夢想を追う人。
















ふ、と背筋を走る予感。
放心していたシーザーの瞳に焦点が戻る。

この気配。
この感覚。

「…………………………」

シーザーは静かに喉を鳴らすと、ゆるゆると時間をかけて振り返った。
永遠にも感じる、その刹那。

ごう、と風が吹く。

シーザーの赤い髪が揺れた。
冷えていく体温とは裏腹に、感情は高ぶるばかりだったのに、今はもう全てが凍り付いていく。
この男にだけは醜態を晒したくない。そんな努力をしても無駄、全て見抜いていると、その瞳が雄弁に語っていても。
この暗緑色に晒されるたび、いつも思う。

支配されている。

もしやこの瞳に映るもの、この肌が感じるものでさえ、この男の計算が介入しているのではないかと、まさかありえないことすら思い描く。
自分と同じように風に吹き散らされている髪の色は自然のままとは違っているけれど、他の存在と見間違えたりはしない。

「アルベルト…………!!」

体には同じ色の血液が流れているはずのその男は、何事もない、記憶にある限りでは過去に実家で偶然に顔をあわせた時と全く同じ調子でいつもの台詞を言った。

「久しいな、シーザー」

『よくものこのこと顔を出せたな』、などという類の言葉を、シーザーは使う気がなかった。
そんなものでアルベルトの情緒は揺らせず、自分の器量の浅さを見せ付けることにしかならない。

『何をしに来た』、そう問う気もなかった。
今まで幾度もアルベルトとは敵味方に別れ争ってきたが、この男の意図を阻止できたことはない。
こうして現れたのもその一環だとすれば、理由を聞いてはむしろ余計な心理戦に巻き込まれてしまう。どうせその唇からは本心など少しも零れ落ちはしないから。

口に出来たのは、こんな揶揄だけ。

「………こんな地方のちっぽけな戦に、わざわざ名前も、髪の色まで変えてご苦労な事だなアルベルト?」
「このような些事にシルバーバーグの名を使う気にはなれなくてな」

挑発だと、わかってはいる。
只、アルベルトの言葉は容赦なくシーザーの神経を削り取るのだ。
交錯する視線。

「そんな大層なモンかよこの名が?」
「………お前にはわからぬのだろうな、名の意味と言うものが」

アルベルトの顔にちらりと不快げな感情が過ぎったのを見抜ける者はそうはいないだろう。
幸か不幸か、シーザーは数少ないそのうちの一人だった。
アルベルトが唯一やや固執を見せるのが、軍師、それであるということである。

「……………………」

探り合うような沈黙。自身の鼓動だけを聞く時間が過ぎる。
痺れを切らしたシーザーはなるべく硬質な声を作って、本題を促した。

「………わざわざその胸糞悪いご尊顔を晒しに来ただけか?用件があるんだろ、さっさと言えよ」
「すぐ済む。こう言うだけだからな」

アルベルトは染めた黒髪を掻き揚げて、その唇に嘲笑を乗せながら囁いた。


「駒たちに哀悼を捧げている暇があるなら、このような失態を見せずにすむ策を考えろ」


シーザーの目の前が赤く染まる。
当然、アルベルトの姿も。

自身の計略で出来た巨大な墓の前に立ちながら、アルベルトの口から出るのはあくまでそんな言葉なのだ。

「………………………!!」

シーザーは非常な努力をして、罵倒を飲み下した。
この結果を招いたのは、アルベルトというよりは自身の力不足であるのだから。

シーザーは震える拳をぎゅっと握り締め、アルベルトとの距離を詰めた。
立っているのは同じ地面なのに、この男はいつもシーザーとは違う世界にいる。

「………確かに、俺はお前にはまだ遠く及ばない。お前と面と向かって勝てたためしがない」

吐き捨てるようにシーザーは呟き、繋げた。

「お前の策は見事だよ、一分の狂いも隙もない。お前の頭の中では予想の外れる余地がない。負けたと見せてもそれすらフェイクだ、勝利、勝利、それに続く勝利………」

軍師として、アルベルトは完璧なのかもしれない。
それでも、アルベルトの立てる策には欠けているものがある。
彼自身も、同じものが欠けているのかも知れなくて。それはぞっとする想像だった。

「そして人の屍の山だ…………!!」

阿鼻叫喚の地獄絵図。幾千幾万の叫びが、彼の盤面には満ちている。
シーザーにはわからない。
百の敵を屠る為には、十の味方を切り捨てるそのやり方が。
百の味方を守るため、百の敵を斬り捨てる自分も同じ化け物なのかもしれないけれど、しかしそれでも。

彼のやり方は、あまりに感情を考慮しなさすぎる。
世界はチェス盤ではないのに。
白と黒の線引きが、アルベルトの中では異常なまでに鮮明で。

………彼が、そして自分が、何処で間違ったのかシーザーにはわからなかった。

こめかみがずきずきと痛み始める。シーザーはこみ上げる吐き気を必死に抑えた。
しかしアルベルトは冷静なまま論文を読み上げる。

「俺は策を立てるときに、余計な人死になど出したことはない。駒の無駄遣いなど愚の骨頂」
「だけどそれでもお前の策で大勢の人が死ぬ!」
「勝利のためだ」
「そんなモンより被害を抑えることを考えろよ!」

シーザーの弾劾に、アルベルトは表情を消した。

「──────」

数瞬の沈黙の後。
まるでそれが本当に、ちっともわからないことであるかのように、アルベルトは己の弟に問いかけた。




「何故だ?」




勝利をもたらさない、戦。

「それは………それは意味のある死なのか?」

アルベルトは、シーザーから顔を背けた。
長めの前髪が、瞳を隠す。

「ああ、お前の言うとおり、双方程々の損害に抑えて引き分けにすることも出来なくはないのだろう。だが、どうしたところで戦をすれば人死にが出る」

なんのために。
なんのために戦う。

屍で堤を築くのは、何のため。
溢れる赤い川は。

「痛み分けなど、それこそ無駄な死でしかない。それでもお前は、只の感傷に流され生温く争いを長引かせることを望むのか」

シーザーの胸が凍った。首筋が震える。
アルベルトの表情はわからない。闇色に染められた髪が、頬を覆って。

「それでも何か!何か犠牲を抑える方法が有る筈だろっ!!お前には…………」

ぎゅ、と握り締められた拳が、痛みを訴える。

この目の前の男には、大事なものなど何もないのか。
すべてのことが、そんなに合理的に考えられるものか。

「勝利以外のことは全て無意味なのかよ………!?」

シーザーは瘧にかかったように身を震わせた。

もっと、なにか別の手段があるはずなんだ。
自分には思いつかなくても、この男なら。

割り切ってはいけないものを、割り切らないままに進む方法が、見付けられる筈で。

それは、もはや盲目的な信仰に近いものがあったかもしれない。シーザーはそれには気付かなかったが。
いつだって、どんなときだって、アルベルトは軽々とシーザーに越えられないものを越え、見えないものを見た。七年の差は消して埋まらず、いやそれだけでなくその資質にも大きく違いがあった。

「………考えろよ!!お前には───」

シーザーは、そう信じている。それは幼いころからの、生まれてからの、絶対の理。

「お前にはその力があって」
「俺は」

シーザーの台詞を半ば遮って、アルベルトは固い声で言った。

「駒の無駄遣いをしたことはない」

いつだって。
どんなときも。

勝利を得るため一番良い方法を取った。少ない損失で勝てるならその策を。
それは誰だって、そうだろう?

何のために。
何のために死なせる?

全ては。

「───勝って戦乱を終わらせるためにだ」
「なら始めなければ良かったんだ!最初から!!」

金切り声を上げて、シーザーは叫んだ。

「お前なんかが操っていいものじゃない!お前の意思で起こした戦が………どれだけ有る!?」
「数えたことはない」
「このっ…………!!」

激昂し、シーザーはアルベルトの胸倉を掴もうと手を伸ばす。
それを一歩後ろに下がることでかわして、アルベルトは言った。

「だが、無駄に起こした戦などない」
「じゃあ何のためにだ!」
「悲願だ」

短いその響きが、シーザーの心を荒らす。
そんな、只のちっぽけな言葉で、どうして縛られる。

「…………在るべき歴史の姿とやらか」

シーザーは激しく首を振った。

「もう聞き飽きたんだそんな世迷言は。目を覚ませよ、そんなのは只の妄執だ!………爺さんの、この名の呪いなんだ………!!」
「………我が弟よ。お前にもきっといつか、わかる」
「!!」

我が弟。
その単語の響きに、凶暴な気分になった。何が気に入らないのかわからない、癇癪を起こした子どものように、頭の中で何かが破裂する。
シーザーは、叩きつけ吐き捨てる様に、口を開いた。

この血!この髪!
延々と続くこのしがらみ!

そして目の前の男。

「───お前と縁は切った!お前なんか俺に何の関わりもないっ!」

自身の荒い呼吸を聞きながら、シーザーはその言葉の響きを反芻する。
そしてアルベルトは、ゆっくりと目を伏せた。

「……………お前の兄ではない。お前がそう言うなら、きっとそうではないのだろう」

平坦に言ったその声が、僅かに寂しげに聞こえたのは、きっとシーザーの方が揺れていたからなのだ。

「だが」

この手首を切ってあふれ出すのは。



「俺はアルベルト・シルバーバーグだ。それさえ否定するのか」

眼を閉じて、見えるのは闇。
その名の意味しか、自分には与えられなかった。

「なら俺は、何のために生まれてきたんだ」



戦場でしか咲かない花。
血で染まった赤い花。元の色など、忘れてしまった。

「なにを言って………」
「俺がいるから血が流れるのか?違うだろう。俺がいなくても、人は戦をする」

ならば少しでも、望む方向に。
在るべき歴史の姿に。

人が人として自らの上に君臨し、調律しえる世界を。
全ての犠牲が、いつかなにかの礎になるように。連綿と続く因果の鎖の、その意義を。

「………俺がどちらの側につこうが、敵だろうが味方だろうが、正しかろうが間違っていようが。流れるのは同じ人間の血だ。ならば利用させてもらう」

泉のように溢れる痛み。
大気に満ちる悲鳴。
果てしない地に広がる骸。
その全てが。

無駄ではなくなること。

それだけが免罪符。
血を吸って咲くこの花の。

───躯を糧に、戦場に咲くこの生の。

「軍師が考えるのは、効率よく人を殺す方法だからな。それならばせめて意義ある死を、俺は求めよう」

いつの間にか開いていたアルベルトの瞳が薄く光り、シーザーを見つめている。

「───お前はそれを夢想だと言うか。狂っていると」

少しも揺らがない、曇りガラスのような暗緑色。

「やはりお前は再び俺に、『世界はお前の思い通りになんてならない』と。そう言うか………」

シーザーは震える唇を開いた。
何を言えばいい?

わからなかった。

「そ、んな………そんなの、は。お前に、そんな権利なんて………そんな義務なんてない!」
「だが───今更お前が何を言ったところで、俺の道はこれしかない。そう決めている」

アルベルトは、優しく微笑んだ。

「俺は、転がす骸を取捨選択しながら、必要とあれば躊躇いなく犠牲を出すだろう。自分の意思で敵の血の海の中を渡り、味方にも恐れられるだろう」

ろくな死に様が期待できない。
冷血非情な、人間味のない男には。

駒を動かす、駒。

「忌み嫌われるべき存在だ。だが、お前もまたそうなのだということを、覚えておくがいい」
「やめればいいじゃないか!俺もやめる!!」

逃げようよ。

悲鳴のような声を上げて、シーザーは兄のコートを掴んだ。

こんな世界は捨ててどこかへいこう。白い花の咲く丘へ。
目を閉じても世界が無くなるわけじゃないと、誰かが言ったけれど。

「アルベルト…………」

世界が見渡せる場所。
そんなところにいきたくない。


縋るように、シーザーは兄に向かって手を伸ばした。
世界が、見渡せる場所。




────そんなところに、いきたくないんだ。