暇と無駄話。
「シーザー」
「……なんだよ」
アルベルトは顔を上げ、僅かに揺らした前髪の隙間からシーザーを見詰めた。
その静かな視線に思わず後ずさろうとする足(多分、幼い頃から叩き込まれた教育の成果なのだろう)を必死に押し留め、シーザーはぶっきらぼうな返事を返す。
沼のように静かに滑る瞳が僅かに細められただけで悪寒が背筋を這うのは、嫌な思い出が走馬灯のように巡るからだ。
アルベルトは一呼吸置いて、さらりと尋ねた。尋ねたというよりは、多分、答えをわかっていて確認した。
「お前、学校はどうした」
「…………」
シーザーは彫像から速やかに人間に戻り、多分普通と同じようにドアを閉めた。
一回だけ呼び止める声が聞こえてきたけれども、振り返らずに廊下を進み始める。
『まさか』『あの』お兄様の問いかけを無視『してしまった』つけはいつか必ず三倍くらいにして気付かないうちに帰ってくるのだろう(気付かないうちに、というのは──『まさか』『あの』アルベルト・シルバーバーグが、七つ下の子供の些細な反抗に腹を立てるなどという大人げない事があってはいけないからだ)。
が、とりあえずシーザーは、なんだかどっと力が抜けたので、休みたかった。酷く馬鹿馬鹿しい。
「グラスランドの戦乱に加担する暇があったら、勉強するのが学生の本分です──か?お兄様。俺の将来の心配をしてくれるとでも?」
肩をすくめて、自室へと向かう。
馬鹿にしている。子供はまだ学校へ行け?ああ、真っ当過ぎて反論も出来ませんよ、馬鹿野郎。
こういうときは昼寝をするに限る。断じて不貞寝ではない。
シーザーは溜息を吐いた。
そうだ。
まだ十七歳なのだ、俺は。
+++ +++ +++
「……学校はどうした、か。母親でもあるまいし、天下のアルベルト・シルバーバーグが下らぬ事を言うものだ」
「したくてしていると思われるのは心外だ。至極当然の事をわざわざ言われる方が悪い」
アルベルトは振り返らないままに答えた。
椅子に背を預け、ため息混じりに相手をする。
「盗み聞きは感心しないな、ユーバー」
「聞かれて困る話をしていた訳でもあるまい」
ユーバーは笑いを含んだ顔で鼻を鳴らした。
「言える立場なのか」
「違うかな」
「貴様は七年前、学校に行っていたとでも?」
真っ当な切り返しに、アルベルトも口の端だけ上げて笑った。
「そう思うか」
「いや?だったら面白いとは思うがな」
ユーバーは上等な絨毯を踏み拉いて部屋を横断した。我が物顔に振舞うのは、殊更示しているわけではなく彼の性質というものだ。
「──素直に、心配だといえば良い」
「全く見当外れだ、ユーバー。外れ過ぎていて笑う気も起きない」
「確かに、知り合いもいないグラスランドに、能のない女と二人連れでふらふら迷い込むには早いな、十七歳は。よくもトカゲに食われなかったものだ」
「……的外れだと言っている」
アルベルトはぱたりと本を閉じ、机の上に載せた。
ユーバーはその横に腰を下ろし(机に座るな、などという躾は、しようとするのも無駄だ)長い足を投げ出してみせた。
「貴様がお守りをしてやれば良いのに」
「それ程暇に見えるか」
「そうだな。貴様はもっと俺の為に楽しみの場を作らねば困る」
「……お前の為な程暇があると思われていたか」
アルベルトは両肘を机につき、手を組んで、彼でさえ知る由もないのは当然なのだが、先程追い払った弟と似た調子で溜息を吐いた。
「愛しいか」
「お前の語彙は少ないな」
「人間には様々な形の感情があるというが、面倒臭い。単純に纏めた方がいい」
「一言で表せるものなどそう多くは無い。例えばお前だとてな。破壊や混沌など、陳腐な言葉だとは思わないか」
「俺は俺だ」
アルベルトはうっすらと笑んだ。
「良い答えだ。その理屈で返せば、俺の感情は俺の感情で、愛しさではない」
「──貴様と喋っているとまだるっこしくてならんぞ」
ユーバーは首をかしげ、アルベルトの前から冷めかけた紅茶を取り上げる。
観察する視線で赤みを帯びた琥珀の液体を揺らし、問いかけた。
「普通、血縁とは情の湧くはじめのものではないのか?別におかしいことでもあるまい」
「……年の離れた弟を愛しむ、か。そうだな、おかしな事ではない」
「ならば認めても良かろう」
「照れているわけではない。だが、言葉は正確に使うものだ──例えば、彼奴が母親の連れ子だったならば、愛しかったのだろうがな」
アルベルトは思案するように眉を顰め、数秒間黙した。
ユーバーは鈍感ではあるが馬鹿ではない。扱いが難しくは無いが扱わせてはくれない男の意とするところを大体において汲み取った。
「血の繋がりがなければ、愛しい?逆の話をしていたと思ったが」
「俺には家族としての関係よりこの血の方が目に付く。弟というより、シルバーバーグに見えるのだ」
ユーバーは口をへの字に曲げ、カップに口をつけると音を立てて啜った。
紅茶の味などはわからない。只の暇つぶしである。
「そこがわからん。弟は弟、だから愛しいと言っておけば丸く収まるのに」
「そうだな、その方が簡単だ──だが、簡単な事は面白くはない。シーザーはシーザーだ。この血を持ち、意思を継ぐべき──ものだ」
アルベルトは非常に正確に、その言葉を発音した。
「シーザー・シルバーバーグ」
アルベルトはユーバーに視線をやり、カップを戻すように目の動きだけで伝えた。
繊細な陶器を握り潰されては困る。
「只愛しみ慈しむものではないのだ。理解したか」
「わからん」
一刀のもとに切って捨てられた言葉に、アルベルトは肩を竦めた。
確かに、わからせようと思って説明したわけではない。計算法の授与とは違うから、どちらかと言えば口にした方に意味がある話だった。
ならば問題はないのだ、全く。わからなくても。
わからなくて困るのは、わからせたいと思う方だ。
アルベルトは自嘲の少し混じった笑みを浮かべた。感情だけを求めるなら、ユーバーの方が賢い。
「俺は言葉を使いすぎるか……だから、大切なことは伝わらない」
「ふん、伝えない為に言葉を弄するのだろうが。何処までも小賢しい男だ」
「否定はしないでおくかな」
お前にしては、気の利いた返事だ。
アルベルトは悪鬼の手から取り上げたティーカップをソーサーに丁重に戻す。音を立てずに。
それから、しばらくの空隙。
「此処は居心地が悪い」
静寂の後、ユーバーはそう言った。
「初耳だな」
アルベルトは短く返した。
ユーバーは眉を寄せて言い募る。
「──全てが生温い。貴様もだ」
「俺も?」
「無駄な事をしている暇はないのだろうが?此処には、無駄な事しかない」
「そうか」
「そうだ。貴様は弟をシルバーバーグだと言ったが、俺にはそうは見えん。貴様の両親もだ」
清潔な色のテーブルクロスに、立てられた爪。薄く皴がよった。
アルベルトはそれをぼんやりと眺めた。気がかりなのは、悪鬼の感情ではなく生地に傷みが残るかどうかだ。
「凡人だ。時代を動かせはしない──そんなものがシルバーバーグか?」
「わざとらしい台詞で煽るなよ、悪鬼」
アルベルトはまだまだ続きそうなユーバーの言葉を、軽く遮った。
どうでもいい会話の帰結だけを取り出す。
「お前の言いたいことはわかるさ」
「なんだと?」
「俺が、普通の人間のような言動をするのが気に入らぬのだろう?」
例えば、さぼり癖のある身内をたしなめたりすることが。お前が知る『アルベルト』にはそぐわないから。
アルベルトはわざとらしく目の表情を変えて、ユーバーを見上げた。
「俺は、家に居ても寛げぬのか。普通を見せれば失望されるのかな」
「──弱音か?」
ユーバーは蔑むように見下ろした。
「貴様が本当にそれをしたいというのなら、俺は構わんぞ。ただし、貴様との縁もこれまでだ」
「その短気を少しは直せ。俺の方から手を切ることになるぞ」
「──貴様の方から、だと?」
声を上げてユーバーは笑った。
そして笑い終わった。
その温度変化には凄まじいものがあった。
きしり、と部屋の空気が悲鳴を上げる。
テーブルクロスを突き破り、木目に爪が突き刺さるのが、目で見てはっきりとわかった。
「くびり殺すぞ」
色違いの目が、薄く光る。
確かな殺気がアルベルトの首筋を撫でた。
「よくもまあそんな大口を利ける、この俺に」
「そういう所を気に入っていたと思っていたが」
「調子に乗るな、塵芥」
空気に圧力が伴う。急に酸素が薄くなったと、他の者が居たら錯覚したに違いない。
「貴様など俺にとっては一瞬の暇つぶしだと言うことが、口で言わねばわからぬ程愚鈍だったか」
「知っているさ」
それとも、知らない方が可愛げとやらがあるのか?
アルベルトはあっさりと流した。テーブルクロスの端を軽く引っ張り元に戻す。
悪鬼の口が耳まで裂けた。ように思えた。
「……貴様に潰すほどの暇はないのだろう。自分で言ったな、アルベルト・シルバーバーグ」
「そうだな、お前と違って俺には暇がない。もう一度そう言えば良いのか?」
今度こそ、ユーバーの手はアルベルトの喉に向かった。
その気になれば、人の首など素手で落とせる。
指先が触れる直前に、アルベルトは舌を動かした。
「──勘違いしているようだが、俺は此処に休息に帰ったのではない」
ひたり、と、爪の厚みだけ残してユーバーの手が止まる。
先を促す視線に逆らわず、アルベルトはさらりと語った。
「シーザーが、名に相応しいかと、お前は言ったな」
「……鍛えるのか?」
「違うよ」
アルベルトはうっすらと笑った。どこか麻痺させるような笑みだった。
「俺に反抗心を持っているようなのでな。潰すに値する芽なら、そうしよう」
「無駄な事だ。まさか貴様の敵に育つとでも思っているのか?」
ユーバーは鼻を鳴らした。
「慎重さも策士には必要だ」
「俺は退屈だぞ」
「それが本音だろうな。この面倒な会話の原因としては、些か軽すぎるが」
「貴様にとっても有害だろう。貴重な時間を食い潰すのは。俺にとっては暇つぶしが、貴様にとってはその一生全てなのだからな」
「そうだな」
「瞬く間に終わってしまうぞ」
脅し文句と取れなくもない。アルベルトはしかし、そんな事実には何も感じなかった。
悪鬼の暇つぶしに付き合うのにはやぶさかではないつもりだが、アルベルトの生を悪鬼と同じ単位で測ってもらっては困る。
「終わればいい。何事も時が来れば終わる」
「?お得意の悲願はどうした。諦めたか」
アルベルトは、幼児にミルクの注ぎ方を教えるように、柔らかな声音で言った。
「そうではない。密度の問題なのだ。蜻蛉も蝉も、やるべきことをやるだけの時間は与えられている」
どんなに短い生も、生まれてきたその目的を果たす為の時間はある。
無駄に捨てなければ、十分に。アルベルトはそう知っていた。
暗緑色の視線が、黒衣を突き刺した。
「お前を表す言葉をひとつ増やしてやろう。『空虚』だ」
永劫の時を彷徨う、悪鬼よ。
お前の宿命をお前は知らないものだから。無駄な話にしか使えない。
「──無為に生きるものこそ、その命も永い」
苛めてしまったかな、と、アルベルトは思った。
傷は、気づいた途端に痛み始めるものだ。
ユーバーは、目を細めて切り捨てた。
「貴様のように小賢しくはなりたくないものだな」
「お前はお前で良い」
「ならば俺のやり方で、単純に言わせて貰おう。些事に無駄な時間をかけるのは好かん」
ユーバーがゆっくりと手を引いた。
アルベルトの首にはうっすらと赤い線が浮かんでいたが、流石に彼の目もそこには届かない。自分では見ることが出来ない部位。
「殺せばいい」
「──本当に、この会話は無駄だったようだな」
命の危険すらあったこの数分をそうやって片付けて、アルベルトは、目を閉じた。
危険かもしれないものを消すのは簡単だ。
しかしアルベルトはユーバーを殺さない。使いようによっては役に立つから。
同様にアルベルトはシーザーを殺さない。使いようによっては役に立つかもしれないから。
それが結論。
アルベルトはその思考の過程で自分がどのように感じたかは、放っておくのだ。
無駄な話は無駄なだけだ。
傷は、気付かなければ痛くはない。