執拗に肌を辿っていた女の指が、引っ掻くように力を込めた後、苛ついた感触を残して離れた。
膝の上に乗りかかった熱く柔らかい重みが、囁くように吐息を吐きかける。
「……貴方って、不感症?」
「ああ、あんたにはね」
シーザーは眠たげな目を彼女の顔にも向けないまま言い捨てた。
それは正直な告白かもしれないが、上手い言い方ではない。その愚かさの代償としてシーザーに与えられたのは、よく冷やされた花瓶の水だった。
熱中していたので言葉を選ぶ程に彼女を気にしていなかったのもひとつ、それ以前に興味がなかったのもひとつ。結果としてシーザーは、作り話ならそれなりに気障と言えるエピソードは、実際に身に起こってみると甚だしく情けないというろくでもない事実を手に入れた。
もっとも、一番の損害を被ったのはシーザーの手にしていた厚手の本である。それに気付いた一瞬後、シーザーは素早く立ち上がった。物理法則に思いもかけない素直さで従い、女の体が椅子から滑り落ちる。
無駄なことではあるだろうが一縷の望みをかけて、シーザーはすぐさま本から水気をふき取る作業に従事した。その耳には、彼女の罵声も捨て台詞も聞こえなかったことだけが幸運と言えばそうだろう。
随分と低俗で下品な悪罵を使ってくれただろう事は簡単に予想がつくが。
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「『馬鹿が風邪を引いたようだ、珍しい』って言いに来たなら言って良いからさっさと出て行けよ」
「可愛くない口を利くものだ」
自分とは随分色味の違う赤毛を持つ歳の離れた兄は、片手に水差しと薬、そして粥を乗せた盆を持ったままするりと入室してきた。
許可もないのに入ってこられたのではノックの意味も礼儀の意味もないと思うのだが、そこまで言い争う体力はない。
遠慮なく距離を詰め枕元に立った、他人より理解できない血縁を見上げる。
シーザーの熱は既に昨日の夜食べたシチュー位には達しているに違いない。無駄にくらくらする脳に内心で痛烈な悪罵を放ち、見下げてくる暗緑色の瞳を迎え討つ。アルベルトとの間にある空気は、シーザーにとってはいつでも戦いだった。
ふと、アルベルトは言った。
「お前は……こんな時でも俺を敵のように見るな」
「…………」
意図が読めない。困惑の色を視線に混じらせないように細心の注意を払って、シーザーは呼吸をした。
だが、自制は儚くも次の瞬間には崩れ去る。
「……!」
アルベルトの手がこちらへ伸びてくるのを見ながら、自分は恐怖すら帯びた表情を形作っているだろうとシーザーは正確に自覚していた。
払いのけようとする病人の緩慢な動きをかわし、アルベルトはすっかり溶けきった氷嚢をシーザーの額の上から取り去る。
シーザーは自分の顔面に急速な勢いで血流が上昇していく音を確かに聞いた。
過敏過ぎる。
「顔が赤いな」
「なっ!いや違っ?!」
「熱のせいだろう」
「……ああそうですよそうでしたよそうでございますよね」
それ以外にありませんよね。
一刻も早くこの物体を自分の視界から退かさなければ、病状が悪化する可能性が多分にある。
熱で蕩けた頭でもそれくらいの判断はつく。シーザーは眼球に力を込め、人差し指を真っ直ぐドアの方へ向けた。
「そう邪険にするな」
それをあっさりと却下し、アルベルトは枕辺に椅子を引き寄せて腰掛けた。
シーザーは思いっきり聞こえよがしに溜息を吐いてやったが、相手に与えるダメージが皆無だということも知っていた。自己満足だ。
せめてもの悪あがきに、直接的な言葉を叩きつける。言葉にはすべからく反応する筈だから。
「アンタがいると休めない。出て行け」
「暇ではないか?」
「アンタに相手してもらうくらいなら壁と話す。出て行け」
「壁よりは気の利いた相槌が打てると請合うぞ」
「アンタよりは壁の方が気が合う。出て行け」
「無機物とか?」
「アンタの温度はそれ以下だ。出て行け」
「言い返せないな。だが、お前の体調に関心を払うくらいの熱意ならばある」
「嘘吐きは出て行け」
「ならばお前も一緒に退室しなければならないが」
ああ言えばこう言う。
シーザーも屁理屈をこね回すのは得意だが、この男はその上を行く。
すう、と息を吸って、シーザーは低い声を出した。全く、喉が痛いというのに。
「出て行け、って今までお前に何回言った?」
「今の台詞に含まれているものも数えれば七度だ」
「……六回だろ?」
「俺が入室して開口一番に一度言っただろう」
アルベルトは唇に僅かな笑みを載せた。
「言葉には細心の注意を払え……まあ、熱のせいにしておいてやる」
「結構だ。何なんだよお前、何の用なんだ」
「何と言われてもな……見てわからないのか?」
視線で盆の上を指される。
シーザーは軽くかぶりをふった。食欲はなかった。
「そんなことじゃない。そんなの、マディがやってくれる事だろ……俺が聞きたいのは……」
軋む関節を感じながら、シーザーは上半身を起こした。見下ろされたままでは気圧される。
首を回してアルベルトと向き合うと、シーザーは目に力を込めた。
「……何が目的だ?俺が弱っている所に来て、何を考えている?」
「──」
「グラスランドの情勢なら、お前だって調査手段があるだろう。俺の個人的な知り合いの事なら、いくら問い詰められても言う気なんかないぜ」
軍師にとって情報とは、ある意味呼吸よりも大事なものだ。
より正確な、より役に立つ情報によって、策の立て方が幾通りにも増える。
「それともあれか?真の紋章の個々の力の詳細を聞き出そうとでも?ササライに聞きゃ良いだろう、同じくらいしか知らない」
暗緑色を睨みつけながら、シーザーは咳を押さえて一気に喋った。
弱みを見せてはいけない。利用されるから。この男の策に少しでも益になることなど、してやるものか。シーザーは皮肉げに唇を形作った。
「まさか珍しくおれに何か頼み事でもあるのか。生憎だが俺はお前のために指一本動かす気はないけどな」
こんな暴言を吐いても、瞳を揺らしもしない。
その態度がまた、更なる不快感を生むのに。シーザーは心の中で舌打ちをした。
「無駄なことは嫌いだろう。だから、出て行け」
「わかった」
八度目の台詞に、ようやくアルベルトは動いた。椅子を引き、優雅な動作で立ち上がる。
既に、今までの会話で彼の目的は果たされたのかもしれない。何かヒントになるようなことを言ったかとシーザーは発言を反芻してみた。
それを見透かしたように、アルベルトが言う。
「心配するな。俺はお前の様子を見に来ただけだ」
「……だから、何の為にだ?」
シーザーは疑心を濃くして、幾度目かの問いかけをした。
ドアに向かいかけたアルベルトが半分だけ振り返る。いつものように、いくつかのパターンの中から選んだ笑顔を載せて。
「お前が心配だから、と言ったら?大事だからと」
「……ハッ、ハハハ」
咳き込みながらシーザーは笑った。
アルベルトが?何の役にも立たないのに?単なる風邪の見舞いを?──無関心な人間に?
口元を拭って、下から呪いを込めてねめつける。
この男は──それが本心ならばけして口に出しはしないことを知っていた。
「……吐き気がする」
それは。
嘘だと、あまりにあからさまな嘘だとわかっていても胸を痛ませてしまうこの自分の愚かなまでの純情。
そしてそれを知っているくせに、知っているくせに平気な顔をして胸を抉る嘘を吐くこの男の非情さに対して。
誤魔化しの言葉だ。
それなのに、きっと自分はこの会話を何度も何度も反芻して、相手に何かを推測させるような事を言わなかったか、しなかったか、影響を与えられなかったか考えてしまう。何も、何もないことを期待しながら。
──そして本当に何も見つからなくても、自分は喜べはしない。それは、ただシーザーにわからないだけかもしれないので。
何か計算があるに違いないのだから。気まぐれさえ、きっとこの男には起こりえない筈だ。
誤魔化しの、上辺だけの──言葉だろう?全てが。
自分が、あの女に与えたくらい気のない台詞。この男の単なる、道具としての音。
なのに、それが本当だったら良いのにと思ってしまう自分の感傷に唾棄したい。不感症に、なれるものならばなってしまいたい。
たった一行で、振り回される滑稽さ。
本気でそう思っているのなら、そう信じて欲しいのなら、傷ついた顔をして無言で部屋を出て行ってくれれば良かったのに。
それなら、もっともらしくそう思わせられただろう?
言葉は──アルベルトの武器だ。武器を向けるのは敵。
その事実だけが全てだった。懐柔されたくはない。
出て行け。
シーザーは額に手をやり、俯いて拳を握り締めた。
何本か前髪が抜けた痛みが、こみ上げる罵倒の言葉を押し留める。
それで良い。醜態を晒したくはない。軍師に嘘吐き、などと。褒め言葉にしかならない。
信じて馬鹿みたいに浮かれる方が楽なのは知っている。
何故こんなに意固地になるのかわからない。
本当は何処かで気付いているのかも知れない。
けれど、信じられないという痛みと、信じて貰えないという痛みが釣り合っていなければ、あまりにも不公平じゃないか。
ぱたん、と扉が閉まった。
「……」
少し眠ろうと、体をひねって枕に頭を乗せる。
デスクの上に広げて干してある本が目に入った。あれは、アルベルトの本棚から抜き取ったものだ。
それに対して何も言われなかったことに、シーザーは今気付いた。
相手の卑怯さに、少し泣きたくなった。