先ず、宿命ありき。













空気を揺らす声。
長い影が伸びる。

「この時期は陽の赤が増す。染まる町並みが見事だな」

アルベルトは、ふと書類を作成する手を休めて顔を上げた。
視線を窓の方に向け、今気付いたとばかりにしばし眺める。

「そうですか?私は───」

見慣れた色だ。
鏡の中と、それでなくても日常に限りなく深くかかわる景色を彩る色なのだから。


「『なんて醜い夕暮れだ』と、そう思います」






先ず、宿命ありき。






ふん、と窓際の悪鬼が鼻を鳴らした。外を見下ろして呟く。
先程から絶えないシュプレヒコールが、神経に触るのだろう。音楽的に聞きうる類のものでは勿論無いのだが、例えそうであったとしてもユーバーにそれを嗜む素養はない為、結果は同じだ。

煩いな。ユーバーの視線から容易に汲み取れる台詞。
アルベルトは見もせずにそれを察知している。別段誇る事でもない。

「今日は祭りでもあるのか」
「反争民晴党ですよ。今日は集会の日でしたか」

読書の手を休めず、アルベルトは言った。
予想通り、ユーバーが聞き返す。

「何だそれは?」
「寄付金をねだっているんです、パンでも投げれば帰るでしょう」
「では俺が与えてやろう」
「貴方が行くと玄関が汚れますので、出来れば遠慮して頂きたい」

つまらない。
まったく、つまらない。

生まれたときから続く慢性的な退屈。しかしアルベルトの神経はそれに耐えうるように出来ていた。
いっその事、太陽の登り沈みの予測が当たるのにも新鮮な感動が得られるような情緒があれば良かったのだが。

窓の外から聞こえてくる音。
騒音でしかない。いや、音ですらなく只の振動。聞く耳は生れ落ちたときから既に持っていないのだから。

「婚約者を帰せと叫んでいるが」
「来世まで待って貰います」
「軍備縮小は?」
「どうせこの国が消えるときにはそんな物はなくなる」
「自らは安全な場所でのうのうと命令だけしている……ふむ、貴様の事か?奴等よく声帯が持つものだ」
「それについては反論しようも無い。要求ではなく事実ですから──声帯については、あれだけの人数がいれば一人の負担は少なく済むのでしょう」
「奴等の情熱から、という答えではないのだな?」
「それでも構いませんよ、相乗効果という事にしておきましょうか」

丁寧な罵倒とも思える反戦集団の声など、なんらアルベルトにとって新鮮なものではない。
開き直った人間を説得する事がいかに難しいか、彼らはきっとわかっていないのだろう。話して通じるような人間ならば、そもそも愚かな真似はしない。
何故、出会った途端に自分の腹をナイフで刺さないのだろう。集会を開くより余程手段として効果があるのに。

くだらない。
まったく、くだらない。

自身の価値とかいうものについて、アルベルトは考えた事が無かった。
周りの無能についてはよく考える。何故、自分を排除しうるものがこの世界にはないのだろう。

アルベルトはふと、読書と策謀と取り留めのない思考とを止めて(それは彼自身の人生の中では睡眠時間以外には滅多にない事なのだが)、実力で自分を害することの出来る存在を見つめた。
視線に気付いたか、ユーバーが振り返る。

その姿は、アルベルトの美意識が賞賛するに足る。
黒と金は嫌いな色ではなく、人ではないことを殊更証明するようにユーバーは優美な生き物だった。

「不機嫌だな」
「…………私が?」

答えるまでに少しの空白を作ったのは、勿論わざとだ。
ユーバーは確かに、一瞬でアルベルトの計画、アルベルトの道を妨害できる。その右腕を一振りするだけで。
しかしやはり無駄だろう。
ユーバーの気分を損なう程の可愛げを、自分が持ってはいない事をアルベルトは自覚していた。
わざと躓くのでは意味が無いのである。

アルベルトには自傷や自殺願望はない。ない筈だった。
何故ユーバーを傍においておくかといえば、アルベルトにとって有益な駒に成り得るからであって、その存在がもしアルベルトに制御不可能、予測不可能なようだったなら、消す事は出来ないまでもさっさと遠くへやっている。
威力のある駒は使うが、暴発する駒は使わない──その暴発が、予想出来るものならばその限りではないが。

赤と金のヘテロクロミアをアルベルトは眺めた。
そう、きっと、この悪鬼ですらも、手に負えないように見えるが予定外の馬鹿はしてくれまい。ユーバーは、狂気と衝動だけで構成されているわけではないのだから。

アルベルトの人生に、失敗はありえない。自分以上の能力を持ってするか、自分の能力以上の運命の悪戯が身に降り注がない限り、アルベルトは必ず成功する。
彼自身の見地から言えば、それはもう特別でもなんでもない事で、別段不遜とも思わない。

アルベルトの身が害される事があるとしたら、事故か、それに類する馬鹿の突発的行動──予測できる範囲の恨みではなく、完全なる逆恨みのテロ(例えば、顔が気に食わないから)などでしかないだろう。精々くだらない理由だ、馬車に轢かれる自分というのも、アルベルトは有り得ない末路だとは思っていなかった。

その他には?その他に、アルベルトを延々と続く道から引き摺り下ろす方法は?

(だが………それも、やはり無駄だな)

アルベルトは何度か思い描いた事象に首を振った。
意図的な失敗は、無意味なものだ。アルベルトは無意味にだけは耐えられないのだった。
無意味は、アルベルトの全存在の否定だった。幻である事は知っているが、しかし認められない。
完全に無意味な愚行だけが、アルベルトを殺す事が出来るだろう。アルベルトが決して己には成し得ないと、唯一認めるそれだけが。

誰かの愚かな衝動が、自分の予想を超えること。
そんな事が、いつかあり得るだろうか?

それを救いだと考えてはいけなかった。アルベルトはユーバーから視線をはずす。
そのタイミングを計ったように、名を呼ばれた。

反応したのは、随分とそれが重ねられてから。
ユーバーが何故怒り出さなかったのか、アルベルトは考えなかった。

つまらなく、くだらない。
美しくもない。



「アルベルト」

わかっている。
失敗しない。

「アルベルト」

わかっている。
必ず成功する。

「アルベルト」

わかっている。
全知では有り得ないがそれに限りなく近く。



ユーバーは、穏やかに問った。
悪鬼でさえ、そのような要素を持ちえないというわけではないのだ。その事は、アルベルトの中の何かを少し楽にするだろうか。

「名を呼ばれる事が、苦痛なのか?」
「いいえ………いいえ、そんな事は、無い」
「血塗られた道を歩むに耐えられぬならばそう言え。すぐに殺してやる……アルベルト」
「───私が?まさか」

赤毛の若者は目を閉じた。差し込む夕日の角度が変わり、直接目を刺すようになっていた。
自身の名を呼ぶ。

「『アルベルト』」

そうでない自分など。
何処にもいないのだろうと。

「その名こそが、私です」

逆では無いのだ。
自分に名が付いたのではない。
だから。

「無力な私や、無能な私など存在し得ない」

女である自分や、魔物である自分が存在しないように。
『アルベルト』でない自分は存在しない。

その事について、特に感慨はないのだけれど。


「この世を変えられない私になど、何の意味があるのです?」





人生について。
あらゆる人が死ぬまでに一度は考察するであろうそのテーマは、アルベルトについてなんら問題になるものではなかった。

生まれた時に既に解決されていた。