日常。






日常。




「だからといってなんでこうなる!」
「小遣いが欲しければ稼げば良いだろう、幸いにしてお前ならば趣味とも兼ねられるぞ」

悲鳴に近いユーバーの叫びに、アルベルトは丁寧に答えた。その丁寧さは相手の気分の向上には欠片も役立たなかったが。
アルベルトは手頃で清潔そうな石の上に腰掛け、目の前の場面を眺めていた。

別に殊更優美というわけではないのだ、だが、どの方向だとしてもひとつの目的に特化し研ぎ澄まされた動きというものは目を奪う。
すばやく腕を突き出す、ただそれだけの行為が、その先に刃が握られていること、それが狙った一点に寸分違わず届くことで情緒を揺らす。

アルベルトは視線を逸らした。今度はそれを、足元に生えている草にむけ、それらの長い学名をずらずらと脳裏に並べ立ててみる。
何かを長い間見つめるのは、あまり好きな行為ではない。




クプトの森。
厚く重なる葉に遮られた光は重く、空気は水気を多分に含んでいる。

「ち……」

邪魔にならないように結ってある髪が湿って重くなっているのを感じた。
ユーバーはよくここでカニパンチと遊ぶ。勿論普通に遊んでいると捉えるのは間違いで、カニパンチにしてみればただの嬲り殺しであるのだが。
比較的硬いその殻の手応えを、ユーバーは少し気に入っていた。

しかしそれにも限度がある。これはもう、硬いというレベルではないだろう。

咄嗟に膝を曲げ、体をかがめる。ぶうん、とその重量を示すように鈍く風を切って、頭上を錆色の塊が掠めた。流石に、あれが直撃すればユーバーとてただでは済まない。回避のスキルが高いので事なきを得てはいるが。

アルベルトが見つけたらしい、クプトの森のフィールドボス。平たく言えば主だ。
百年は生きたかという、威圧感さえ発しているカニパンチ。

うまく口車に乗せられたのか、いつの間にやら巨大モンスターと一騎打ち。買い物袋だけが、アルベルトの腰掛けている石の陰に避難させられている。ユーバー自身は、的にされている。アルベルトは休んでいる。
ユーバーの眉間には深い皺が寄っていた。

最も重要な問題は、その殻の厚さと硬度ゆえに斬っても斬っても斬っても斬っても相手にダメージが蓄積されないことである。岩のほうがまだ可愛げがあるのではないか。
いくらユーバーでも疲れないというわけではない、既に腕と肩には痺れがうっすらと溜まってきていた。

この巨大な蟹が剣によって生命活動を停止するというイメージが湧かない。
ルックやセラなど魔法部隊がいれば、まだ何とかなるのではないかと思うが、当たり前のごとくここにはいない。
キングクリムゾンが歪んでしまわないか、折れはしまいかということもかなりの懸案事項だ。

確かにユーバーは戦闘が好きだ。殺戮も好きだ。混沌とした状況には喜びを覚える。
だかしかしこれは───

ユーバーは、まさに『我関せず』という風情の軍師に向かって叫んだ。

「貴様はそこで何をしているんだ!」
「生温く見守っているが」

そんなことはわかっている。それが気に入らないのではないか。
ユーバーは歯噛みをして言った。

「少しは役に立てと言ってる!」
「俺は戦闘は専」
「ええい!毎度同じことを言うな!!」

巨大なカニパンチから、見るからに毒々しい色の泡が吐き出され、広がる。
あわてて飛びのくが、靴のつま先がじゅう、と灼けた。緑の大地が一瞬にして荒れ果て、円を描くように黒く染まる。酸だ。

いよいよ不味い。
ユーバーも、毒ならまだしも酸で焼かれるのは勘弁して欲しかった。
大振りの一撃をかわしながら声を張り上げる。

「貴様は非力で剣も振れぬのだからいざというときのために札くらい持っているのだろう!?手伝え!」
「ユーバー、知っているか?」

アルベルトは至極真面目な顔で言い放った。

「札は使うとなくなるんだ」

風圧で前髪が舞う。
珍しいことだが、ユーバーは深く息を吸い、三秒ほどかけてそれをゆっくりと吐き出した。

「………俺は使ってもなくならないなどとほざくつもりではあるまいな?」
「事実なくならないだろう」

平然と返すアルベルト。ユーバーが低く唸る。

「………貴様の前から消え失せてやろうか?」

あながち冗談でもないように呟くその台詞に、アルベルトはようやく行動を起こした。

「わかった。そう拗ねるな」
「貴様どの口でそんな事を………!」

状況も忘れユーバーはアルベルトに食って掛かろうとした。
アルベルトはすっと立ち上がり、目を伏せて懐に手を入れる。

ずるり、と取り出したものにユーバーは目を丸くした。
長いユーバーの生の中でも見かけたのは数えるほどしかない、黒い塊。

「………ガン、かそれは」
「正解だ」
「何故そんなものを貴様が───」

アルベルトは足を肩幅に開き、両手で銃を構えた。
ユーバーの顔がさあっと青褪める。
確かにさまになってはいる、ポスターにしても役者不足ではない、だがこの男は───

がぁん!!

森に轟音が響く。

「!!」

銃弾はユーバーとカニパンチの間の空間ややユーバー寄りを通って抜けた。木の幹に突き刺さる。
というより、咄嗟にユーバーが跳んで下がっていなければユーバーに当たっていたのではないだろうか。勿論ユーバーは鉛玉を跳ね返せる硬度など有していない、それはどちらかというとこのカニパンチである。

「きちんと狙え!」

ユーバーの、濡れた紙にさえ劣る耐久度の堪忍袋は、とっくに限界に達していた。

アルベルトはといえば、銃を撃った反動でよろけ、バランスを崩ししりもちまでついている。
億劫そうに、彼はぶつぶつと答えた。

「狙い?付けているわけが無い。こうして銃身を支えるのも疲れるというのに」
「なら撃つな!!!」

アルベルトは答えず、ぺたんと地面に腰を下ろしたまま、しびれた腕をさすって銃を構えなおした。
半眼に目を眇める。

「ちょ」

がぁん!!
ユーバーの足元の土がはじける。

「待っ」

がぁん!!
ユーバーの肩口を風が掠って抜ける。

アルベルトは溜め息を吐いた。

「………やはりなかなか巧くいかないな」
「貴様狙ってないか!!?」

アルベルトは落ちかかってきた前髪をかきあげ、肩をすくめて見せる。

「狙いなど付けられる筈がないと言っただろう」

貴様の口は嘘以外は吐けんのか?
そう怒鳴りつけようとしたが今更なので諦める。

ユーバーの目が据わった。
この怒りを何処にぶつけるべきか。

抑揚のない声援が聞こえてくる。

「頑張れ」
「黙れ」

ユーバーは辺りを睥睨した。
二秒後、丁度いい具合に突き出た大きな岩を発見する。

ユーバーは走ってその裏に回りこんだ。
ずうん、と音を立てて巨大カニパンチが追ってくる。

カニパンチにとっては回り込むというほど大きくはなく、かといってそのままユーバーに鋏を当てられる角度でもない。
森の主はそのまま岩の上に少し乗り上げた。そのまま、先ほどより下に位置する形になったユーバーの脳天めがけて、鋏を振り下ろす。

ずぶり!!

鋏の動きが止まる。
岩に乗り上げたため少しだけ現れた、比較的柔らかいカニパンチの腹の部分。
下から突き上げる形で、ユーバーのキングクリムゾンがもぐりこんでいる。

ぶしゅう、と生臭い体液が、隙間からユーバーの顔に浴びせられた。
間髪いれず、八鬼の紋章を発動させる。

ががががががっ!

神速での連続突き。
カニパンチの鋏が痙攣する。
その腹をぐちゃぐちゃに掻き回すように、悪鬼の剣が蹂躙していく。
ばきばきと甲羅が割れ、中の柔らかい場所に何度も何度も。

八つ当たりの標的にされた哀れなカニパンチは、地響きをさせてその体躯を横たえた。




やっとの事で戦闘が終わり、疲労困憊の風情のユーバーは、それでもずるずると足を引きずってアルベルトの前に立った。
軍師を、子供ならば引き付けを起こすような温度の視線で突き刺して、ごきりごきりと指を鳴らす。

底冷えのする声音が響く。

「殴ってイイか?」
「お前に殴られれば俺は簡単に死ぬぞ。ひ弱さにはかなり自信がある」

アルベルトは淡々とそう返すとようやく顔を上げてユーバーを見た。

「酷い有様だな」

もう何も言い返す気になれぬほど、ユーバーは疲労していた。当分カニパンチは見たくない。
何がそこまでこの男を不機嫌にさせたのか、いまだユーバーにはわかっていなかったのだが、わかる必要もないので放っておいている。

「満足か」

ぽつり、と言葉を落とした。
アルベルトはゆるゆるを首を振る。

「いや、然程楽しくもなかった」

やはり殴るべきだろうか。ユーバーは本気で逡巡した。

アルベルトはゆっくり立ち上がると、ハンカチを取り出してユーバーの顔を拭いた。
ユーバーは別に抗いもせずに世話をさせる。

アルベルトは、その金糸を撫でて言った。

「楽しませろ」
「それは貴様の役割だろう」

憮然と、ユーバーはそう言い返す。
血と炎を彼に提供するのはこの赤い髪の男。

「………愉しませろ」

この森の暗いところの色、暗緑色の瞳。
ユーバーはふと、思いついたことを口に出した。

「人間は、殺してぶちまけて腐らせる」

頭の上に置かれた手を取り、愛咬してみせる。
鋭い犬歯が、白い膚を少し傷つけた。赤と白の対比。
ぺろりと、鉄の味のするその緋を舐め取る。

まるで、毛繕いのようだ。

ユーバーはアルベルトの手から舌を離すと、目を細めた。

「だが貴様は、踏み躙ってみたいな」

無様に地面に這い蹲らせて。
赤い地獄に閉じ込めておこう。

「色気のない口説き文句だ」

ふ、と唇の端を曲げて、アルベルトはきびすを返した。

「戻るぞ」

どうやら、機嫌は直ったらしい。
ユーバーは、肩をすくめて見せた。