悲願は尽きた。

一度でも幻想が破れてしまえば、『アルベルト・シルバーバーグ』には、もう殺される以外の価値はない。全知全能の幻が、手のひらを擦り抜ける。
騙せなかったのか。

ゆるり、とアルベルトは足を動かした。

テラス。
白い手すり。
空はすぐそこにある。

これは逃避なのだろうかとアルベルトは思った。
けれどもう名前すらない男。墓すら作れない男は他に何をすれば良いのか、わからないのだ。『アルベルト・シルバーバーグ』なら、わかっただろうか。
アルベルトの生は、本当に、ただ──この血のためだけにあったのだから。睡眠をとること、物を食べること、呼吸をすること、歩くこと、会話すること、学ぶこと、陥れること、騙すこと、殺すこと、今まで行ってきたこと全て。死ぬことでさえ悲願のため。

シーザーはアルベルトを殺した。
その存在意義を、根元から折り取ってしまった。

「──」

アルベルトが女なら、子どもなら、軍師でなかったら、あるいは──ただの人間だったなら、身も世もなく泣き喚くか、或いは虚無のうちに崩れ落ちていただろう。
けれど仮面しかない顔の上には、涙すら上手く流れなかった。

絶望とは、悩み、苦しみ、痛みの中のた打ち回ることではなかった。
全てが無くなる事だった。

「…………」

縋るように手すりに手を掛けた瞬間、ぐいと後ろに引かれる感触がした。
アルベルトの足はそれより先に進めなかった。白いコートの裾を掴む、赤黒く汚れた手の為に。

振りかえれば、歪んだ緑の瞳が見えた。
どろどろになった赤毛が、すぐ傍にある。あの頃の目線ではなく、見上げる瞳もなかった。どちらかといえばその反対だった。
シーザーはもう、アルベルトに願い事などしないのだろう。

アルベルトは、ひとつだけシーザーに言うべきことを思い付いた。今更だが、そう言っておきたいと初めて思った。

「すまない」

俺はお前を苦しめた。








「……なんだよ、それ」

シーザーは奇妙な顔で笑った。

「全部お前の責任なのか?俺がしたことも?お前、全然わかってないよ。何で俺がここに居ると思ってるんだよ?お前の意図に従ってここに立ってるのか?俺って全然自由意志のないお前のお人形な訳?自惚れるな……」

シーザーはアルベルトのコートの裾を掴んだまま、掠れた声を捻り出した。

「俺はお前の歩いた後を追っかけて来たんじゃねえぞ……!」

シーザーが命を賭けたのは何故か、アルベルトには出来ない事を、してみせたのは何故か、アルベルトにはまだわからない。
シーザーは──


「俺は、お前を追っかけて来たんだよ」


そう言った。
伸びた背、低くなった声、陰りを覚えた目、その全てで。

「だから、お前の行き先なんて変えてやる」
「────」

「でなかったら、お前と、ここで、死んでやる」

何て事を言うのだ。死ぬなどと。
アルベルトは、シーザーがここまで愚かだとは思っていなかった。シーザーが見ているのは遠い日の幻影だ、それがわからないのか。
シーザーが思うようなアルベルトは、本当はどこにもいなかったのに。それなのに、まだ引き止めるのか。
全知でも全能でもないばかりか、決定的な過ちを犯し、繕う術も無い──アルベルトではない男を。

「俺を置いていくなんて許さない」
「シーザー、」
「この手を、絶対離さない……!」

力のこもった指先は白くなっている筈だった。赤く汚れたその下にも、変わらないものがまだあるなら、そうである筈で。
シーザーは叫んだ。

「帰ろうよ……!!」

そう出来ないことを、アルベルトはとっくに知っていた。
今更、何処へ帰る。家は捨てた。国も捨てた。縁も、情も、黒い影すら、何もかもこの手には残っていない。
虚無だ。

だから、アルベルトは冷静に言った。

「お前と共にはいけない」
「ふざけんな。アルベルト、帰るんだ……だって、そうじゃなきゃ」

シーザーの視線に、僅かにアルベルトは何かを感じた。悪寒かも知れない。昏く、深い、何か恐ろしいもののような気がした。

俺が可哀想だ。──お前を追いかけてくるために、俺は何でもしたのに。しちゃったのに」

へらり、と唇を歪めてシーザーは笑った。

「殺したのは、敵だけじゃない。しかも、理想とか、正義とか、そういうものの為じゃなく、ただ、俺の為に、俺の勝手な願望の為に」


「俺を好きだって言ってくれた人さえ、騙して、利用したよ……」


その言葉に、アルベルトは全てを悟った。


「俺は地獄に落ちるよ、なあ……俺は」

シーザーには見抜かれていた。素っ気無いふりで、隠していた筈の意図。
アルベルトが、シーザーだけは殺せないこと。シーザーだけは──逃がしてやれないこと。何を奪っても。

「地獄に落ちたいよ。お前と一緒ならそれでも良い」

だからシーザーは試したのだ。アルベルトの執着を。
戦争から逃げたあの時、恋人と連れ立って逃げたあの時、あのまま、何処か遠くで安穏とした生を送る気などなかったのだ。
ぞっとする、こんな酷薄さ──残酷さを、彼はいつ身につけたのだろうか。

「俺は嬉しかった」

シーザーは歪んでいた。そのまま笑った。

「お前が俺を引き止めたから。お前の世界から立ち去る振りをしたら、お前が俺を引き止めたから」
「────」

「誰が死んでも、俺は嬉しかったんだ」

おそらく、狂っている。
己を愛する者すら、利用して死なせた男──もうシーザーは、アルベルトと同じく狂っている。
目的の為に手段を正当化する狂気。

しかし、罪を背負った彼を慰めるすべをアルベルトは持たなかったし、そのつもりもなかった。


「兵を殺した。敵を殺した。マリーを殺した。俺の心だって、殺した。辛かった。死ぬかと思った。でも俺は勝った!」

シーザーの声が震えている。

「だから、お前くらい帰して貰ってもいいだろ……」

シーザーは僅か縋るような調子を滲ませて、こう言った。とても自分勝手で、傲慢な台詞。

「世界なんてどうでもいいよ。捨てろよ。なんでお前がそんな何でもかんでもやんなきゃいけないんだよ。歴史とか、お前に背負える訳ないんだよ、馬鹿。お前なんか何にも出来ないんだ。俺は賭けに勝ったんだ。お前は、俺を殺せないんだ。だから俺には負けるんだよ。もう知ってる、全部わかってる。お前には何も残ってない、野望も、悲願も、力も、名声も!だから……」


「だから、帰ろう」



俺にだってもう、お前しか残ってないんだ。








アルベルトは、無言で首を横に振った。

シーザーは、この道を歩いていくべきなのだ。独り、そんな事は問題にもならない。全てを見据えて、高みへと。
アルベルトの為に踏み外すなど、許されない。今になっても、そんな要求を、アルベルトは認容できない。



永遠に時が止まったかのように思えた次の瞬間、ぼろり、とシーザーの目から、大粒の雫が溢れた。
目を疑う間もなく、二粒、三粒。
けれど、シーザーの表情にはもう殊勝な懇願の欠片もなかった。

彼は目を剥いて怒っていた。

「────」

──唐突にアルベルトは理解した。

そこに立っているのは、シーザーだった。付け加えるなら、それは彼がアルベルトの本を汚して謝りに来た癖逆に憤慨して帰っていった時のシーザーとそのまま同じだった。
成長した、やや陰のある男や、あるいは駆け引きに長けた策士の印象など何処にも無かった。精一杯の虚勢すら易々と見抜けた。

泣きながら、それでもアルベルトを睨んでくる存在。アルベルトのコートの裾を掴む手は大きくなったけれど、変化といったら本当はそれくらいなのだろう。その乱雑な、駆け引きの無い荒削りな表情は、幼いとさえ言えそうだった。

仮面が剥がれれば、結局こんなものなのか。僅か畏れを感じたアルベルトが間抜けなのか、アルベルトですら騙していたシーザーを褒めるべきか。それとも、自分でも演技をしているつもりはなかったか。
けれど今は違う。

とても近い。あるいは、とても遠い。どちらにしろ、それはシーザーで、憤慨していて、今にもアルベルトを殴りつけてきそうだった。

頬を伝う涙が乾いた血を溶かし、まだらになってそれはそれは汚らしい。
シーザーは、そのまま、乱暴にアルベルトのコートの裾を放した。投げ捨てる、と言って良い態度だった。

「!」

その事に驚く前に、シーザーが身を翻し、おそらくあまり発達しなかっただろう運動神経を駆使して手すりによじ登った時、アルベルトは心臓が止まるかと思った。
シーザー、降りなさい、と、柄にもない口調で言いかけたくらいだ。けれどアルベルトがそんな恥を晒す前に、シーザーはぐらぐらと危なっかしく立ちあがりながら、アルベルトを振り返った。
──シーザーが、アルベルトに振り返った。

その時、また唐突にアルベルトは思った。
そう、シーザーには、アルベルトが折角懇切丁寧に作り上げたお膳立てや、偶像や、あるいは理想など、無駄だったのだ。その先の道を──自分で選んでいたのだ。そう言った。
自分を──この自分を、追いかけてきたと。
もっと、ずっと前からそうだったのだ。

アルベルトはとんだ道化だった。馬鹿馬鹿しすぎて、本当にアルベルトは積極的に死んでしまいたくなった。思い描いていた簡潔な幕引きとは程遠い。いきなり、ただの兄弟喧嘩にまで落ちこんだ現状に呆然としてもいいのか──それとも、初めからずっと、そんな下らないものだったのか。これだけ大掛かりなことを引き起こし、歴史を作り変えまでして?

「じゃあこう聞いてやるよ。これならお前にもわかりやすいだろ」

がくがくと恐怖に足を竦ませながら、下界からの風に髪を嬲らせながら、何ともアンバランスに成長した男は胸を張って叫んだ。風に涙を散らせながら、目には強い光。



「お前は、俺と爺さんと、どっちを選ぶんだよ!答えろ!!」



駄々を捏ね、癇癪を起こしている──認めたくないことだが、全く進歩の無い弟。
止めには、全く取引になっていない台詞まで飛び出てきた。



「俺って言わなかったら死んでやる!」


アルベルトは耐え切れずに、目を閉じた。

なんて我侭だ。歴史の流れとお前一人と、同じ天秤にかけようというのか。
そんな卑怯な二択があってたまるものか。考えるまでも無いじゃないか。
全く呆れる。


幾千万の不幸と死骸を踏み越えて、それでも俺は──
この命を、選んでしまう。













二歩、三歩とアルベルトは歩いた。
近づく、朱の混じった色の髪。青い空に映える。血の色ではなく、緋の色ではなく、もっと明るい。

「……それでも俺は、帰れな、」

死山血河の上に立ち、今更過去には。人の命と、人生とを策謀に費やして、その結末が幸福だなどと。そんな道理があるものか。
そう、無為に流れた血の代償、因果と理由を求める為、言葉を武器にする人殺しが言いかけた台詞は不自然に途切れた。

シーザーが、途轍もなく自然な動作で、途方もなく速やかにアルベルトの口を塞いで。
こう、言ったので。


「……黙ってろ」


ああ、本当に。
こんなに見事に突き崩されたのは、初めてだった。