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「……シーザー、もう寝たら?」
後ろから柔らかくかけられた声に、男は振り向いた。
蝋燭の炎に照らされ、暗く色を変えた赤毛は好き勝手な方向に飛び跳ねている。
反対に淡い色の髪をした女は、手に大きめの毛布を持っていた。
それを肩にかけてくるのを好きにさせ、シーザーは柔らかく目を細めた。
「……いや、計画立案だけやっちまいたいんだ、一週間のうちには」
「貴方、一週間も起きているつもりなの」
声音に、咎める色が混じる。
予想通りの反応にシーザーは苦笑しながら、こくりと頷いた。
目の下に深い隈を刻んだまま、がさがさに荒れた肌を両手で擦る。
「昼寝なら、五年分くらい貯めてるからな」
「……」
ふう、と女は溜息をついた。
蝋燭の光だけが揺らめく部屋の中に、その音はやけに大きく響く。
椅子に座ったまま毛布に包まり、シーザーは書きかけの羊皮紙にまたペン先を落とした。
女はその後ろ頭をじっと見詰めていたが、やがてまた口を開いた。
「……シーザー」
「何?」
「貴方は、過労死したがってるように見えるわ」
そんな事はない、とシーザーは軽く否定する。
その様を眺めて、女は思う。
シーザーは、目だけを生き生きと光らせ、痩せた肩の上に希望と困難と期待と圧力と理想、他人の命その他諸々を載せ、しかしいつも飄々とした顔をしている。
平気だよ、と。
そんなに自分は頼りないだろうか?
いや、そんな問題ではなく、彼は誰一人頼りになどしないのだと、女はいつしか気付いていた。
彼はいつも、寄りかかられる立場であり、揺るぐ事は許されない。
たとえ──恋人が相手でも。
掴み所がなく、触れていても心は別の世界に飛んでいるような。
そんなシーザーを知っても、最早離れる事は考えられず、せめて邪魔にならないことを女は願った。
けれど、こんな命を削るような姿を見せられては、決意が揺らぐ。
自分の辛さならば耐えられる。だがこれは──
「……シーザー」
それとも、やはりこれは自分のエゴだろうか。慕う相手が損なわれるのを見たくないというのは?
いつでも頭の隅、あるいは自分の背後の影で、誰かが考えている。
理想というものはそんなに大切だろうか。
例えば、それにより戦場に対面しなければならず、血飛沫と悲鳴と怨嗟を耳にするなら。
例えば、その挙句に仲間や、友や──愛する者を失ってしまっても?
こんな夜、その囁き声は大きく彼女を揺り動かす。
「……これは私の独り言だから、聞き流してね」
小さく空気を震わせて、女はその背中に語りかけた。
きっと、冗談に紛らせて終わってしまう言葉。けれど、選択肢くらいは提示したい。それが一刀の元に切り捨てられると知っていても。
夢が見たい。
貧しくとも、人目を憚っても、友と仲間を裏切っても──平穏で、何も失わない生活。
「貴方がもしもとても疲れていて──」
シーザーは疲れているだろう。
ここにいる誰より、疲れているだろう。
「少し、ほんの少しでも今の立場が重くて──」
それは重いだろう。
ここにいる誰もの、命を背負うのなら。
「さだめに逆らいたいと、思ったことが一回でもあるなら──」
立ち向かうのは強大すぎる敵。
そうしなければ生きていけない?本当に?
自分の幸せだけ願うのは、そんなにも罪か。
勝利の栄光は主に捧げ、敗北の責任は負う。
そんな立場を、誰が好んで望むのだ?
女は、最後の一息を吐き出した。
「私と一緒に、何処かへ逃げない?」
部屋の空気が止まったように女は感じた。
言ってから後悔するのはわかっていた。
彼の返事は予想が付きすぎていて、彼女はけれど自分の心を抉るだろうそれに対して身構えた。冗談、そう、これはほんの冗談で、真剣に取り合ってくれなくて良い。
永遠の一瞬が、きっと彼にとっては一息で過ぎ去る。
「…………」
シーザーは、先程と同じようにゆっくりと振り返った。
浮いているのは先程と同じような表情。
「……ごめんな」
「何が?……独り言だって言ったでしょう」
そういって、笑おうとした女の表情がふと凍る。
あり得ない言葉が、男の口から滑り出たから。
「俺はお前を幸せに出来ないよ、生活力ないし」
「え……?」
「何にもすることなくなったら、きっと寝てばっかだろうな」
どきどきと、違う種類の感情で心臓が鳴る。
女は息を呑んで、シーザーの次の台詞を待った。
「……でもま、交易の流れくらいは読めるから、何とか暮らしてはいける」
「──」
「何処だって」
いつもの吹き渡る風のような、軽い口調で、シーザーは首をかしげた。
「……あ、それとも冗談だった?」
「違う、本気……!」
困ったように笑ったその顔があまりに──悲しそうに見えたのはきっと、男の心に引き止める何かがまだ残っているから。
けれど、そんな事は関係なかった。
シーザーが自分を選んでくれた。女にはそれだけで十分だった。そして、与えられるその穏やかな声。
「…………良かった」
シーザーは、小さく息を吐いた。
「じゃあ、何処まで──逃げようか」
シーザーは、己の罪を知っている。
それは、皆の信頼を裏切る事であり、おそらく致命的打撃を味方にもたらす事であり、そして──多分、それ以上のことだ。
華奢な体を抱きながら、天井を見上げる。
シーザーは、誰にも聞こえないような小声で、謝罪した。
何に対してか知る者は、彼自身の他には誰も居ないだろう。
そう、たとえ、血の繋がった彼の兄でさえ──
「……ごめんな」
──見抜けないだろう。
+++ +++ +++
「何故、俺にやらせなかった?」
「……シーザーの事ですか」
目覚めてすぐ、無遠慮に自室に存在していた悪鬼に対して今更費やす言葉はアルベルトにはない。
上手く開いてくれない瞼との付き合いもそろそろ短くはなく、アルベルトは非常にゆっくりとした動きで上半身を起こすと、カーテン越しの窓の外に目線をやって時刻を確認した。昼下がり──睡眠は少々不足しているが、やるべきことは過剰にある。
「黙って見逃すとも思っていなかったが、ここまであからさまだとこちらの方が恥かしい」
「……ユーバー、鬼の首でも取った様にはしゃぐのは止めて貰えませんか、頭が痛い」
「眠り過ぎだ」
からかう声を聞き流し、アルベルトはやはりゆっくりと寝台から降りた。
その視線がテーブルの上で停止する。
「……ユーバー」
「煩い」
名前を呼んだだけで素早い反応が返ってくるとは、アルベルトの言いたい事はきっと理解しているのだろう。
アルベルトは倒れたインク壷と、その中身がテーブルクロスの五分の一、そして本、床にまで模様を描いているのを眺めて大体の予想をつけた。
どうせ、椅子に座ったときに足をテーブルの上に乗せ、その勢いで蹴り倒したのだろう。わざとではないだろうが、気遣いもない。
細かいことに拘る程暇を持て余している訳でもないので、アルベルトはその件に処理済の判を押して頭の隅に押し込んだ。
それよりも、どうやってこの大きな子ども──しかも、不満を持った──をあしらうかが問題だ。
ユーバーは入れ替わるように無遠慮に寝台に腰を下ろすと、その長い足を組んだ。
「私情で兵を動かすなど、軍師失格だろう。何故俺にやらせなかった」
「国の為、公の為などとは思ったこともないので、今更でしょう」
アルベルトは平然と切り返すと、窓辺に寄って薄手のカーテンを開けた。
空は曇り、昼間ではあるが、世界の色はくすんで見えた。
「シルバーバーグはろくでなしの代名詞か。片や軍を私物化する性悪、片や重圧に耐え切れず逃げ出す根性なし」
「その名を出せば私が反応するとは思わないで欲しいものですが」
アルベルトはゆったりと首を振ると、ユーバーを振り返った。
「言っても聞かないのでしょうね……何が不満なのですか」
「さっきから言っている。何故俺に頼まん?」
「……貴方に頼むのですか?巣から離れた、これを機にシーザーを殺せと」
「そうだ」
溜息を吐き、葡萄酒色の髪をした男は僅かに肩を落として見せた。
「今更言っても無駄でしょうが、そう頻繁に主を裏切らない方が良いですよ」
「主?裏切る?何の事だ?」
ユーバーは僅かに首を横に傾けた。
軽い口調。本気でわかっていないのか、理解したうえで茶化しているのか判別出来る者は少ないだろう。
「俺はあの餓鬼を自分の主人だと思ったことは一度もないぞ。遊んでいるだけだ」
では自分の事は?などという質問をアルベルトは思い浮かべなかった。
彼にとってはどちらも同じだろう──それでもユーバーがアルベルトをやや優先するのは、その方が『面白い』からだ。それ以外の何でもない。
絶対の忠誠などがそこにある筈もなく、『長年のよしみ』も期待できない。そもそも、この存在にとって一年や二年、十年や二十年が、どれ程の価値だというのだろう。
アルベルトはゆっくりと頷いた。
「そうですね、貴方は只、楽しんでいるだけなのでしょう」
「何か問題が?」
「ありません。けれど貴方が、この遊びが簡単に終わってしまうのを阻止するんじゃないかと、そう思ってしまうのは仕方がないことでは?」
ユーバーは目を眇めた。
そして、考えた。つまりそれは、ユーバーがアルベルトの命を聞かず、シーザーを逃がすかも知れないという懸念があったと、そういう言い訳か。
確かにユーバーは気まぐれだ。誰かの命令に完全に服従するといった態度も見せない。
けれど、アルベルトがそう言ったなら、ユーバーは必ずそれを実行しただろう。
ユーバーは静かに言った。
「──それは俺を信頼していないと、そういう事か?」
「信頼……?」
アルベルトは窓から離れると、ユーバーに歩み寄った。
優雅な動作で白皙の頬に触れ、撫でる。美術品鑑賞の、その冷たさで。
「貴方もわかっているでしょうに。私は、誰かを信じたり頼んだりした事は一度もありません」
ユーバーはその手を好きにさせながら、この茶番をそれでも取り繕おうとする男の悪足掻きを観察していた。
この手を引き千切って、真実を吐くまで踏み躙ってみるというのも、面白そうではある。
「────」
確かに、アルベルトは誰も信じたり頼んだりはしないだろう。
ただ、何をしたら誰がどう動くか位は、
知っている
だろう。
内心で繰り返す。
『シーザーを殺せ』と、アルベルトがそう言ったなら、ユーバーは必ずそれを実行したのだ。
く、とユーバーは喉の奥で笑った。
歪で惨めな人間よ、貴様はいつまで全てを隠しておけると思っているのだ?
+++ +++ +++
簡素な墓の前に立ち尽くす後姿に、ユーバーは声を掛けた。
「情けないざまだな」
平凡な幸せなど、手に入ると本気で思っていたのだろうか。
ユーバーの力を欲したときから──いや、もしかするとそれよりずっと前、生れ落ちたときから、シーザーの運命は決まっていたのだ。
アルベルトの望む道を進んでいくのだと。
ならば、ユーバーはそれに協力するにやぶさかではない。平穏と安寧に逃げ込ませはしない。戦乱と混沌の種は、多い方がいい。
「貴様はここで終わるのか。ならばその女も、死に損だとは思わないか?」
さあ、目が覚めただろう。
ユーバーはそう思いながら、シーザーを挑発しながら、無造作に距離を詰めた。
「ふ、……く、ふ、あはは」
乾いた笑い声。
振り返らないままのその表情がどんなものかは、ユーバーには見えない。
ただ、笑い声に混じって、ユーバーはこんな音を聞いた。
──やっぱり、と。
その瞬間、何かが、がちりと音を立てて動き出したと思ったのは気のせいだろうか。
「ははは、なあ……ユーバー」
その次に来た台詞は、悪鬼としても予想外のものだった。
「
──お前、アルベルトを殺せるか?
」
完全に意表を突かれ、ユーバーは一瞬真顔になった。
この、いまや少年ではない『赤毛』がそんな事を願うとは、ユーバーは一度として考えたことがなかった。
ユーバーは帽子に片手を当て、やや俯いた。
面白い。
とても、面白い。
完璧に左右対称の唇の、片方が歪む。
赤い舌先が、ぺろりとそれを舐めた。
「──愚問だな、シルバーバーグ」
答は決まっているだろう。
お前はそれを
知って
、その言葉を吐いているのか?