信じる道。
その瞬間、アルベルトは微笑みを消した。
そして己の服の裾を掴む震える手、血を分けた弟の手に、手袋越しに触れる。
「……………………」
まるで。
それが当たり前のように、体温は少しも伝わらなかった。
それが、当たり前のように。
沈黙、いや静寂の数秒と、眺めるのではなく見つめる視線。
それだけをシーザーは確かに兄から奪い取った。白いコートの端を掴むことで、確かに。
何の損得勘定もなく己のカードを晒して得たその時間。シーザーは誰にともなく祈っていた。
泣き喚く子どもの駄々よりみっともなくていい、それで願いが叶えられるのなら。
つれていかないでください。
つれていかないでください。
じいさん。かみさま。たのむから。
おれからなにもかもをうばわないでください。
幼い頃は望まずとも傍にあった手。シーザーはその感触を覚えている。
確かにまだ覚えているのだ。
なあ、俺のおねだりなら。
ちょっと困った顔をしながら、それでも聞いてくれたじゃないか。
縋るような目になってしまったかもしれない。
それでも構わない、とさえシーザーは思った。
弱さをひけらかせばこの手は奪われないのなら、自分はいくらでも急所を晒すだろう。
「行くな」
「……………」
「行くなよ」
歴史の道行きになど興味はなかった。
正しい道を進むことなんかより、シーザーには大事なものがある。
これが自分のエゴなのだと、そんなことはとっくに理解していた。
ぎゅう、とコートの生地を握る。
赤ん坊みたいに指を丸くして。
………あの頃より、目線は近くなった。
ざあ、と風が吹いて、兄の黒く染まった髪と自分の赤毛が揺れる。
眩しいものでも見るかのように目を細めると、アルベルトはシーザーの指を一つ一つ外していった。
「聞かなかったことにしておく」
諭すような声。
いっそのこと、それが冷酷な響きを帯びていればここまで傷つくことはないのに。
「お前も軍師ならば己の内など夢にも見せるな」
シーザーは、外される指に特に抗う力は込めなかった。そんなことをしてなんになるというのだろう。
この男の意思を覆せないのなら。
震える喉を、シーザーは無理矢理に開いた。
「………七年後には、俺も今のあんたの考えてることがわかるようになるか?」
「否」
アルベルトは一瞬の間もおかず否定した。
「何年たとうが、きっとお前にはわからない。そういうことも、この世にはある」
じっとシーザーを見つめる。
成長し、自分の足で立ち自分を追いかけてくるようになった弟。
似ているようでやはり色合いが違う、澄んだその碧の瞳。
似ているようでやはり色合いが違う、鮮やかなその赤毛。
───我らの進む道は。
アルベルトは唇を開いた。
「ユーバー」
呼びかけに答え、アルベルトの背後に黒い影が現れる。
見覚えのあるその姿に、シーザーの体が緊張した。山高帽を目深に被り、斜めに立つその存在は、過去と寸分たがわぬように見える。
戦場を駆ける悪鬼。正しく死神の名にふさわしい存在。
アルベルトはそれに向かって身を翻した。
白いコートの裾が舞う。
それに、爪跡くらいは残っているのだろうか。
ユーバーは退屈そうな顔のままアルベルトに確認を取った。
「もういいのか?」
「ああ」
シーザーをその場に残し、アルベルトは足を踏み出した。
振り返らないまま、告げる。
「俺はこの大陸を出る」
追って来い、そう聞こえたのはシーザーの勘違いだっただろうか。
金色の光に飲み込まれ、アルベルトはユーバーと共に姿を消した。
シーザーは荒野に一人立ち、それを眺めていた。
一番近くにいるのに。
本当には触れられない。
じいさん。
あんたはこの道をどうやって生きていったんだ?
+++ +++ +++
「………別大陸、か」
転移した先、ウォルトの居城の一室の椅子に腰を下ろすと、ユーバーはポツリと呟いた。
「本気なのか?」
「ああ。ハルモニアではひとまず上々の結果が出せた」
「ふむ」
「だがこれ以上の利益は望めない」
アルベルトはだらしなく腰掛けているユーバーの後ろを通って窓際に立った。
「もう既に仕度は進めている………あちらではゲリラ運動が盛んな様子だ、これからの歴史の流れの中心になるだろう」
「貴様の勤勉さには少し感心する」
ユーバーは呆れたように溜め息をついた。
アルベルトはいつも精力的に活動している。ひと時も留まらず、着実に望んだ結果を手に入れて。
自分が今までこの手で斬った人の数と、アルベルトの策により失われた命の数、どちらがより多いだろうとユーバーは真剣に考えた。
ユーバーが生きた年月と、アルベルトのそれとは比べるべくもない。
黒衣の悪鬼はしばし沈黙し、そして納得した。
成る程、生き急ぐとはこういうことをいうのかと。
ちらりと視線を流した。
窓辺に立つアルベルトの後姿が目に入る。
数年、この男の傍で血を浴び続けている。
勿論ずっと共にいるわけではない。アルベルトはユーバーを拘束せず、またユーバーが拘束されるわけがない。
気紛れにユーバーは消え、また気が向いたらふらりと戻ってくる。
それだけだ。
「お前はどうする?」
声だけでアルベルトがそう訊いて来る。視線は窓の外に固定されたままで。
ユーバーはあまり考えずに答えを返した。
「向こうでも幾らか時を過ごしたことがある。まあ、退屈ではない場所だ………貴様はそこでも戦を起こすのだろう?」
ユーバーは椅子に体重を預けた。子どものように足をぶらぶらとさせる。
こちらを振り返ったアルベルトと目が合い、この男は今何歳だったかと、ふと思った。
今だけだ、ユーバーがアルベルトの隣にいるのは。
瞬きの間に、彼はその生を終える。自分とは違う脆いものだ。
浮かんだ疑問が勝手にユーバーの口をついて出た。
まるで塵芥のようなその生。
その軽いが故の重みを。
「――――何の為に」
思い出せる過去を振り返る。
ウィンディ。
ルカ・ブライト。
そしてルック。
皆、自分に束の間の混沌を与えてくれた。皆、強い目的を持っていた。
そして皆、歴史の狭間に消えていった。
「何の為に、貴様は生きる」
ユーバーの予想通り、アルベルトは口の端を吊り上げて笑んだ。
「悲願の達成、その為に」
「くだらん」
そんなことのためだけに、お前は同族を屠り血族を見捨てるのか。
ユーバーはきょとんと不思議そうに首をひねり、アルベルトを苦笑させた。
この悪鬼は人ではないくせに、アルベルトよりも人の振りをするのが上手い。
「ああ。俺もそう思うよ」
全く、くだらない。
「教えてやろう、ユーバー。お前が知り得ない人の性を」
アルベルトは留め金を外し、窓を開けた。
カーテンが翻り、新鮮な空気がどっと室内に侵入する。
もうすぐ日が落ちる。
光がコートを赤く染める。
「人というのは生きる目的を必要とするものだ」
アルベルトを照らすのは、いつも夕日だ。
「俺の場合は都合のいいことに、爺がそれを決めてくれた。捜す手間も省けた」
嘲る様な光を瞳に宿らせて、窓の外を見るアルベルト。
わざわざ口を挟む気にもなれず、ユーバーはアルベルトが只語るままに任せた。この男が自身のことを話すのは、そう頻繁にあることではない。
「自分の無力を痛感したのは九歳の頃だ」
ハイランド消滅───否、デュナン国成立、と言う方が正しいのだろうか。その時だ。
ユーバーはいつも、滅びる側と共にあったので、ハイランド消滅といった方がしっくりとくる。
「懐いていた人間が死んだ。今なら結果を変えて見せることも出来るのにな」
「……………………」
これは対話というより独白なのだと、ユーバーは気付いた。
音を立てずに立ち上がり、窓を閉める。
アルベルトは、ゆっくりと首をめぐらせた。
視線が交差する。
「奴らは国の為に生きた。俺はこの血の為に生きる。他に執着するものもない」
ユーバーは手を伸ばして、アルベルトの頭を撫でた。
アルベルトはされるがまま、目を閉じてその感触を受け入れる。
赤い部屋。
「生きる意味か。そんなものは幻だ」
だからお前の求めるような、死の意味すらも見つけられない。
穏やかな赤の中で、ユーバーは残酷に宣告した。
「知っている」
アルベルトはあっさりと返した。
「だが、人というのは我が儘だ。知っていても認めたくない事というのが、意外に多い」
「この俺も、人だということだ」