嘘しか言えないひと。






『嘘しか言えないひと』






乾いた草の匂いが満ちる光景。
足を踏み出すたびに、じゃりじゃりと音が鳴った。
ぽかぽか、という表現が似合う日差しが、二つの人影を照らしている。

アップルは、舗装されていない野道を歩くことには慣れきっていた。伊達に幼い頃から各地を転々としていない。
むしろ、歩くのが苦手なのはひょこひょこと隣を進む赤毛の青年の方だ。いや、まだ完全に青年ともいえないかもしれない。その顔は少年の要素も多分に残している。

ふと、柔らかな風が髪を弄った。

「シーザー、物語は好き?」

大まかな方向で言えば、ハルモニアへ向かう道。
その途中で、アップルはシーザーにそう声をかけた。途端に跳ね返ってくるのは怪訝な視線。

「はあ?………アップルさぁん、ボケるにはまだ早いと思うぜ」
「何よそれ」

呆れたように言う教え子に、もっと呆れたような顔を作ってみせる。
シーザーは憮然としたように言った。

「俺、もうすぐ18」
「まだ18よ、2で割ったらたったの9歳じゃない。おかしくないわよ」
「なんで2で割るんだよ」

これ以上は減らず口の叩き合いになることがわかりきっているので、アップルは強引に話を持っていくことにした。
はるか続く道の先のほうを見つめ、軽く足を踏み出す。

「子ども扱いしたくなったのか?」
「まあ、いいからいいから。ちょっとそういう気分なのよ」

そういう気分ってなんだよ、という台詞には答えず。
一度軽く息を吸い、草の匂いを取り込み。

「こんな話は知ってる?」

諦めたように肩をすくめるシーザーを横目に、アップルは語り始めた。

「昔々───」





『昔々 あるところに 悪い魔法使いがおりました』

『唇からは 空を焼く呪文が 杖を振れば 海が裂けて』
『歌で女の心を 視線で男の命を 奪えるのでした』

『彼にできないことはない みなが口々に言いました』










びゅうびゅうと、風が鳴っている。
あまりにも模範的なロケーションに、溜め息が出そうだ。

崩れ落ちた遺跡の残骸の只中に一人立ちながら、アルベルトはその風に髪を吹き流されるに任せていた。

シンダル遺跡。
夢の跡───古代の一族が残した壮大な技術、そしてある少年の、少女の、悲願の骸だ。

アルベルトは半ばで折れた柱に近寄り、手を触れてみた。
冷たい筈のその温度は、手袋越しには伝わってこない。

ふと、額をそこに付けてみた。
確かに感じる、石の固い感触。丁寧に刻まれた文様のその輪郭、無機物特有の平坦な温度。

自分の熱でやや温もるのが気に入らず、アルベルトはすぐに離れた。
代わりに背をその柱に預け、あたりをゆっくりと睥睨する。

亀裂の入った床、膝ほどの高さまで崩れた壁、瓦礫の山。
染み付いているあれは、モンスターの体液だろうか、それとも───人の。





「何故まだこんな所にいるの?」





予想していた問いかけが降ってきて、アルベルトは僅かに首をめぐらせた。
薄い栗色の髪をした女が───苦労して廃墟を越えてきたのだろう、スカートの裾が薄汚れていた───立っている。

勿論、ここに来るとしたらそれは彼の弟ではなく彼女だろうと思っていたのだ。

「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ、アップル女史」

アルベルトの台詞に、アップルは柔らかく微笑んで見せた。

貴方が居ると思ったからよ、などと言うのは己の行為すら駒として動かす軍師にとって侮蔑に等しい。
この青年が読まれるのを承知でここに来ていたとしても。
殆ど滑稽な言葉遊びだが、確かにそれは必要なのだ。

アルベルトは、けして己の意図や感情を赤裸々に晒すなどということはするまい。
多分、その生が終わるときまで。

全てを欺いて。真実は見せないで。きっと、自身の願望までも取り残し。
この子は何処までも───軍師なのだ。アップルはそう思っている。

可哀想だ、などとアップルは感じない。
それはアルベルトの矜持を完膚なきまでに傷つける。いや、きっとそれでもこの青年はその事実を表面に示しはしないだろうけれど。

「何故───」
「もう、問わないでください」

アルベルトはアップルから目を逸らして言った。
瓦礫の隙間を通り抜け、響き、その存在を示す風。

「………賭けてみたかった、だけなんです」

その言葉を自分に伝えるのですら、彼にとっては随分な譲歩だ。アップルにはわかっていた。
軍師はけして、自分の計略を人に暴かせはしないのだから。

全てを理解する。
それがアルベルトの業なのだと、アップルはとっくに見抜いていた。

自分は、この子を幼いときから知っている。



何に賭けてみたかったのか。

それは殆ど絶望的な賭けだったのだと、アップルは知っている。
叶いはしないと、多分アルベルトはわかっていたのだ。










『ある朝 子どもがやってきて 息も絶え絶えに言いました 貴方はなんでもできますか』
『魔法使いは言いました この世のことなら望みのままに』

『僕は不治の病です 明日をも知れぬ命です 息をするたび胸が痛い 僕を治してくれますか』
『この薬を飲みなさい この館で暮らしなさい 好きなものは何でもあげる もう死ぬことはありません』





「それが貴方の望みですか」

こくりと、少年は───いや、もうその外見の倍は生きている筈の存在は、肯いた。
悲壮な決意を、その瞳に込めて。

自らを化け物だと罵るその姿には。
足掻く人間の愚かで必死な強がりが重なって見えた。

自由と死を望みひた走る、人形のような、それでも人である綺麗で醜いもの。

「───ならば私は貴方に仕えましょう」

甘い脆い、痛みを伴う一夜の夢を。

「貴方の望みを叶えましょう」

そして手酷い裏切りを。





『ありがとう ありがとう 笑んで子どもが言いました 貴方はいいひとなのですね』
『答えが冷たく返ります』


『いいえ 私は違います』




『嘘しか言えないひとでした』

『次の朝 魔法使いは自分の庭に 小さな墓を掘りました』











びゅうびゅうと、風が啼く。
アップルは、手のひらで柔らかく髪を押さえた。

「シーザーは荒れているわ」
「そうでしょうね」

アルベルトは素っ気なく相槌を打った。
アップルは苦く微笑む。シーザーが荒れる───それは、アルベルトの計算だ。

あの少年は、自分の兄は絶対だと未だ信じている。
操れぬものなど何もない、万能者だと。

「結局は貴方の手のひらで踊らされていたと思っているのですもの、仕方ないわね」

『ハルモニアでの確固たる地位を得ることが出来た。まずはそれで充分だ』

───策士というものは、自分の本当の目的など晒しはしない。
自身の意図、感情というものを見せるのは、恥だとすら思っている節がある。

彼の望みを、誰が知る。
誰にも知らせないようにしているのが彼自身であるのに。

失敗を成功に取り繕い、偶然を必然と思わせる。
それが軍師の手腕だ。

弱みを見せるなど、たとえ死んでも己には許すまい。
駒に情が移るなど、あってはならないことなのだ。

アップルは、転ばないように一歩一歩ゆっくりと踏みしめて、風の中を進んだ。
もう彼女の身長をはるかに越した青年に向かって。

それでも彼女が知っているアルベルトに向かって。

「でも私はちっぽけな存在だから。力など持ってはいないから」

この風に吹かれている、目に見えもしない砂粒。
たとえ足元に転がろうと、髪の毛一筋ほどの障害にもなりはしない。

この非情な男にとって、何程のものでもない。

「貴方の目になんか映りはしない………只の、塵芥だから」

無声の言葉がその後に続いた。





貴方にも、うまくいかないことくらいあるんだって、わかってもいいでしょう?





アルベルトは目を閉じた。
風が、泣く。


自由と死を望む彼に。
最後に、手酷い裏切りを。

『───出来れば、お前らであいつの魂を救ってやってくれ』


崩れ落ちる遺跡の中で。
アルベルトの予想通り───彼は消えた。愚かなまでに一途な少女と共に、悪と破壊の名を背負い。

予想通りに、アルベルトは賭けに負けた。


最後に、手酷い裏切りを。
彼に、束縛と生の屈辱を与えようと───傲慢にも。


……………傲慢にも、望んだのかもしれなかった。一瞬の夢しか見せられぬと知りながら。


叶わないと知りながら、願うそれは無様だった。
他人にはけして見せられない。


…………だから、賭けだったのだ。




もしかしたら、もしかしたらもしかしたらもしかしたら。
アルベルトの予想が外れて、そして。

炎の英雄は彼の主の手を引き、この廃墟の外へと。

百万分の一の、もしかしたら。


なんと滑稽なことか。
主君に、手向けの花すら捧げられぬ、無能で、不誠実な軍師など!


そんな姿は、誰にも見せられはしない。







自分にだって。

どうにも出来ないことくらい。


自分の予想を覆そうと足掻くことくらい。




あるんだ。







アップルは、暖かい裸の手のひらを伸ばして、赤い髪を梳いた。
風に乱されたそれを、丁寧に丁寧に。

それは、幼子を撫でる仕草に酷似していた。
アップルにとっては、アルベルトはいつまでも、無力な子どもだ。

それは、アルベルトに対してアップルが、何の力も持っていないから。
その気になれば一瞬もかけずに捻り潰せる、駒ですらないものだから。

「私には何の力もないの」

柔らかい、こえ。
アルベルトは、ゆっくりと目を開けた。
与えられるのは、穏やかな眼差し。


「ええ、だから………私を甘やかしていいのは、貴女だけなんです」













『昔々 あるところに 悪い魔法使いがおりました』

『唇からは 空を焼く呪文が 杖を振れば 海が裂けて』
『歌で女の心を 視線で男の命を 奪えるのでした』

『彼にできないことはない みなが口々に言いました』



『ある朝 子どもがやってきて 息も絶え絶えに言いました 貴方はなんでもできますか』
『魔法使いは言いました この世のことなら望みのままに』

『僕は不治の病です 明日をも知れぬ命です 息をするたび胸が痛い 僕を治してくれますか』
『この薬を飲みなさい この館で暮らしなさい 好きなものは何でもあげる もう死ぬことはありません』

『ありがとう ありがとう 笑んで子どもが言いました 貴方はいいひとなのですね』
『答えが冷たく返ります』


『いいえ 私は違います』





『嘘しか言えないひとでした』

『次の朝 魔法使いは自分の庭に 小さな墓を掘りました』





『けして崩れぬ男でした』
『けして倒れぬ男でした』

『全ての強さが彼を支えて 世界の果てまで見渡して 彼はひたすら 一人で生きていけました』
『私に出来ないことはない それが最後の言葉でした』



『嘘しか言えないひとでした』