終わりが近付いている。

それは予感等といった大層なものではない。ただ見たままを表現しただけの事だ。そんな事を考えながら、ユーバーは闇に溶け込んでいた。
終焉。終局。そんな場面はユーバーは幾度となく見て来たので、特に感慨など抱かない。

屑や塵が、ユーバーには持ち得ない情熱のまま、泣き、喚き、怒り、呪い、そして死ぬ。
あるいは満足してか、死ぬ。

けれどユーバーは滅びない。永劫はあり得ずとも、限りなくそれに近い。
だから、風に紛れる屑や塵の気持ちなど理解する事はない。観察し、楽しむだけだ。

滅びの前に身を退く。そしてまた、次の理由を探しにいくのだろう。
面白いこと、興味深いこと、それを楽しむこと──あるいは存在を求められること。それがユーバーが在る理由になる。

今回の遊びの結末も、ユーバーにはわかっていた。
アルベルトが勝つ。少なくとも、戦にはアルベルトは勝つのだ。そして殆ど完璧に、勝負にも勝つ。
昇った日が必ず沈むのと同じだ。それ以外など有り得ない。

少しつまらないな、と。
ユーバーはそう感じた己に驚いた。何がつまらない?暇つぶしが終わる事が?それとも──アルベルトが勝ち続ける事が?

疑いのない事実というものが、つまらないのか。
それとも、あの自分より余程『人間以外』に近い人間が、泣き喚くところが見たいのか。
良くわからないな、そう思いながら、ユーバーは闇の中から浮かび上がった。影から立ち上がり、実体化する。

向こうから声が掛かるまで待とうと思っていたのだが、相手の顔を見た瞬間、思わずユーバーは問いかけてしまった。

「どうした、その無様な顔は」
「殴られた」

素っ気無い返事に、ユーバーは憮然とした。

「見ればわかる」
「なら聞くなよな」

脊椎反射を匂わせる答えを返しながら、シーザーは腫れ上がった頬を撫でた。
青黒く変色したその皮膚は、痛々しいというよりもグロテスクだ。

冷やしもしないまま放置したらしい。
誰かに見せ付ける為にそうしているのかと、勘繰ってしまうような見事な痕。

机の上に投げ出していた足を組みかえると、シーザーはようやくユーバーの疑問にきちんと答えた。

「我らが軍主様に、最終戦の為の策を献上した結果、こんな褒美を頂きました」
「……のうのうと、降伏しろとでも言ってやったのか?」

戦況を考えれば、おかしくはなかった。
革命勢力は追い詰められている。兵をかき集めての悪足掻き、次がおそらく最後の戦いになる──というのはつまり、結局は敗れるという事だが。勝利を前提としているならば、『最終』などという言葉は使うまい。

「いいや?降伏なんてさせないね」

赤毛の青年は、全く見当外れのことを聞いたような顔をした。
何のためらいもなく、千単位の人間の命を浪費するような発言をする。

「やっとここまで来たのに、止めてどうするんだ」
「……何?」
「俺が最終戦って言ったのは──俺にとって終わり、って事だよ。俺はアルベルトと戦う。勝っても負けても──俺にとっては最後の戦だ」
「貴様にとって、だと?」

シーザーは痣を歪めて笑った。

「俺かアルベルトか、どちらかが必ず死ぬ。そうしたらもう、俺は戦はしない。ほら、最終戦だろ?」

ユーバーは鼻で笑って、頷かなかった。そうはならないだろうと思ったからだ。
アルベルトが負けることは勿論想像出来なかったし、シーザーが負けても彼は死なないとユーバーは知っていた。弟を殺さずにいなす事などあの男には簡単なことだろう。勿論、シーザーが負ければ自ら死を選ぶというのなら話は別だが。

そんな些細な事はユーバーには興味が持てない。なので彼はそこで思考を止める。
その程度の事は、シーザーも当然わかっている筈なのに、と──悪鬼はそこまでは考えなかった。

シーザーは今度はいつものように、へにゃりと笑った。
二十歳はとうに過ぎた男の顔が幼くなる。

「降伏はしない。だから俺は、必ず勝てると踏んだ策を説明した──だが、あいつには気に入らなかったらしい。確かに、正気の沙汰じゃない提案だからな」
「なら、考え直すのか。主の気に入るようなものに」
「変えない。あれ以外では勝てない」

劣勢の革命軍、その軍師の地位にある青年は断言した。

「だけど……それを信じられるのは、そうわかっているのは俺一人だ。だがら、あいつが怒るのも無理ないのさ」
「貴様がいくら拘泥しても、採用されないのでは仕方なかろう」

アルベルトなら、いくらでも上手く誤魔化すだろうに。
ぼんやりとそう思いながら、ユーバーは長く垂らしたままの己の金髪の先を指で弄った。邪魔だから髪を編んで貰おうか、と、そんな事すら考えていた。

シーザーは片眉を上げて、冷やかすようにユーバーを見上げた。

「策は、呑んで貰ったさ。でなけりゃ、殴られ損だろ」
「何?」
「……結局のところ、信用されてるんだよ。何を言っても、何を断言しても──疑われない。軍師なら冥利に尽きる扱いだ」

シーザーは得意げに言って見せたつもりなのだろう。
けれどそれはどう見ても、『それが喜ばしい』と思っている者の顔ではなかった。

闇に似合う、昏い色の灯。その火に、何か大きめの羽虫が飛び込んだ。
じりりと音がしたが、それには誰も注意を払わない。気付いてはいるが、気にはしない。もがく虫は、瞬く間に焦げて縮まっていく。

「──例えば」

静寂が落ちかかった空間を切り裂いて、青年は唐突に、全く違う話を切り出した。

「例えば──ユーバー、毒を持った木があるとして」
「毒?」
「そう。その木が生えてると周りの草木は枯れてしまうような木」

シーザーはぼんやりと獣油のランプの火を見詰めた。
羽虫は既に、炭にもならずにどこかに消えてしまっている。

「でもその木には実が生るんだ。周囲の植物を全て枯らして、けれどその木は実をつける。毒の木の癖に」
「毒性は関係ないだろう」
「そりゃそうだ。でも何となく、理不尽じゃないか?」

シーザーは笑って続けた。

「更に理不尽な事がある。ユーバー、その実には毒はないんだよ」
「おかしいのか」
「おかしくはない。だけど、何となく割り切れなくないか?木は毒なのに、実は毒じゃない──触っても食っても平気だ。それどころか、万病に効く特効薬だとしたら?瀕死の病人だって、一口で起き上がって体操出来る位の、奇跡の薬だとしたら?皆がありがたがって欲しがるような実だとしたら?」
「……だったら、どうだと言うんだ?」
「どう思うか聞きたいんだよ、ユーバー。良く考えてくれ。その実をお前はどうする?」

どうする、と問われても、ユーバーはその件について真剣に考える気はなかった。
そもそも質問の意図がわからないし、興味も持てない。

「素晴らしい実で──だけどそれは毒の木の実なんだ」
「美味ければ食えば良い。それだけの事だ」

だからユーバーは、簡単にそう答えた。
そうか、と、シーザーは溜息に紛らせたような調子で言った。

「お前は即物的だな」
「それの何が悪いんだ?」
「悪くはない。でもアルベルトと同じだ」

ユーバーが僅かに眉を寄せたのがわかったのだろう、シーザーは肩をすくめて見せた。

「木は木。実は実。そう言う割り切り方だよな。木にどれだけ問題があっても、実が役に立てばそれで良い。毒の木を育てる事にも、きっと躊躇いはないな」
「何か間違っているか?」
「さあな。でもきっと、その意見に賛同する奴らは多いよ。マイナス要素を勘案しても、結果が肯定出来るなら──その方が良いって言うんだろうな」
「貴様は違うのか?」
「違うね」

シーザーはあっさりと言った。

「毒の木に、実がなるとして──それを食うか食わないか、あるいは潔癖な奴なら食わないなんて言うんだろうけど──どっちが正しいかなんて事は俺はどうでも良いんだ。評価は関係ない。──何にしろ、そんなモンは燃やしちまえば良いんだ」
「役立つ実をか?」
「実があるから、毒の木があるんだろ」

これは例え話なんだ、とシーザーは目を細める。

「木があるから実があるんじゃない。実がなるから、木を育てようと思うんだ」
「──」
……毒の木に罪があるとしたら、その実の罪はもっと重いと思わないか?皆、目的によって手段を正当化しようとする。だけど本当に罪深いのは、その全てじゃないのか。毒の木に毒の実が生るなら、その方がずっと良かったんだ。それならそんな木を誰も育てようとはしないのに」

揺らめく炎に照らされて、シーザーの瞳は緑の色を無くしている。


「俺はそんなモンは燃やしてしまうつもりだよ。この血じゃない。──その夢想の方を、だ」


──あるいは。
あるいは、とユーバーは思った。

人間以外のものに近いのは、この弟の方かもしれないと。

つまり、シーザーは──大国の興亡、戦乱の世に続く平和と安定、彼の兄が目指す歴史の調律──理想の世界。その全てを。理解すれば誰もが願うだろうその甘い果実を。果ての祈りを?

燃やしてしまいたいと、言っているのだ。







+++ +++ +++







気配に気付いていたのだろう。つまり、眠ってはいなかったらしい。
目を開いて、アルベルトは言った。

「──俺を殺しに来たのか?ユーバー」

まさかそんなことは有り得ないと思ってその台詞を吐いているのだから、アルベルトの可愛げのなさと言ったら相当だ。
ユーバーはそう思いながら、完全に姿を現した。アルベルトがゆっくりと身を起こす。

ユーバーはアルベルトを殺す気はなかった。
それは、シーザーよりアルベルトを優先するというのではなく──アルベルトの方が、自分を楽しませてくれるからだ。

そう思っていたのだ。

「……下らん問いだな」
「そうでもないだろう。シーザーが勝とうとするなら、俺を殺すより他に道はない。一番可能性があるのは、お前を使う事だ」

アルベルトは寝台に座ったまま、ユーバーを手招いた。
髪を編んでもらう事には依存がなかったので、ユーバーはその前に腰を下ろす。

金髪を梳いて貰いながら、ユーバーはやはり考えていた。
終わりは近い。

何が終わるのか、それは戦ではなく──

「──アルベルト」
「何だ」
「貴様は、毒の木に美味い実が生るとしたらどうする?」

彼はその木とその実に、どんな評価を下すのか。
そう思いながら、ユーバーは続けた。櫛の感触が心地良い。

「木は周りの草を全部枯らしてしまうが、実はとても役に立つ」
「そうだな……」

明らかに説明は足りなかっただろうのに、アルベルトの答えはよどみなかった。


「──その木を毒草地帯に植えてしまえば良いんじゃないか」


ユーバーは、シーザーと似たような仕草で肩をすくめて見せた。

「……貴様はやっぱり、即物的だな」
「そんな言葉を何処で覚えて来た」
「利害計算が上手いが、それだけだ」
「軍師だからな」

アルベルトは簡単に言った。

なので、ユーバーは酷くあっさりと納得した。
アルベルトには善し悪しという判断基準はない。
どう使うかと、それしかない。

毒の木は、一本きりしか生えていないのに──アルベルトとシーザーは、完全に違うものを見ている。