日常。






日常。




「なあ、アルベルト」
「却下です」

自分の袖を引く手を見下ろすこともなく、赤毛の青年は音速で答えた。
まだ何も言っていない、とユーバーは思ったが、どうせ自分の言いたいことぐらいわかって答えを返しているのだろうと考え、無意味な反論は止めることにした。
だが、自分の要求のほうを撤回するつもりはない。

熱砂の町、カレリア。
通りを歩く長身の美形二人連れに、すれ違う娘たちは気温より熱い視線を向けるが、勿論それが報われる筈もない。
「辞書より重いものは持てませんので」と平然と言うアルベルト、七面倒臭い物事を覚えるのが嫌いなユーバーには、例えばうかつに出歩けない雇い主のために生活必需品を仕入れる、といった仕事に関してどちらが欠けても成り立たない。
たかが買出しにいい大人が二人も必要だというのは非効率的な気がするのだが、どうやってもこのような結論に達するのだ。

機嫌が悪いな、とユーバーは少々肩を落とした。面倒だ。
アルベルトの情緒は不自然すぎるくらいに安定しているが、それだけに一度不機嫌になると扱いが難しい。

たかが人間の機嫌を伺う必要など、ユーバーには勿論ないのだ。だが、放っておくと一番被害をこうむるのもユーバーであるので、不本意ながらアルベルトの機嫌もユーバーの行動基準の中に少しは組み込まれている。
別に、刺々しい雰囲気を撒き散らすだとか必要以上に皮肉を言うとか目に見えて不快をアピールするような性質ではないのだが、地味に───当事者でも気付くか気付かないかくらいのレベルで、憂さ晴らしをするのだ。
例えば、一人で炎の英雄パーティーと鉢合わせをするようにこっそり仕組まれるだとか(本当に偶然のように細工するので厄介極まりない)、逆に戦闘の機会を減らされてストレスが溜まるだとか、とにかく碌な事にならない。

アルベルトの機嫌が悪くなったのは別にユーバーの責任ではない筈なのだが。




+++ +++ +++




事の起こりは今朝だ。
朝食の席に着いた破壊者リーダーが、こう言った。

「アルベルトは?」
「眠っています」

丁寧な手つきで紅茶を淹れながら、少女はそう答えた。

「まだ?昨日の夕食の時も寝ていたじゃないか」
「正確に言えば、昨日のお昼過ぎからずっとですね」

ルックは礼を言ってカップを受け取ると、秀麗な眉を少し寄せた。

「またか」
「またです」

軍師の生活は破滅的に不規則だ。ルックとて少しくらいの夜更かしはするが、彼は酷い。インソムニアというわけでもないのだろうが、二日三日は平気で、酷いときは五日ばかりも貫徹し、その後冬眠でもするかのようにぐっすりと眠り込むのだ。
ユーバーなど、必要もないのに夜十時に寝て朝八時に起きる小学生生活を送っているのに。
こうなると彼はいつおきてくるかわからない。さすがに計画に支障が出ないようには計算されているのだろうが、日常の細かなことについては無視されている確率が高い。

「ユーバー」
「嫌だぞ」

子供のようにふてくされた表情でユーバーは答えた。
何故自分がそんな使いっぱしりのような事をしなければならないというのだ。

「財布を貸せ。買い物なら俺が」

これだとて使いっぱしりなことには違いがないのだが、ユーバーはその辺りのことは軽く無視できる。
アルベルトを起こしにいくという小間使いのような役割よりは、買い物のほうが偉い気がする。無根拠だが。

「ユーバー……」

呆れたようにルックがため息をつく。

「お前はカフスボタンがどこに売っているか知っているかい?」
「カフスボタン屋だろう」

ユーバーは胸を張って答えた。
魚を売っているのは魚屋、肉を売っているのは肉屋だ。簡単すぎて臍が茶を沸かす。

「………おくすりを売っているのは?」
「おくすり屋だ」
「ひいらぎこぞうは?」
「ひいらぎこぞう屋だ!」

何故だか俯くルックの肩に、セラが気遣うように手を載せた。

「ルック様………ユーバーはこれでも進化したのです」
「そうだね……そうなんだろうね………」

ユーバーはずい、とルックの目の前に手を突き出した。

「さあ、財布を出せ。あんな寝惚け軍師などいなくとも、俺が立派に任務を遂行してやろう」
「ユーバー、最後にひとつ訊くけど」

いつになくにっこりと笑って、ルックがユーバーを見据えた。

「おつりを誤魔化されたときの対処法は?」
「即座に首を刎ねる」

ふふふふ、とルックは楽しそうに声を上げた。
そしてちっとも笑っていない瞳でユーバーに告げた。

「さっさとアルベルトを起こしておいで」

ユーバーが素直にその言葉に従ったのは、怯えなどという感情を覚えたからでは断じてない。
そして、一人で買い物が出来ないのなら、ユーバーがアルベルトを起こしにいかねばねらないという規則など何処にもないという事にユーバーが気付くことはなかった。




+++ +++ +++




ユーバーはノックを省いて扉を開けた。
カーテンが引かれたままの室内は、光が差しても薄暗い。

扉は開け放したままがつがつと大股三歩でベッドの傍まで近寄る。
はみ出た赤毛を見下ろす。この男の寝起きの悪さは承知していた。

睫毛すらぴくりとも動かさないその様子は、綺麗な死体のようにも見える。

この男を殺すのは、呆れるほど簡単だろう。
こうやって首に手を当てて、少し力を込めれば折れるし、剣をつきたててもいい。どちらにしろ数秒もかからない。
アルベルトが起きていたところで、ユーバーが殺すと決めてかかればきっと抵抗すら放棄する筈だった。

でもまあ、ユーバーにはそんな気はない。

殺せないのではない、殺したくないのでもない。
たいした理由ではない。殺すよりも、生かしておくほうが楽しいことをしてみせてくれる。それだけである。

「おい起きろ」

とりあえずベッドを蹴ってみた。ベッド枠が派手に凹み、部屋が揺れた。
この程度では起きないのは知っている。
だが、本人に手を出すと、うっかり殺してしまうとまではいかないが、うっかり骨くらいは折ってしまいそうなのだ。

「起き───」

ユーバーは再び振り上げていた足を止めた。
夢見るような薄ぼんやりした瞳が、虚空を見つめている。

起きた。

予想外の事態に驚かなかったといえば嘘になるが、たまたま自然に起きだす時間に重なったのだろう。
ユーバーはそう納得した。
アルベルトは一度瞬きをし、ゆっくりと上半身を起こした。大体、一秒につき五度程度進む動きだ。

ゾンビのような愚鈍な動作だが、起き抜けはこれが普通であるのでユーバーも気にしない。
ギクシャクと、錆びた体にオイルを少しずつ注していくような様子で、アルベルトは指先を少し動かす。ふと、その喉が震えた。

「もしも───」

かすれた声。
この男がもし、という言葉を使うのは珍しい。
背を向けようとしていたユーバーは、少しだけ興味を戻した。

アルベルトは焦点の合わないままの瞳で、こう呟いた。
虚空すら、その目には映っていないに違いない。




「私がもう少しだけ、無能だったら」




「そうしたらもっと───」
「寝惚けているのか?」

アルベルトの台詞をさえぎって、ユーバーはそう問った。

ユーバーにしては、一応少しだけ気遣いを含んだ台詞だったのだが。
次に見たらアルベルトはもう不機嫌だった。


よくわからない。




+++ +++ +++




ユーバーは諦めずに、前を歩く赤い後頭部へとしぶとく呼びかけた。

「おい」
「なんですか」

アルベルトはユーバーを振り返りもせずに答えた。
愛想のなさには構わず言い募る。

「アレが欲しい」
「なら買いなさい」
「買って来い」
「目を覚ましなさい」
「お前に言われたくない」
「私だって言いたくない」

ユーバーは駄々っ子のように両手を振り回して見せた。器用にも、買い物袋を持ったままだ。
通行人の注目が一段と濃くなる。それでなくとも目立つ風情なのに。

「財布を持ってるのは貴様だろうが」
「小遣いが必要ですか」
「貢げ」

往来の真ん中で、男が男に言う台詞だろうか。

アルベルトは無表情のまま、露天の主人から受け取った品物をユーバーに押し付けた。勿論貢ぎ物ではない、リストにあったうちのひとつだ。
ユーバーは荷物をいくら持っても疲れるというほどには感じない。せいぜい、動きにくいといったくらいである。

「貢げ」

繰り返された台詞に、アルベルトは一度目を閉じた。

「…………」

数秒して目を開けると、冴え冴えとした氷点下の視線をユーバーに投げ付けて、くい、とあごをしゃくった。
柄にない粗野な仕草だが、似合わないということもない。

ようやく目が覚めたのか、とユーバーは関係ないことを思った。
勿論、この後の運命などユーバーが思いやる訳がない。

アルベルトの機嫌が悪くなったのは別にユーバーの責任ではない、筈なのだし。