喪失に痛みなど感じる訳もないが、こんな時には僅かばかり、感傷に浸っても良いのかも知れない。
そうは思ったものの、アルベルトには出来なかった。感情など、動かそうと思って動かすものではないのだろう。
下界の喧騒はすぐそこまで迫っていたが、アルベルトは白い石の手すりに手をかけて、空を見ていた。
白々しいほど明るい空。
憬れなど抱いてはいない。けれど、手の届かないものというのはアルベルトには貴重に見えている。あるいは、憎く。
手が届かないものがあるからこそ、アルベルトに生きる意味が残り、手が届かないからこそ、アルベルトに無力さを感じさせる。けれど、アルベルトが好もうが厭おうが、それが何だというのだろう。
所詮、アルベルトは人間だ。死ぬ定めも生きる定めも、別れる定めも変えることなど出来ない。
だが騙してみせよう。それが出来ると。
世界を見渡して、傲慢に。
人の手で調律し得るものがあると──信じる、そうでなければ。
この世の何処に、意味があるのだ。
意味がなければ、生まれ出る事さえ善しとは出来ない。死ぬ事すら怖れられない。
無意味こそ、アルベルトが最も忌避するものだ。悲願の為に存在するアルベルト、己の存在より先に己の宿命を知ったアルベルトには。
「──アルベルト」
呼ばれた名に、アルベルトは僅か微笑んだ。
既に周囲の兵士は投降させている、無駄に流れる血は好まない。そして軍主も今はもう捕らえられたか殺されたか、アルベルトには関係がない。偽りの主に対し、罪悪感を感じることすらない。
「アルベルト」
アルベルトはゆっくりと振り返った。
ああ、この時を待っていたのだ。他の全てを、世界の全てを、己自身を、そして彼すら利用して。
──我が君。
それは、おそらく、彼にではなく。
彼の背の向こう側に見える、空よりも遠い景色に対しての呼びかけ。
最後にこうやって二人で向き合ってから、もうどれくらいの年月が経過したか。
アルベルトの知るシーザーではなく、随分変容した男がそこに居た。少年ではなく、青年でも──今はないだろう。抜き身の剣に、血糊を貼り付けて佇んでいるのでは。
少年と青年の中間に居た不安定な存在は今、確固とした目的を持って立っている。独りで。
そう、今のアルベルトを殺すのに、シーザーはひとりで充分だった。余計なものは要らない、剣とそれを振るう腕がひとつあれば。
その若草色の瞳が、昔のように澄んでいない事に、アルベルトが何かを思うことは許されない。
兜は脱ぎ捨てたか、ひょろりとした痩身、猫背に甲冑姿が恐ろしく似合っていなかった。
「…………」
挨拶など、この上交わす必要性をアルベルトは感じない。久しい、その事実が一体何だ?何の意味もない。無言で、アルベルトはシーザーを見詰めていた。
アルベルトは贖罪者であるつもりはなかった。だが、シーザーは断罪者だ。それで良い。
アルベルトは既に、シーザーの兄ではない。
縁を切り、縋る腕を突き放し、今まで一度として──そう、この瞬間まで振り返りもせず、それどころか、肉親の情を盾に血で汚れた修羅の道に誘いこみ。その道の果てを見ることを強要し。
そして、恋人さえも殺した。
全て承知してそれを行ったアルベルトは今更そのどれを責められても揺らぎはしない。だが、シーザーには糾弾する権利があるだろう。
ふ、とシーザーが、快活とはとても言えない笑みを口元に載せた。
「俺の勝ちだ。アルベルト」
「────」
「はは、ははは……長かった」
喉を鳴らす猫のように満足げに笑いながら、シーザーは歩みを進めた。
「なあ、長かったよ、アルベルト。ここまで来るのは」
頬にこびりついた血と、己の赤い髪を爪で剥がしながら、せせら笑う顔。
このように精神が不安定なのは今だけだろう、と、アルベルトは冷静に分析する。
アルベルトを殺した後、憤りを向ける相手がいなくなっても、兄殺しの呪いを背負い、宿命から抜け出せなくなっても──シーザーはこの世界を見捨てない。何故なら、彼は愛されて育ったからだ。
幼少時に形成されるべき無垢な信頼と、情。その詳細な記憶は抜け落ちても、植え付けられた種は取り除けはしない。
だからシーザーは人を愛する事が出来る。世界を愛する事が。
それすらも自分の策略だいう事は、彼の不幸だ。だが、気付かないで良い。
幼い日に、自分が彼の手を引いて歩いた道が、既に定められたものだったとは。抱き上げた手も、髪を撫でた手も、諭した言葉も、叱った言葉も褒めた言葉も全て、計算だったとは知らないで良い。
優しく教えて惑わせた。酷いことをして恨ませた。
シーザーのためではない。全て、この名の望む悲願のため。愛でさえ、憎悪でさえ。
けれど、せめてその事実を知らないでくれと思うのは、アルベルトには許されないだろうか。
アルベルトは憎憎しげな表情を作って見せた。そして、僅かに語調を荒げる。
演技に殊更情熱を注いだつもりは無いが、退屈で死にそうになるほどに繰り返していれば、それはもう本物よりももっともらしい。
緊張に強張った声を出す。
「まさか……お前に邪魔されるとはな」
「俺なんか、眼中にもなかったか?」
危険な笑みをたたえたまま、シーザーはまた歩を進めた。
見せびらかすように剣を掲げて見せる。
「優秀なオニイサマとは違って、俺は頭一辺倒じゃやってけないんでね。肉体労働だってするさ」
「頭が自ら危険な任務に参じるとは愚の骨頂……何を考えている、シーザー」
「負け惜しみか、アルベルト?気に入りの駒も近くに居ないみたいだけど……人望ないな、正軍師殿」
「くっ」
アルベルトは掲げられた剣を厭う振りをして僅かに後ろに下がった。
一歩。すぐに腰のあたりに、テラスの手すりが触れる。
思えばずっと、アルベルトはずっと、生まれた時から演技をして来た。
呼吸をした回数と人を騙した回数、どちらが多いのだろう?仕える主ですら騙したまま、アルベルトは生を終える。
「往生際が悪いぜ」
「──俺は果たすべき願いがある。お前のように、下らぬ私事に命は賭けられない」
「下らない、か……お前に取っちゃ、下らないのか」
シーザーは笑みを消した。既に目線も変わらない位置にある、ぞっとするような無表情。
その脇をすり抜けて、アルベルトは逃げようとした。そうして見せた。
身体を抑えようと反射的に伸びてくる手に、隠し持っていた小さなナイフで切り掛かる。シーザーから見えないように、アルベルトは軽く笑った。
演技だとしても、仮にも軍師が、こんなものを振りまわすとは。駒を使わずに、己で動くとは。
けれど最後には、そんな無様さも良い。
アルベルトが本気で、必死に生きたいと思えたのなら、こんな結末は選んでいなかったのだが。
「──っ!」
ぱ、と鮮血が白い石の上に落ちた。
まだ、手の甲を軽く傷付けただけだ。
シーザーの喉首を切り裂こうとする振りをして、刃を振りかぶる。隙だらけなことは承知しているが、シーザーにそれを見破る余裕は無いだろう。結局、戦うようには出来ていないのだ、自分も彼も。
アルベルトを止める為、シーザーはアルベルトを斬らなければならない。
理由を、やろう。何もかも全てに、理由を用意してやろう。
何かの為に捧げられる花は、おそらく幸福なのだと──そんな純粋な祈りだとて、身を赤く染める理由になるのだから。
だからアルベルトには、迷う必要も、躊躇う必要も、なかった。
自分の名を呼ぶ声に応じる必要も。
「アルベルト」
からん、と剣が落ちた。
鮮血がシーザーの服を染める。
アルベルトはそれを見ながら、一歩、身を引いた。
そうして、アルベルトの身が崩れ落ちる。そう望み、そう思い描いていた──
その筈なのに。
そうではない。
何故だ?
長い沈黙があり、その後、ようやくアルベルトは口を開いた。跪いたままのシーザーが、それ以上動かないことを知らされて。
「シーザー。何故。抵抗しない。俺を、殺さない」
アルベルトは、血で染まった刃を握ったまま、小さく問いかけた。
肩を押さえて無防備に蹲る弟に、硬質な声を落とす。その手から取り落とされた剣は、アルベルトにとって許しがたい過ちだった。
アルベルトに殺されるところだったのに、何故──アルベルトを、斬らない?恋人の仇を、取らない?
「此処までしたんだぞ。何故俺を殺さないんだ」
「──」
「何の為に、お前は命を賭けたんだ」
この上、兄と慕うなど馬鹿げている。アルベルトは一度も、シーザーを愛しんだ事はないのに。全て虚構だったのに。そう言ってやれば、彼は動くだろうか。そして──
復讐を果せば良い。
首を取り、凱歌を上げれば良い。
更なる名声を手に入れれば良い。
好きなように国を作りかえれば良い。
理想を──追えば、それで良かったのに。
何故そうしない。そうしなければ無意味なのに。
わからないことなんて、ない。
ないと思いたかった。
アルベルトは、自分の限界というものを悟っていたつもりだった。
だが、それは此処ではなく、もっと別の場所にある筈だった。
愕然として──多分、生まれて初めての事──彼は突然目の前に現れた真っ黒な裂け目、その絶望というものを覗いた。
今までは、その中で無限に落下しながらまどろみたゆたって、夢想を描いているつもりだったのに、アルベルトは目覚めてしまった。
そして今、たった今、崖のふちに立っている自分に気付いたのだ。
此処で──此処まで来た、此処で。
シーザーが思い通りになってくれないということは、アルベルトにとって、自己の存在理由すら突き崩す衝撃だった。
「何故だ……?」
それでもシーザーは動かない。その意志を変えられない事を、アルベルトは理解し戸惑う。
今まで崩れたことのない口元から出た声が、小さく震えていた。これは、それ程致命的な過ちだった。
シーザーが、アルベルトの願った通りの道を、踏み外した。
何故なのだ?
彼は王になれるのに。世界を見渡せるのに。自分の屍を踏み台にして、更なる境地に至れる筈なのに。
何故、そこで止めてしまうのだ?
シーザーが口にした答は、アルベルトが望むものではなかった。
「俺は──」
乾いた、乾ききってひび割れた声。水を求めてさ迷う旅人のような、しゃがれた声。
そんな声が下から這い上がり、アルベルトを絡め取る。
「俺が殺したかったのは、アルベルトだ」
シーザーは、強く意志を持ってアルベルトを睨んだ。
「お前じゃない」
理不尽だと、初めてアルベルトは思う。
わからなかった。いくら考えても、わからない気がした。こんな事は初めてだ。何故こんなことが起こる。
シーザーがアルベルトを排除してくれないなんて。
それでは、何の為に、アルベルトは生きてきたのだろう?
何の為に、血縁すら陥れ、一国の盛衰を操り、幾千万の敵の死骸を作り上げた。
何の為に?
アルベルトは苦鳴をあげる。ある罪が、彼の背骨を歪ませるほどの重さで圧し掛かってきたが故に。
それは、今まで、自分がしてきたこと、今まで、自分が考えてきたこと、そして今までの自分全てが──
「軍師なんて、糞食らえだ。俺はもう、そんなモンじゃない。お前が何をしようがもう、そんなモンには──ならない」
無駄だったという事実。
それどころか。そうだ、それどころか。
アルベルトは絶望の淵に屈み込む。そして手を伸ばす。
「俺は……お前を」
新緑の色の瞳に映る自分の姿は、いつも通りだった。声ももはや、震えてはいない。
こんなにも揺らいでいるというのにいつも通りで、アルベルトはそんな自身に苛立ちを覚えた。そして過去に自分と相対した者の気分を、知るのではなく初めて理解した──ああ、こんな気持ちだったのかと。
「苦しめて」
その行いが害悪だったと、そのことに衝撃を受けたのではなかった。
身勝手なのは百も承知だった。知りながら、行っていたのだ。そうではなく──
「それだけだったのか」
それが完全に無意味だった事に、そして完璧に無駄だった事に、アルベルトは心底傷ついた。
この血の流れる先、アルベルトの野望は、今断絶されたのだ。
そして、宿命を果せぬ男は、もうアルベルトではない。
伸ばした手が、血と泥に汚れた相手の頬に触れる。
触れさせてくれた事が、奇跡だと思った。この、何もかもが自分の思い通りになると過信した、滑稽ないきものに。
この頃には、アルベルトが知りたいことはたったひとつに纏まっていた。
全ての絶望は、収束して胸に落ちる。
シーザーに、答えて欲しかった。
どれだけ後悔すれば、何か取り返しがつくのか。
正答をアルベルトは知っていたけれど。