「跪いて俺に懇願するか?アルベルト。奴を何処かへ連れ出せと」

ユーバーは静かな気分でそう言った。
アルベルトがけしてそうしないと言う事を理解していながら、嬲る為だけに言ったのだ。

アルベルトが折れないのは、プライドという問題ではない。
そうした瞬間悪鬼がアルベルトを見限り、シーザーを連れて来て目の前で首を刎ねる位の事はしかねないと知っているからだ。
その理解ゆえに、アルベルトはユーバーに助けを求める事が出来ない。

「…………」

アルベルトは答えず、眼下に広がる戦場に向き直った。
けれどどれだけ目を凝らしても、シーザーの姿は見えないだろう。例えアルベルトが、人として最大限の能力を持っていたとしても──兵を退き、道を開ける以外に、雑兵に紛れたシーザーを救う術はない。けれどそうしてしまえば、アルベルトは敗北するのだ。
赤い髪が揺れる。

「……愚かな弟でした」

過去形を使って、アルベルトはそう呟いた。
伝令兵は呼ばず、指示を出す様子も見せない。彼の弟が、死んでしまうと知っていて──勝利を選ぶのか?

「私の事など、放っておけば良かったのに」
「──自分でそう仕向けておいて、よく言う」

アルベルトを観察しながら、ユーバーは淡々と揶揄った。

「彼奴の恋人を殺したのは、確か貴様の兵ではなかったか?」
「そうです」

間髪入れずに返って来る答。
全て理解していてやることに、後悔はおそらくないのだろう。

「ユーバー、東洋に、こんな物語があるのを知っていますか」
「……無駄話をしている時間があるのか?」
「主君の為に我が子を殺す母の話です」

アルベルトは今度はユーバーの問いを流した。
風に揺れているのは赤い髪だけ、戦の喧騒すら遠い此処で、アルベルトは何を殺そうとしているのか。

「命を狙われている主君の食事の毒見を、我が子にさせる母の話です」

ユーバーにはわからない話だ。
悪鬼には所詮、自分の快楽、欲求以上に優先するものなどないのだから。誰かの為に自我を殺すなど、理解出来ない。

「子が死んだなら、政敵の企みを暴ける。母に褒められたさに、言われた通りに毒を食らった我が子、その為に殺された我が子の屍を冷たく見下ろすその母は──人目が絶えた瞬間、」
「────」
良くぞ死んでくれたと、初めて褒める」

そうしてアルベルトは、歌うように口にした。

「『三千世界に、子を持つ親の心は皆一つ』」
「────」
「『子の可愛さに毒な物、喰ふなと云ふて叱るのに──毒と見えたら試みて、死んで死んで死んで、死んでくれいと云ふ様な、胴欲非道な母親が、またと一人あるものか』……」

ユーバーは暗がりから抜け出ると、日差しの中で震えもしない白い肩を掴んで振り向かせた。
コートのポケットに手を入れるのはアルベルトの癖。その手首を取って、ぐいと引き摺り出す。見えない所で握り締められていた指が、途端に解けた。
その指先を包む黒く薄い布地を、ユーバーは取り去り、肌を晒させる。

「、」

僅かな抵抗など、ユーバーにとってはないと同じだ。
けれど、無駄と知っている筈のアルベルトが、それでも抵抗したと言う事実が気分を高揚させる。

「貴様がいつも手袋をしているのは、これを隠す為か?」
「────」

短く切り揃えられた爪と、それにも関わらず、掌に深々と残る爪跡。
今ついたものだけではない。何十にも重ねられて、その部分だけ皮膚が白く硬くなっている。
そこに軽く唇を落とした後、ユーバーは歯を立てて肌を破いた。溢れる赤い血が、爪の痕跡を覆う。

「愚かだな、アルベルト。愛しいのだろう。弟なのだろう。ならば、救えば良い──その悲願とやらが、貴様に何をしてくれる」
「……悪鬼の言葉とも思えない」

アルベルトは微笑んだ。

「私を哀れんでいるのですか?」

そして、酷薄な言葉を紡いだ。

「私が、血縁の死に涙するような殊勝な人間に見えますか?ユーバー、貴方は勘違いをしている」
「何をだ」
「私は喜んでいるのです」

暗緑色の目は、半ば瞼に覆われている。
眠たげな瞳で、アルベルトが見ているのはいつも己の業だ。

「シーザーが此処で死ぬなら、それは彼奴がその名に見合う器ではないと言う事だ」
「──」
「歴史の果てを見るのは私です。喜ばない筈がない──」
「──アルベルト」

ユーバーはアルベルトの頬を軽く張り飛ばした。手加減は勿論している──弱弱しい蟻を、潰さないように拾い上げる繊細さで。
遠巻きにしていた兵士が流石にざわめいたのを、口元を切ったアルベルト自身が制した。完全に退出するように指示する。

ユーバーは冷めた口調で言った。

「貴様が嘘しか吐けないのは知っているが、見苦しい」
「──」
「そう言えば、俺があの餓鬼を救いに行くとでも思っているのか」

そんな足掻きでユーバーは誤魔化されはしない。
選ばせるつもりだ、何処までも。舌先三寸で切り抜ける事など許さない。
例えその選択が、アルベルトにどれ程の痛みを与えようとも、ユーバーは容赦などしない。

「──否」

アルベルトはふらつく足を堪えると、背を手すりに預け、ユーバーを見上げた。
切れた唇を拭いもしない、その目はやはり静かだった。



「貴方が行く必要は、ない」



その直後、下方から大きな歓声が上がった。
ユーバーは僅かに驚愕し、視線を走らせた──東門が、破られている。



状況が、瞬く間に反転する。
アルベルトの嘆きの意味も、簡単に消え去る。握り締めた拳さえ──演技だったとすれば。ユーバーに、錯覚させておく為の!

アルベルトが、小さく声を立てて朗らかに笑った。本当に面白そうに、悪戯が成功した子どものように。

「──貴方のそんな顔は、初めて見ました」
「アルベルト……!」
「ユーバー。貴方は、私を道連れにしたかったのでしょうね。その執着は──」

嬉しかった、と。

そうやって、アルベルトはまた、嘘を吐いた。血に濡れた己の掌を引き戻し、その上に口付けながら。
ユーバーが僅かに驚きの色を見せたのが、アルベルトには本当に面白かっただろうか?いや、この男にとってはどんな事も、きっと新鮮ではない。

「私に、兵を引き戻す指示など与えさせるつもりはなかったでしょう」
「──」
「私を折れさせておいて、彼奴を選ばせておいて、その上で──」


「笑いながら、シーザーを殺してしまうつもりだったでしょう?悪鬼」


似合わない粗野な仕草で、アルベルトは口中の血を吐き出した。
静謐だった筈のアルベルトの周囲にまで、戦の剣戟が上ってくる。

何処までが嘘なのか、先程まで見切っていた筈のそれをユーバーは見失った。

「貴方が来る前に、要所の私兵は既に退かせている。……私も見縊られたものだ、正軍師の不在など、指揮を見ればわかってしまうのに」
「……アルベルト。死ぬ気か」

アルベルトは、別の言い方で答えた。

「貴方が認めさせたかった事を、今認めても良い」






「……彼奴が私の王です」


この血の、後継者だ。






そしてアルベルトはまた、嬉しげに笑った。
おそらくアルベルトは、その一生をかけて、この瞬間を待っていたのだろう。
──敗北を選べる瞬間を。

「けれど全く、酷い兄でしょう?己の弟を、血に染まる地獄に突き落として哂うとは。苦しむ事を、傷付く事を、泣く事を理解して、それでも世界を見渡す事を強要するとは──そしてその先を、見守りもしないとは」

アルベルトはそう続けた。
そして、ユーバーの頬に手を伸ばす。

「──」

触れようとしたそれを、ユーバーは身を退く事で避けた。
アルベルトは固執せず、そのまま腕を落とした。指先から滴る赤い雫が、白い石のテラスを汚す。

「……怒りましたか」

笑みを消して静かに問う男に、ユーバーが返す言葉はひとつだ。

「──怒って欲しかったか」

問いを問いで返す卑怯さなど、今更取り上げることでもない。
アルベルトは黙した。

ユーバーは、己の足元に金色の漣を広げた。
必要とされないなら、悪鬼が此処にいる意味はない。また何か、別のものを見出すだけだ。こんな事は、ユーバーは何度も繰り返して来た。
だからすぐ、きっと、忘れてしまえるだろう。
激昂は遠かった。何万年も在る巨岩、広大な砂漠と同じ──この心を揺らすものなど、きっとなかったのだ。

けれどらしくなく、消え去る前にユーバーは言葉を残した。

「アルベルト。貴様の想像は、間違っていたぞ」

アルベルトを踏みにじり、その前でシーザーを殺して見せる。
ユーバーが、そんな夢想に興を覚えなかった訳ではない。だが、一瞬の快楽は、この胸を満たさず擦り抜けるだろう。
だからユーバーは、そうはしなかった筈だ。

「貴様が兵を退かせる指示をしても、俺は止めなかった」
「…………」
「ただ、」


「貴様を連れて、逃げてやろうと思っていた」


僅かにアルベルトの肩が動いた事に満足し、ユーバーは爪先から金色の闇に潜り込み始めた。山高帽を深く被り直す。
結局ユーバーは、アルベルトが何を選ぶかは知っていたのだ。だから怒る必要はない。アルベルトを殺す必要は。

──その命の使い道、捧げる相手は、既に決まっていたのだから、見苦しく駄々を捏ねる事もない。

ユーバーには所詮、自分の快楽、欲求以上に優先するものなどないけれど。
ない筈だけれど、長く生きていれば、違う気分になる時もあるのだろう。

悲鳴と怒号が、すぐ近くに迫っている。
アルベルトはその雑音の中、唇を開いた。

「……最後ですから、本心を言いましょう」

ユーバーの輪郭が沈む。
足先、踝、膝、
腰、胸──

目を閉じ、


「──怒って欲しかった」



悪鬼は、まどろみの中に溶けた。