくされたように気だるさを匂わせる吐息が空気を揺らし、シーザーは意識して振り返る。

「何かと思えば、珍しいなユーバー」
「……この道具は赤毛吸引器なのか?そうと知っていれば触らないものを」

憎まれ口を叩いて、ユーバーはアルベルトに顔を向けた。縛っていない金髪が肩口から零れ落ちる気配が涼やかだ。

このふたりを見ていると、自分の造形が「きぼりのおまもり」くらい素朴に思えてくる。無論シーザーとて自分の顔かたちがそこまで酷いものだとは思っていないが、ユーバーは悪鬼の癖に人体として完璧な、彫像に近しいバランスの美しさを持っている(彼の足の長さを羨んだことはないと思いたい)し、アルベルトはその動き自体が酷く優雅で高雅だった。

「弾けるのか」

自分と同じような台詞だけれど、決定的な違いがある。シーザーは眉根を寄せた。
この男は皮肉以外に、疑問符をつけた文を喋ったことがないのかと、有り得ないことさえたまに空想する。

「お前の弟がな、これは音楽ではないと言った」
「俺の専門分野ではないな、それは」
「聞かせてみろ、音楽と言うものを」
「……シーザー」

余計なことを教えてくれたな、とアルベルトは弟を視線で刺した。
シーザーは憎たらしい顔を作ってみせ、すぐに眼を逸らす。

「音楽とは──人の聴覚に訴える美だ。時に感情を伝えることもある」
「俺は、聞かせてみろと言ったんだ」
「……シーザー。歌え」

アルベルトに面倒をかけるのは楽しい。シーザーは即座にこう言ってやった。

「嫌だ」

アルベルトは拘泥せず、ユーバーに視線を戻した。

「お前、それだけ生きていて音楽を聴いたことがないとは言うまい?」
「知らんな。沢山の種類の音なら聞いたことがあるが、どれが音楽というのだ?」

空惚けるユーバー。
ふう、と聞こえよがしな溜息をつくと、アルベルトは小部屋を横切った。
作り付けの戸棚においてあった、小さな、明らかに子供用のヴァイオリンを手に取る。
シーザーはそれをインテリアだと思っていたので、アルベルトが迷わずそれを持ち上げたことに軽い驚愕を覚えた。もっと驚いたのは、弦の調子を確かめ、少し緩めたり締めたりした後アルベルトがそれを構えたことだ。

「弾けるのかよ!?」
「……嗜んだのは、お前が生まれる前のことだ」

きぃ、と弦と弓が擦れあう音。
しなやかな指が、動くのをぼんやりと見る。

狭い部屋に、小さな楽器から流れ出す驚くほど響く音が溢れ、鼓膜どころか体を揺らす。
アルベルトは表情を変えずに、短い旋律だけ弾いた。さらり、と十秒にも満たない時間だけ存在した流れ。その一切れが。


多分、美しいのだと。


カンタータ第147番「心と口と行いと命」。
シーザーはそのとき、その曲の名前を知らなかった。

義務を果たしたと言わんばかりにアルベルトが未練なくヴァイオリンを下ろす。
しん、とした空間を再び鳴らしたのは、ピアノだった。ひとつ。次に、ユーバーは親指と中指と小指を使って、三つの音を出した。その次は、左手の親指と人差し指、そして薬指。

奇跡的に濁らなかった音、多分和音と呼ばれるものを、ユーバーは矯めつ眇めつ検分すると、頷いた。

そして、鍵盤の上に両手を置きなおす。



があん



シーザーはその瞬間、上から何か落ちてきたのかと思った。
だが、違った。

めまぐるしく動く指。
叩きつけられる律動。
押し流されるような、音の奔流

ぞくぞくと背筋が震えて、シーザーは息をのんだ。

只がむしゃらに叩いているのではない。
その流れは確かに、何かを表現している。

美しい?そんな事はわからない。
冷たい銀の刃が突きつけられているかのような緊張感と、暴力的なまでの圧力。
高まり、翻り、一瞬停滞しそして解き放たれる、その音の動きに。

刺し貫かれる。

息が出来ない。瞬きも出来ない。磔になったように、体が動かない。
戦場にいるユーバーの印象に、とてもよく似ている。似ているというより、そのままだ。
彼はこんな世界に生きているのだろうか。こんな世界で人が生きていけるものだろうか。

削ぎ落とされる、とシーザーは思った。

平衡感覚を失った時、隣から微かな声が聞こえた。
この音の、逆巻く洪水にも押し流されず、アルベルトは呟いた。

「随分と情熱的だな──悪鬼の音楽は」

惹かれるか?と。
アルベルトは横目でシーザーに問った。

シーザーは震えた。
世界はどうしてこのようなものに形をとらせ肉を与えたのだろう。
全てを破壊しつくすような、この衝動と狂気に満ちた怪物を。

この激しさは、恐ろしい。
本能的な恐怖が、シーザーを支配して首を横に振らせた。

「……それが良い」

それは、皮肉ではなかった。

「お前の反応こそが、本当は正しい」

アルベルトの声はその時、酷く優しかった。
返したシーザーの言葉は、波を作れずにかき消された。

アルベルト、お前は。

「これを…使う……?」

そんなことが可能なものか。
途方もない不安感に駆られたとき、音が止んだ。

「……」

ユーバーは腑に落ちない顔をしたまま、鍵盤から指を下ろした。
アルベルトが軽く拍手をする。シーザーは顔面を固く強張らせたままだ。

「……これが、音楽か?」

アルベルトはその問いには答えず、軽く悪鬼を諭した。

「多分、何か別のものだ……隠しておけよ、ユーバー。お前は正直過ぎる」
「何をだ」
「本性をさ。お前は本当に──」

アルベルトはそこで言葉を切ったが、シーザーはその続きを正確に理解した。
この人型の影の内側はとても複雑で、矛盾すら孕んで狂おしく荒れ狂いながら衝突している。

只単純に一直線に進んでいるように見える流れの中に、無数の感情が見える。
例えば、多角形の、その細かくなっていって円になる一歩手前。例えば、細かく折れて曲がりくねりながら、それは遠目には直線。

膨大な要素を、混ぜ合わせ、捏ね上げ、嵐のように放出する。
これこそ、混沌だ。

シーザーは息を吸って、吐いた。
この生き物はアルベルトとは真逆だ。アルベルトは、策や行動はこの上なく繊細に精密に、多彩なパーツを組み上げて作るが、きっと感情はそうではない。まっさらで単純、と言っても良いかもしれない。そして、演技はするけれども芯は揺れず、ぶれず、理性という鋳型から絶対に外れない。ひとりで、ひとつだけで、全て完璧に構成されている。

「いや、可愛いな」
「殺すぞ」
「怒るな。俺は褒めているんだ、珍しく」

アルベルトは上機嫌で、金糸をぽんぽん、とあやす様に叩くと、部屋を出て行こうとした。
擦れ違いざま、シーザーの耳元に囁く。

「炎に似ているだろう」

激しくのた打ち回る高温。
猛々しく、しかし揺らめく光。

動物は恐れるのが自然で、人間は利用しようとする。
けれど、不遜に小賢しく立ち回ってのまれるよりは──

「畏れて逃げる方が、正しい」

感傷めいた響きなど、嘘だ。シーザーは思った。
いけしゃあしゃあとそんな台詞を吐くこの男には、まさしく神をも畏れぬ傲慢さが備わっている。

柔らかい金属で出来た男。
何も食べず、支えられず、生きずとも。他に何もなくとも。完璧で崩れない。シーザーが抱くのは、そんな幻想だ。
何もない寂寞の荒野に、一人立つ。文句のつけようがない。文句をつける無駄な箇所などない。

個であり、それが完全。








アルベルトが去ると、部屋には静寂が満ちた。
なにごとか考えているユーバーに、シーザーは気になったことを訊いてみた。

「さっきの曲、何て言うんだ?」

問いかけに、ユーバーは興味を持たなかったようだった。

「名をつける必要などないだろう。二度と弾かん」

シーザーが呆気に取られている間に、なにごとか結論が出たらしい。
黒い影が、ぽつりと言った。

「やはり、この方が綺麗だ」

上下する、人差し指。
シーザーは目を閉じる。

ひとつだけ、
鳴る、
震わせる、
ひとつの、
ああ、

音だ。




多分。
多分、とシーザーは思った。

彼はこれに焦がれているのだ。