ユーバーは、砦のテラスに立って下界を見下ろすその後姿を、じっと眺めた。
赤い髪。白いコート。アルベルトは、いつも変わらない──錯覚してしまいそうだった。彼が何でも出来、そして──いつまでもそこに居ると。



アルベルトには砦があり、大勢の駒が(それも相手よりも多くの駒が)付き従っていた。
それでなくとも、負ける要素は皆無だ。
例え砦がなかろうが、大兵力がなかろうが、アルベルトが居るだけでシーザーは勝てない。王の名を持ちながら、王になる為の道を歩かされる彼には。
その彼の必死の、最後の策を、きっとアルベルトは微笑みすら浮かべて見下ろしている。血飛沫は届かない。喧騒すら、ここからは遠い。
戦場に居る癖、アルベルトの周りはいつも静かだった。僅かな伝令だけが、その傍に束の間立ち、また離れていく。

ユーバーは、足音を立てて動いた。けれど、アルベルトは振り向かなかった。

アルベルトに呼ばれているわけではない。いつからだろう、アルベルトがユーバーを使わなくなったのは?
鋭い刃をその手に携え、ユーバーは短い距離を歩いた。

問いかける。

「──読めているのか」
「シーザーの策ですか?」

振り向かないまま、アルベルトは答えた。

「細かなフェイクは入れていますが──西門に主力部隊を置いて一点突破を図る。と見せかけて、この砦を撤退する際に秘密裏に作っていた抜け道から工作兵を潜入させ──これは昨日までに待機させているのだと思いますが──東門の守りが薄くなったところを見計らい内側から開放。西門の兵が動く前に伏兵が砦内部に潜入、最短経路を通り迅速に将の首を取る。──確率が高いのはそんなものでしょう。向こうの利点は、この砦の内部構造に詳しい事位ですから」
「その抜け穴は、潰してあるのか?」
「いえ。大体の位置には兵を置いていますから──どうせなら、各個撃破が望ましい」
「ふん……道を塞いでおくより、囲んで叩き潰すのか。慈悲深いとはとても言えないな」
「シーザーはハルモニアから手を引く時期です。容赦はしないと見せ付けておくのも良い」

アルベルトはそこまで言うと、軽く肩を竦めた。
ユーバーは足を止めると、また問いかけた。

「他の策は予想していないのか?」
「一番確実なのは──」

確実と言うより確信しているような声音で、アルベルトは言った。

「貴方に私を殺させることでしょうね」

アルベルトは振り返ると、ユーバーと視線を合わせた。
鈍く輝く刃は、気にも留めないようだった。ユーバーが本気なら、元よりアルベルトが防げるものではないと知っているからか。

「私をこの砦に呼び寄せ、戦の始まったタイミングで始末。指揮の混乱を煽り、程々に戦って今日の所は退く。それも、悪くはない考えだ」

光を弾かない暗緑色の目。
明るい日差しを浴びていてもどこか影が覗くその瞳が、ユーバーを見ていた。動揺はない。アルベルトだからだ。

ユーバーは低く呟いた。

「貴様は、俺を信じているのか?弟よりも……貴様を選ぶと」
「いいえ」

何も、信じたり頼んだりする事はない。アルベルトは唇を笑みの形に歪めて、いつかも言った台詞を繰り返した。
近寄ってこようとした伝令を指先の動きだけで押し止め、追い払い、少しの時間を作り出す。

「私は、どちらでも構わない」

弟を選んでもか、ユーバーがそう口に出す前に、アルベルトは続けた。

「……これは、貴方を怒らせるのを承知で言いますが」

ふ、とアルベルトは力を抜いて、テラスの手すりに背を預けた。
ユーバーは、彼の言葉を待った。自分を怒らせるというのなら、それもまた一興。ユーバーにとっては、怒りすら貴重なのだ。気持ちが動くという事は。乾燥した砂地に、僅かにでも傷がつけられるというのなら。

「貴方が私を殺すなら、それは──シーザーに頼まれたからではない」
「では、何だと?」

アルベルトは、わざわざ真摯な口調で言ったように見えた。


「私に愛着を覚え始めているからだ」


ユーバーは答えなかった。
アルベルトは無表情のまま、暗がりの中に居る悪鬼を見詰めた。刃の切っ先だけが、日の当たる──アルベルトが居るテラスに、食み出ている。それ程に近い境界。

「……それ以外に、貴方に私を殺す理由はない」

アルベルトを憎むことがないのなら、アルベルトがただの、暇潰しの種なら。
悪鬼にとって、何程のものでもないのなら。

「珍しい蟻を、毛色の変わった雑草を、何故掻き消す必要が?退屈ですら死ねない貴方の暇潰しは、この兄弟喧嘩を長引かせる事くらいでしょう」
「────」
「シーザーで遊ぶのは構わない。私で遊ぶのも構わない──何も、支障はない筈だ」
「────」
「私が生きていた方が、遥かに楽しめる筈の貴方が、その道楽を放棄するとすれば、それは」

百年後を恐れるからだ。
百年後も、変わらずにある砂漠を。蟻も、雑草すらも、干からびて姿を消した砂漠を。その孤独に耐えるには、他の全てを価値のないものにしておくしかない。情を、未練を、覚えてしまえば──そしてその感情を理解してしまえば、ユーバーにもう後はない。突き崩されて本物の砂になるしか。

それを知って、アルベルトはわざわざ、そう宣告したのだろう。
いつまで経っても変わらないように見える青年は、穏やかに問いかけた。

「怒りましたか。この自惚れに」
「いや」

くくく、とユーバーは声を殺して笑った。
怒る事はない。怒ってみせる必要もない。

「……貴様にしては可愛げのある台詞だと思った。つまり、アルベルト──俺を怒らせると知って、そう言ったのなら」
「言ったのなら?」



「それは貴様が、俺に殺されたいという事だ」



執着は、何処にあるのか。



ひゅっ

ユーバーはアルベルトの喉を切り裂いた。

皮一枚だけ。アルベルトが、自分では見る事の出来ない傷。それは──いつから付いていたのか。気付かなければ、いつまでも痛みは感じない。

だが、今、気付いた筈だ。
この剣に付着した血を見た事で。

ユーバーは、限りなく優しい口調で言った。
アルベルトを殺す事は、アルベルトにとってなんら罰にはならない。死んでやっても良いと、本気でそう思っているだろう。シーザーに消えない傷を残せるから。そしてあるいはユーバーに、情を感じているから?

ここで死んでも、彼の計算は続いていく──現実が、数式のように美しく流れ続けるのなら。
その先を描いて、アルベルトは去っていく。終局すら、彼の勝利だ。

「……だが、甘く見るな」

ユーバーは笑った。
アルベルトを殺すのは、この刃ではない。死ではないのだ。

「貴様の思う通りに動くのももう飽きた。俺を利用させてはやらん」
「──」
「貴様に初めての選択肢を与えてやろう」

ユーバーは淡々と宣告した。

「勝利か、それとも終焉かではなく──勝利か、敗北かを選べ」

アルベルトの顔から笑みが消えた。
流石に、察しは良い。常人からすれば、奇跡にしか思えないだろうその頭脳。だが、神ではない。だから、無欠ではないのだ。

アルベルトに誤算があるとしたら、それはひとつだけだ。
見えない傷を──彼の弟を、見通していなかったということだ。


「シーザー・シルバーバーグは、抜け道を利用し、今この砦の中に居るだろう。その身を一平卒にまで落とし、剣を携え、揃いの鎧を身に纏い──名を捨てて。捕虜にすらする価値もない、雑兵だ」




「それで軍師殿──貴様の駒が奴を嬲り殺すまで、後何分ある計算だ?」