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「血の臭いがするな」
シーザーは背後から掛かったその声には、振り向かなかった。
着替えを続けながらいつも通りのトーンの言葉を返す。
「動物並みだな、風呂入ったのにまだわかるのかよ」
もう少年とは到底言えない背中を、ユーバーは特に感慨なく見詰めた。
悪鬼と違い、人間の成長は早い。
しかし、彼の兄には出会った時からあまり変化が見られないのだが──もしかしてそれが、人と人外との差異なのかも知れない。
シーザーは確かに、鍛えられた、とユーバーは思った。
ある時期を境にして、シーザーは人が変わったように落ち着き──あるいは冷酷になった。それは戦を、混沌を好むユーバーにとっては都合のいいことだったかもしれないが、実際どう感じるかと言えばそれ程面白くはなかった。そういった類の軍師なら、アルベルトの方がもっとずっと出来が良いしそれで足りている。
単なる癇癪の結果の暴走と受け取れなくもない。
シーザーは全てに投げやりになったかのようにも見えた。諦念は苦悩を払拭する。迷いを捨て去れば何事に直面しても動揺はない。
例えば、その手で人を殺せるようにもなる。
そこがアルベルトと違うところだな、とユーバーは思った。
アルベルトはおそらく、己自身が握る刃で人の命を絶った事はないだろう。それは当たり前だが忌避感からでも感傷からでもなく、単に非効率的だからに違いなかったが。
そう、もしも一対一で何も無い荒野に、そして帰れる見込みの無い荒野に放り出されたとしたら、アルベルトを殺すのは呆れるほど簡単なのだ。
「何しに来た?ユーバー」
「ご挨拶だな」
振り返った赤毛にユーバーは鼻を鳴らして見せた。
アルベルトとの違いをまた見つけた。いちいち訪問の理由を述べなければならないのが面倒だ。
それは能力の違いというよりは、気質の違いなのだろう。
シーザーはユーバーと他愛なく話すことを、好んでいるのかもしれない。
「泣いているか震えているかと思って見に来てやったのに、面白くもない」
「この歳で泣いても震えても可愛くないだろ」
落ち着いた笑みを浮かべると、シーザーは執務机に着いた。
机は非常に簡易に整理されていた──普段と違って。以前来た時は、その上には地図や本どころか何故か皿まで散乱していたのだが。
シーザーは机の上に足を乗せると、ユーバーを真っ直ぐに見た。
しばしの無音。
「……俺は泣きも震えもしないよ。必要ないからな」
「──必要がない?」
一昨日、シーザーは確かに敗北を味わった筈だった。
その中で勿論多数の兵が死に──シーザーの周囲の者も少なからず消えただろう。けれどシーザーは全く揺らいでいなかった。少なくともそのように見せていた。
「予定通りだからさ」
「敗北がか?」
シーザーは微笑を消さなかった。
ただ、眠たげな瞳を少し細め、溜息を吐いた。
「ユーバー。お前って、実は優しいのかも知れないな」
「狂ったか」
それは半ば以上本気の台詞だったのだが、シーザーはそうとは受け取らなかったようだった。声を立てて少し笑い、
「優しいよ。俺なんかよりずっとな。少なくともお前に嘘はないだろう?」
「それに何の価値がある」
「誠実を取り繕って人を騙すより、ずっと優しい態度じゃないか。お前の傍には人は誰も近寄らない。自分が怖いものだと教えてやってるからだろ」
シーザーの言葉は理解出来なかった。
けれどもそれは、恐ろしく外れた次元での比較なのではないかと思えた。ユーバーは壁に寄りかかると、じっとシーザーを観察した。
その視線を払うように、シーザーが手をひらひらと振る。
そして、何でもない事のように続けた。
「次も俺は負けるよ」
その時ユーバーが覚えたのは、確かに失望だったかもしれない。
全くつまらない。足掻きもしない人形を壊す事になど、興味はなかった。呆れの混じった声で、ユーバーは言った。
「……ならば、さっさと降伏するがいい」
果たして今のシーザーをくびり殺してその死体をアルベルトに見せ付けても、面白くはないように思えた。
理想と情熱を忘れ、希望を持たなくなった人間は既に屍だ。
「降伏はしない」
「何?」
シーザーは全く平静だった。
「戦は続けるさ──アルベルトを殺す為にな」
はにかんだような笑いと共に、シーザーはそう零した。
きっと狂っている。確かに、狂っている。ユーバーはそう確信したが、片方でこうも思った。
この状態で正気だったとしたら、その方がずっと厄介なのではないか?
そう考えているうちに、シーザーは次の言葉に進んでいた。
彼にとって、それ程簡単に処理できる事になってしまっているのだろう。
「なあユーバー」
「何だ」
「俺は前、お前に理由を貰っただろう?アルベルトに刃向かう理由。ハルモニアを滅ぼす理由」
それは──何年前のことだっただろう?
シーザーが家を出て、もうどれくらい遠くに来たのか。
「あれはもういい。もう必要ない。そんなものが無くても、俺は迷わない」
「…………」
「俺はハルモニアを滅ぼすよ。俺の目的の為に、だ」
大言壮語だ。
だが、ユーバーは笑わなかった。
「追い詰められたと見せてからが策なんだ、ユーバー。策士の見せ掛けを信じるな。俺は今は負けてるけど、最後にはアルベルトを殺す」
「無理だ」
ユーバーは本心から言った。
「軍師として、貴様はアルベルトに遠く及ばん」
「…………」
「年月が経っても、差は埋まっていない。気付いているのだろう?貴様が進む毎に、貴様の兄もまた先へ進むのだ」
シーザーは少しだけ黙って、ユーバーから視線を逸らした。
すっかり日の落ちた窓の外を見やり、さらりと呟く。
「──同じ道を歩くなら、な」
蝋燭の炎が揺らめく度に、影が動き表情の陰影が変わる。
その声だけはずっと変わらない調子で、シーザーは続けた。
力の差など、どうでもいいのだと。
相手に有利な土俵に登る必要が何処にある?
「軍師として勝負しなければ良いのさ」
「何だと?」
「俺は軍師は嫌いなんだ、ユーバー。それがはっきりわかった。だから俺は──軍師にはなれないよ。……そしてきっと、軍師以上に酷い事をする。今もしている」
「どういう意味だ」
シーザーは答えなかった。
代わりに、ユーバーには信じられない台詞を吐いた。
「アルベルトは負けるよ」
「……何?」
「アルベルトは負ける。俺がそうさせる」
一度途切れてしまった言葉を繕い、ユーバーは溜息を吐いた。
「夢想だな」
「夢想を追ってるのはアルベルトだよ。だから負ける──きっと、人生で初の敗北だろうな、あいつには」
シーザーは愉快そうな様子に見えた。
傲慢な態度ではなかった。ただ、何処と無く薄ら寒いものがあった。
「俺の周りの全てを叩き潰すといい。俺はそう望んでる」
「──」
「俺はもう、駒は要らないんだ」
シーザーは視線をユーバーに戻すと、少し驚いた顔をした。
「……そんな目で見るなよ、ユーバー。これでも、壊れた玩具よりはもうちょっとマシなつもりなんだ」
「そうは思えんが」
「俺は泣かないし震えないけど、怖くないとは言ってないぜ?」
策士の見せ掛けを信じるなって言ったろ、シーザーはそう繰り返すと表情を変えた。
「俺はこの策に、本当に命を掛けてるんだよ。ユーバー、お前相手にはイカサマしたが、アルベルトにはそれじゃ通じないからな」
「アルベルトは賭けはしない。分の悪いものなら特にな」
「俺はアルベルトじゃない」
シーザーは囁くように言った。あいつの全てを否定する。
「……この賭けに負けるなら、俺はもう何もかもどうだって良いんだ」
その目に浮かんだ表情は、何に対してかわからないが──確かに、嘲笑だった。
つまり、正しい道を選んでいない事など、最早とっくに承知の上なのだろう。