気のない挑発。

















「う………………」

シーザーは、荒れた景色を目の前に、呆然と立ち竦んでいた。
土地は隆起し、ところどころから折れた木の幹や根が突き出している。

信じられないことだが、この下に。
この下に───シーザーの駒たちが、いるのだ。土砂に押しつぶされて。

救助はもとより不可能だった。

「ノーヴル・ブライト・ペディグリ………!」

シーザーはともすれば震えそうになる唇で、ぶつぶつと繰り返し繰り返し、その名を呟いた。

なんという不注意か。自己嫌悪で気が狂いそうだ。
もっと深く考えていれば。

手がかりは十分、与えられていたのに。

これは罰だ。相手を陥れる為の策を立てることにばかり気力を費やし、他を気にしなかった罰だ。
………アップルならば気付いたに違いない。彼女は生真面目とでも言っていいような根気で、全てのことを一生懸命把握しようとするのだから。

「畜生ぉ………!!」

シーザーの兄の名前は、アルベルトと言った。
いつだったか、その名の意味を調べたことがある。あれは、古シンダル語の"Adalbert"に由来するのだ。
アダルベルトとは"adal"(高貴)と "beraht"(輝かしい)の合成語である。

だからアルベルトの名には、『輝かしい血統』、『高貴さを通して輝く』という意味がある。
ちゃんと知っていたのだ、自分は。

「何で気付かなかった………」

ノーヴル・ブライト・ペディグリ。
記憶を探って、その名の意味をひとつひとつ暴いていく。足を踏み入れたこともない、遠いファレナの女王国の言葉を当てはめてみることによって。

noble 『高貴な』
bright 『輝かしい』
pedigree 『血統書』

「………ざけやがって!」

最後の単語が『血統書』。
その皮肉に、シーザーの胸にどうしようもない憤りが沈殿していく。

それが兄に対してなのか、それとも自分にかは判明しなかったけれど。


シーザーは唇を噛み締めて、目の前の光景を見つめ続けた。
それより他に、自分に今出来ることはないような気がした。





+++ +++ +++





怒りではなく、なぜか面白そうな色を目に宿している悪鬼が、アルベルトの前に立っている。
ひゅ、と言う風切音と閃光。一瞬のうちに黒いスカーフの前には鋭い剣の切っ先が突きつけられ、今にも食い込みそうだった。

「───随分と舐めた真似をしてくれたな」

ユーバーはまったくいつもと変わらない姿だ。怪我すらしていない。
いや………山高帽の端が少しだけ焦げ付いていたが、変化といえばそれだけである。

「…………………」

アルベルトは表情を消して、ゆっくりとひとつ瞬きをした。
それを見て、ユーバーは怪訝そうに首を捻った。

「おい………何を間抜けな表情をしている?」

突きつけた剣に本物の殺意など乗せてはいなかった。仮にそうしていたとしても、それでアルベルトが表情を変えることはない。
恨みから出た行動ではなかった。確かにアルベルトの立てた作戦にユーバーは雑兵とともに巻き込まれたが、何ほどのことでもない。せいぜい、飼い猫の微笑ましい悪戯、軽く爪を立てられた程度のこと。

「もしかして、俺があの程度で死ぬとでも思っていたか?」

アルベルトは以前沈黙を守ったままで。

「………………」
「残念だったな」

だがユーバーは知っていた。アルベルトがユーバーの生存にそこまで情緒を揺らすわけはない。

そもそも、アルベルトが能動的にユーバーを殺そうと思っていたとは考えにくいのだ。アルベルトの生死をユーバーが気にかけないように、ユーバーの死をこの人間がわざわざ望むだろうか。憎悪というのは、愛情と同じように執着のある相手にしか向けられないものだ。
無関心というのとも少し違うが、そのようなどろどろとした関係を築いていたわけではない筈だ。

突きつけている刃を少しだけ進ませる。
別に本気で脅しているわけではないので、お遊びの範疇だ。

いつものように片手で剣を除ければ良いのに、何故か今回だけはやや呆然とした様子でこちらを見たままのアルベルト。反応が返ってこない。
気にならないわけがないし、気に入らなかった。

「何とか言え」

それから数秒後、アルベルトはようやく口を開いた。

「………お前の生死は気にしていなかったし、生きていても驚くには値しない。お前は人間ではないしな」
「ならば何故そのような間抜け面を晒す。俺を捨て駒にしたことを気にしていたわけでもあるまい?」

アルベルトはじっとユーバーを見詰めた。そして尋ねる。

「………お前、どこか怪我をしたか」
「何だ気色の悪い………貴様の台詞とは思えんぞ」

ユーバーは顔を歪める。ユーバーの怪我の具合など、必要もないのにアルベルトが憂慮したことがあっただろうか。
確かに炎に抱かれてダメージは受けたし、土砂崩れにも巻き込まれた。勿論死ぬほどではないが被害は少なくない、並の人間ならば十回は死んでいる。
しかし、ユーバーは別に怒ってはいなかった。無論そのようにふざけた目にあわせてくれた男に対する制裁は多少考えていたが、それもペットの躾レベルの話だ。それくらいはアルベルトには理解できるはずなのに、これはどうしたことだろうか?

ユーバーの疑問が解けないうちに、アルベルトは言葉を重ねた。

「───俺はお前を見捨てた」
「ああ?」
「お前は害を被ったな」
「わけがわからん、さっきから何を言っている」

ユーバーははっきりと不愉快そうな表情を作った。何が言いたいのか、全く意味不明だ。
今更良心の呵責などというものを感じている筈がない、何か裏があるのか。




「…………なのに何故、お前は戻ってきたんだ」




アルベルトはそう言った。
真意を得ようと、ユーバーはその暗緑色の目を覗き込む。
だがそこからは何も読み取れなかった。呆れ果て、ユーバーは肩をすくめる。

「貴様は何が気に入らない?」

ユーバーは突きつけていた剣を跳ね上げると袖に仕舞った。行きがけの駄賃のようにアルベルトの前髪をいくらか奪いながら。

「戻ってくるなと言いたいのか」
「ルルノイエでは真っ先に逃げたと思ったがな」
「………何が言いたい」
「少し皮肉を」

アルベルトはため息をついた。
ゆるゆると腕を持ち上げ、ユーバーの胸に手の甲を軽く当てる。

「お前が最後まであいつらを見捨てなければ、あの時、歴史は変わっていたかと思ってな」

血に塗れた刃のように、ぬめり、とアルベルトの瞳が煌いた。泡立つわけではない沼の表面。
ユーバーはその言葉の意味するところを察して、眉を寄せる。

「お前、もしかして―――」

十五年前のハイランド皇国消滅のことは覚えている。言うまでもなく、当時九歳ではあったがアルベルトが忘れているはずがない。
ユーバーのあずかり知らぬ所で、何らかの執着がそこにあったとしたら。

俺を憎んでいるのか

ユーバーはゆっくりとそう尋ねた。
アルベルトの眉がやや持ち上がり、瞳の中の光がほどける。

く、といつもの唇の端だけ吊り上げる笑みを浮かべ、アルベルトは腕を下ろした。

「───大丈夫、お前の事は気に入っているよ」
「ふん」

気に入らん。ユーバーは鼻を鳴らしてアルベルトを睨み付けた。
どこまでが仮面なのかよくわからない。むしろ素顔などないのかもしれないと思う。ユーバーにとってアルベルトは、惜しくはないが興味深い存在ではあった。

「あんな目で見ておいてよく言う」
「愛しているといって欲しいか?」
「……………いっそ嫌いだと言わせたいな」

ユーバーは人差し指と親指で、アルベルトの髪を乱暴につまみあげた。
引き攣れるような痛みに顔をやや歪めるのを観察する。

「いい加減に、元の色に戻せ」
「その方が好きか?」

その問いには答えず、ユーバーはからかうように目を細めた。

「…………帰りがけにな、しょげた赤毛の餓鬼を見たぞ」

アルベルトは、ふ、と一筋息を吐き、オッドアイを神妙に見上げた。
その目が続きを促している。目論見があたったことに、ユーバーは小さく満足した。

「───別に泣いてはいなかっただろう?」
「確かにそうだが…………苛め過ぎたな、あれは」
「実の弟だとて手加減などする筈もない」
「それは逆だ」

ユーバーは呆れたように言った。アルベルトはその次の台詞を先読んで苦笑する。

「弟だから余計に苛めるのだろう?あの餓鬼も不幸な事だな」
「彼奴もシルバーバーグだ、甘えは許されまいよ」

アルベルトが一瞬その目を鋭く光らせる。その光をユーバーは気に入っていた。
軽く肩をすくめて見せる。

「わざわざ虐めに行かなくとも良いだろうに」
「追われっぱなしも飽きたからな………そもそも俺を超えるつもりなら、これくらいで折れていては話にならない」
「七歳下相手に容赦のないことを言う。あの窪地……今は平地か?あそこに一人で立っていたぞ、見るからに哀愁を漂わせて、風に吹かれながらな」

その言葉に、アルベルトは容赦なくこう返した。

「兄としては、嘆きではなく打開策を考えていると嬉しいのだが」
「………見事に歪んだ兄弟愛だな」

アルベルトは頷いた。自覚は溢れるほどある。

「勿論歪んでいる。もはや修正不能なまでに」
「歩み寄りの努力は?」
「望んでいない」

そんなものは、必要ない。
アルベルトはユーバーの肩に手を乗せると、頬を擦り付けるようにして呟いた。

「連れて行け」

まだ戦は終わっていない。
何処に、とユーバーは問い返さなかった。自明である。

煌く金色の波が生まれ、広がり二人を飲み込む。



そしてすぐに消えた。