「……私のものよ。誰にも、渡さない」

それは陳腐な台詞だった。
何度となく口にされて磨り減り、その割にそれが叶えられたことなど僅かしかない言葉。

十五の少女が言えば、本人以外は一笑に付す。
そうなの、と優しい目で頷いて、内心では絶対に信じない──そんな本気は。

「……」

どんな言葉をかければいいのか、半ば上の空で考えながら、シーザーは取り合えず、そう、とだけ言った。
編まれた足場のふちに気軽に腰掛けている少女と違い、シーザーは体の三分の二以上が安全地帯になければ絶対に安心できなかった。いつか慣れる時が来るのだろうか、とぼんやりと思う。

「……あいつは、もう二十九だぜ」
「知ってるわよ」

下らない現状確認に、素っ気無い返事。
シーザーは、事実をはっきり言ってもこの少女はもう傷つかないだろうと考えた。わかっていることを何度も言い聞かせるのは逆効果だろうか。

「本気なわけがない」
「私は本気なのよ!」

シーザーはぼんやりと空を見上げて思った。
十五の小娘の本気なんて、一体どこの誰が信じるのだろう?

その年頃の想いを大人になっても引き摺っている者が、どれだけいる。それはいずれ、時折懐かしく思い出しては記憶の中に飾っておくだけのものになるのだ。そしてもっと時が経てば、書物の中の言葉のように、夜空の星の熱のように、実体として感じ取れないものになる。

ひと時の熱情だと、一過性の病だと、気軽にカテゴリされてしまうものだ。
そんな本気が、一体なんだというのか。

「……だから?」

シーザーは素っ気無く言った。
何故自分がこんな役割を押し付けられなければならないのだろう。自分は確かに余所者だが、少女の秘密の日記帳ではない。

シーザーは足場の上にごろりと横になっていた。
いい天気だ。けれど、眠気は全くといっていいほど襲ってこない。
空中に吊り下げられたような、岩棚に貼り付いた村には、いつも風が吹いている。寒くて、とても昼寝に良い環境とはいえなかった。

「だから?……だから、ずっと、好きなのよ」
「……言えば言うほど嘘臭くなるぜ」

シーザーは目を閉じた。

嘘──外から見ればそんなものなのかもしれない。誰の、どんな思いも。
こんなに近くで聞いているシーザーにも伝わらない。多分、言われた当人にも全く通じないだろう。同じ台詞を言い、同じ気持ちを忘れた者は沢山いる。
成る程、少女は今は本気でそう思っているかもしれない。だが、それだけでは珍しくもなんともない。何の証にもならない。
極端な言葉を吐くたびに、その『本気』とやらは現実から遠ざかってしまう。
ならば、信じさせるにはどうしたらいいのだろう。

はあ、とシーザーは溜息を吐いた。

「あのな、お前の隣ん家のライが、『将来僕のお嫁さんになってー』って言ったって、お前だって信じないだろ?」
「私はライに手なんか出さないもの」
「……でも、『大きくなったらね』くらいは言うんじゃねえの」

辛辣な言葉を吐きながら、シーザーは内心、もう三十路にもさしかかろうかというくだんの大人の顔面に拳を叩き込んだ。
なにやってんだ。

「シーザーって、冷めてるね」

侮蔑の混じった声音に、目を開けて少女の後頭部を見詰める。
振り返って、少女はシーザーを見た。視線が合う。

「何でそんなに割り切ってるの?」

別に、割り切っているわけではない、とシーザーは思った。
ただ、自分は少女より客観的で、少女より物事を知っているだけだ。

「私と貴方にどれだけ差があるって言うの?」
「そりゃ……」

シーザーは口ごもった。
数字にしてみれば、たった二歳だ。

「私は、あの人を自分のものにしておく為ならなんだって出来るわ。なんだって捨てられる」

けれど、シーザーは少女よりずっと大人なつもりだった。
子どもの真摯な感情は、押し付けがましくて厄介、そして本気で受け取るには重過ぎるという事を知っているのだから。





+++ +++ +++





「アルベルト」

ぽんとぞんざいに放られた声に、アルベルトは顔を上げた。

「茶。ったく、こんなモンメイドに頼めよな」
「ああ、ありがとう」

アルベルトの前に二人分のティーセットが置かれる。
テーブルを挟んで向かい側に、少年は腰を降ろした。いや、青年かもしれない──丁度その中間くらいの、微妙な存在。

「つか、紅茶なんか飲むんだな。俺、アルベルトは飲み食いなんてしないと思ってた」
「いくら俺でもそれは無理だ」
「『いくら俺でも』とか自分で言うな」

リアスは、赤に近い茶色の髪をしていた。広がってぼさぼさの猫毛。
軍師見習、兼アルベルトの世話係などという中途半端なポジションを与えられた当初は不満があったらしいが、敬語を必要としない関係は気に入っていると見える。それに、アルベルトの才覚にも何か感じるところがあったようだ。
今はアルベルトにくっついて軍議の見学をするか、もしくはこうやってアルベルトの話し相手をするくらいしか仕事はないが、それで給料が貰えているのだからハルモニアという国は随分と甘い──わずかな一等市民には、特に。

アルベルトがそんな事を考えている間に、リアスはティーポットに手を伸ばした。
伏せて並べてあったカップを引っくり返し、順に紅茶を注ぐ手つきは、とても慣れているとは言い難い。

「味は期待するなよ、殆ど初めて淹れたようなもんなんだから」
「手順通りにやれば、一応飲めるものは出来る筈だな」
「その言い草、感謝の念ってのはないのか」
「どんな味でも構わないさ」
「んだよ、それ。カフェインが摂れりゃいいって?」

アルベルトは答えなかった。
代わりに、ティーポットを置いたリアスの手に自分の持っていた本を差し出す。

「……何?続き持って来いって?」
「資料の分類くらい覚えておくといい」
「へいへい」

リアスはぶつくさと文句を言いながら、それでも立ち上がった。
アルベルトが我侭をいう事は極端に少ない。それをリアスは知っていたし、だとすればこれはリアスの為なのだろう。

その背を見送り、アルベルトはティーカップのふちに手を滑らせた。
猫背気味の背中、ひょこひょこという擬音が付きそうなその歩き方が似ている。気だるい喋り方も、気のない返事も、時折見せる皮肉っぽい笑みも、行方の知れないアルベルトの弟と共通点が多い。

「……」

ティーカップのふちをくるくると撫でる。
他にどんなところが似ているか、考えながらアルベルトは時を過ごした。

「……何ぼんやりしてんだよ。ほら」
「ああ、早かったな」
「そりゃま、そこまで書庫が遠いって訳じゃないし。分類も大体覚えたさ」

渡された本を受け取って、アルベルトはそれを開いた。無作法は今更気にしない。
リアスは椅子を引くと無造作に腰掛けた。その様子も似ているな、とアルベルトは思った。

「なんだ、冷めちまったんじゃないか?」

せっかく淹れたのに、とリアスは口を尖らせた。

「先に飲んでて良かったんだぜ」
「流石にそれは悪いだろう」
「じゃあこんなタイミングで頼むなよ……」

古びた紙面に視線を落としながら、アルベルトは色々なことを考えていた。
リアスが神妙な顔で自分の淹れた紅茶を飲むのに促されるように、薄い陶器を手袋をはめた手で持ち上げる。

「──なあ」

アルベルトがそれに口を付ける寸前、リアスは思いついたように言ってきた。

「俺、兄貴が居るんだよ」

初耳だった。

「丁度アルベルトと同じくらいの年」

「……随分と、離れているな」
「やっぱそう思う?」

リアスは行儀悪くテーブルに片肘をつくと、自分のカップをもう片方の手で持ち上げた。

「仲は良いのか」
「あんま。向こうは俺の事なんか相手にしないし、俺も無駄に反発しちまうし」
「──」

アルベルトは紅茶を飲んだ。悪くない味だった。
リアスも自分のカップを傾ける。そして、独り言のように言った。

「……でも、別に、嫌いって訳じゃねえんだけどな」

アルベルトはもう一口飲むと、ティーカップを置いた。
頁をめくる。乾いた紙のこすれる音。

「そうか」
「……長い間、会ってないんだ」

ぱらり、ぱらり、と、西日の差す室内に響くのはその音だけだった。
会話はない。
ただ、アルベルトはじっとこちらを見る視線を感じていた。
リアスの肩が震える。
顔が俯く。
アルベルトは、テーブルの上に広げていた本をひざの上に移動させた。

「────」

がしゃん、と。

リアスの手からカップが落ちる。
テーブルの上で転げたそれにはひびが入り、中身はクロスの上に盛大にぶちまけられた。

己の喉に手を当てたリアスの体が前傾し、頭が落ちる。衝撃に、背の高いティーポットが倒れる。
紅茶の染みたクロスに頬を擦り付けて、リアスはアルベルトを睨め上げた。赤茶けた髪が湿り、量を無くす。

リアスは、ひび割れた声で呻いた。

「……何で、気付いた?」
「気付くというより」

アルベルトは、リアスの戦術立案の添削をする時と同じような様子で、彼の思い込みを訂正した。
別に、リアスの態度はそれ程不自然ではなかったし、紅茶自体も違和感というほどのものは感じさせない仕上がりだった。
そう、謀殺の企みとしては及第点だっただろう。アルベルトが、もう少し無邪気であれば。

「──カップの交換はいつもやっている事なんだ」
「は……ちくしょ、」

リアスは焦点の合っていない目で、それでもアルベルトをじっと見詰めた。
皮肉っぽい笑みを載せた唇が、痙攣しながら言葉をつむぐ。

「両方に、仕込んどきゃ、良かったぜ」
「──それも、無駄だったと思うが」

目を閉じたリアスを見下ろして、アルベルトは溜息をついた。彼の兄は、もう彼に会うことはないんだな、と何とはなしに考える。
そしてアルベルトは、更なる間違いをリアスに指摘してやった。もう聞こえてはいないのかも知れないが。

「どんな味でも構わないと言っただろう」

お前の用意したものを俺が飲む事はないのだから。

リアスが不在の隙に自分で新しく用意したカップを揺らして、アルベルトはまた一口紅茶を飲んだ。
紅茶を淹れる腕ばかり上がって困る、とアルベルトはぼんやり思った。

「……」

膝の上に退去させていた本をぱたりと閉じ、テーブルの上の惨事を眺める。
効果があるまでタイムラグがあったこの死に方を見るに──

「──殺虫剤では、なかったか」

相違点を見つけて、アルベルトは立ち上がった。人を呼んで、片付けさせなければならない。

アルベルトは、死体を作り出す事には向いていても、その後のことには向いていなかった。
作り出した骸を一々自らの手で埋葬していては、人生がいくらあっても足りない。

さて、リアスを推薦してきたのは誰だっただろうか?
アルベルトにとっては、誰かを信用しないという事はとても簡単だった。




+++ +++ +++




やれやれ、とシーザーは思って、それでも彼なりの誠意を持って少女の話に付き合っていた。

「……お前の本気をあいつは信じないよ」

少女は、心底疑問だという表情で聞いてきた。

「──何でシーザーがそんな事言うの?」
「何で、って」
「シーザーはあの人じゃないでしょ」
「いや、あのな……」

少女は腰掛けていた綱から立ち上がると、ぴょんとジャンプしてシーザーの居る足場に飛び移った。

「ちょっ、危っ!」
「シーザー、若造の癖に生意気よ」
「生意気って……」

更なる若造に言われたくない、と思ったが、少女はシーザーの反応など気にしていないようだった。

「シーザーが言ってるのは、その辺の本に書いてあるような事ばっかり!全然、自分で感じた事なんかじゃない」
「お前な、本なんかそんな読んだこともない癖に、」
「でも私はそんなその他大勢じゃないわ!」

彼女は傲慢に、自信たっぷりに、言い放った。
その根拠が何処から沸いて出てくるのかは、彼女自身にしかわからないのだろう。

「私、本の登場人物じゃないわ。『何処かの誰か』じゃないわ。だから、この気持ちが一生褪せたりしないって事を、私は知ってるわ。ずっと愛してるわ、あの人を。親子ほど年が離れてるから何、あの人だってそんな大人じゃないわ。遠くなんてないわ」

シーザーはむくりと起き上がった。

「……」

何かを諦める大多数を横目で見ながら、自分だけは違う、と言い切る──それは賢い行いだろうか?
そう、確かに違うという可能性はある。可能性だけは。ルーレットのストレート・アップよりも低い確率。

夢見るのが許されるのはいつまでだろう?
胸の中に流れる言葉は空虚だ。実感がなく、実体もない。シーザーは唐突に気付いた。夢見る事が許される、許されない、それ以前に──

そもそも自分は、夢を見た事があっただろうか?

「誰にも渡さないのよ」

ぞくり、とシーザーの背筋が凍った。
少女の横顔が、あまりに真剣に見えたから。

「シーザー、若造の癖に、私の本気を見縊らないで頂戴」
「……」

シーザーは、少女を子どもだと思った。
そして、その気持ちは今も変わっていない。
多分、彼女の『あの人』もそう思っている。

そして、それは、事実だろう。
彼女が子どもだという事は、何を言おうが誰にも変えられない事実だろう。

しかし、彼女を子どもだと思ったシーザーは、大人だろうか?
誰だって、自分より年下は未熟に見える。自分が通ってきた道と重ね合わせ、感覚を想像し、経験則で決定する。この程度だろうと。
けれど、彼女より大人であることは、シーザーが若造であるという事実を覆さない。

シーザーはぽつりと呟いた。

「……本気、か」

そうだ。
まだ十七歳なのだ、俺は。

そうシーザーは思った。いつだったか、同じ事を思った記憶がある。
人生経験も、精神力も、許容量も、何もかも足りない。知識だけが豊富で、いつもわかったようなふりをして、推測ばかりで動く。
夢物語を信じないことで、自分を冷静だと思っている。
……どこかに、同じような奴は、沢山いる。

シーザーは、真剣に考えた。
まだ十五の若さで、人生を決めてしまっている少女は、明らかに子どもだった。
もう二十九にもなって、自分の娘程の少女に手を出す男は──立派な大人とは、とても言えない。

それって、どんな図式だ?

頭の中を整理して、シーザーはうっすらと笑った。
相当な高度に居る筈なのに、空はますます高い。
この場所と地面の間に、どれ程の差があるのだろう。遥かなる、高みからすれば。

例えば、世界を見渡せる場所からなら。
ほんのちっぽけな相対評価に、どれ程の意味があるのだろう?

「……俺も本気にならなきゃ、駄目かな」
「シーザー?」
「いや、こっちの話……はは、こりゃ、アルベルトも気付いてない話だろうなぁ」

シーザーはむくりと起き上がると、不安定な足場をゆっくりと踏みしめて、少女の隣に立った。
怪訝そうな顔をして見上げてくる頭の上に肘を置いて、頑張れよ、と無責任な事を言ってみる。

そうだ。
まだ十七歳なのだ、俺は。


そしてアイツも、まだ若造でしかないのだ。