軍師。





『軍師』








広大なチェス盤を眺め、黒髪の男は目を眇めた。

華麗な陣形と平凡な陣形、見え透いた罠と巧妙な罠、複雑な地形と平坦な地形、凪いだ天候と荒れた天候、兵士の高揚と怯え。
それらはどちらが良いというものではない。
優秀な駒と劣った駒、勝敗を決定付けるのはそんなものではない。
重要なのは。

相手の思考を読み、機会を逃さず、常駐思考に囚われず。
その日、その時、その瞬間の全てを察し、把握し動かす。
自軍の動き、敵軍の動き、兵の心理状態、温度、湿度、風向き、天候、季節、高低差、政治の動向、士気、兵数、兵力、利害関係、備蓄、武器能力、進軍速度、伝令の動き、地形、主の意向、敵軍師の思考、そして自身の能力と思惑。
軍師は夢想ではなく現実を描ける。
どんな状況でも、どんな自体にも、すぐさま策を組み立て、利用法を模索し。必ず一手先んじる。
必要とあれば演技も一流に。あからさまな罠や隙を見せ、凡策を装いながら牙を剥く。

罠。その先の罠。罠と見せかけて実。

攻め立てる瞬間、退く瞬間、何かを捨て何かを得る判断。瞬きの間の駆け引き。
ブラフと引っ掛けが高度に絡み合う空気の中で。
最高のタイミングで、最善の指示を。

血が騒ぐ。

盤の上の全てのものは作戦のうちにあり、盤の外の全てのものは計算のうちにある。
不利は細工して有利に変えればいい。
不備は操作して良策に変えればいい。


自分にはその力がある。
相手の先の先を読み、全ての現実を流れる数式のように結べる筈なのだ。


ノーヴルの視線の先には、砦がある。これからその砦を攻め落とすのだ。
彼の目的は圧倒的な勝利である。

砦はその厳めしい外観に、内側の伺えない堅固さを滲ませて、うかつに手を出せば待つのは破滅だけだと周囲に教えているかのようだった。いや、その威圧感は内部に潜むかの青年の名の影響かもしれない。
無防備に見えるが罠がない筈がない。いやそう見せかけて本当は何もないのかもしれない。ひっそりと背後に伏兵を潜ませているのかもしれない。いや、伏兵は横手にいるのかもしれない。ひょっとしたら今現在すでに相手の策が進行しているかもしれない、決定的な敗北が忍び寄っているかもしれない。
その砦を見るものは、否応なく思考の迷宮に突き落とされる。
それを支えるのは、並び立つものなどいない程高名な軍師なのだから。

「…………………」

ノーヴルの傍らに立つウォルトは、威厳を漂わせ真っ直ぐに背を伸ばしていた。
只、近くに寄ればその瞳に不安のかげりが見えることは否めない。

実際、ウォルトは怯えていた。

彼を支えているのは、相手に比べればはるかに実績のない自軍の軍師に与えられた言葉である。
『貴方はキングです。名に恥じぬように』
その一言でウォルトは人間らしさを外に出すことを禁じられたのだ。
しかし動悸が速まるのを止めるすべはなかった。ウォルトの背は冷や汗でびっしょりと濡れている。

「え…………?」

ふと、微かな呼気が漏れ聞こえ、ウォルトは隣に視線を流した。砦を眺めているノーヴルが、僅かに笑いの気配を漂わせた気がしたのだ。

初めて会ったときから、ノーヴルは余裕の表情を崩したことがない。そして今もだ。
だが、たとえどれ程の自信家だとしても、シルバーバーグを相手にして敗北の不安が全くないなどということはない筈だ。ウォルトは、ノーヴルの態度は半ば虚勢だと予想している。
まさか本気で不安を感じていないということは有り得ない。その場合ウォルトの破滅は決定的である、彼は狂人だ。

ウォルトは首を振った。

しかしこの男に頼るしかないのだ。
尊大で、不遜な。そしてどこか薄暗い深い淵を思わせる瞳を持つこの男に。

ノーヴルは、やや顎を上げた。目線が上向きになる。
自然とそれを追うように、ウォルトも砦に意識を戻した。

直後。ざわり、と兵達に動揺が走った。

「あれは───!」

ウォルトの背筋がぴくりと痙攣する。

砦の上───何より目立つ指揮台に、炎が点ったのだ。
暗い抑えた色彩の中、鮮やかに輝く緋色。燃え立つ光。

いや、あれは炎ではない。

その血筋を示す色、その名を戴く者の証明、あれは知らぬものとてない。
歴史に刻まれる策謀の一族。
シーザー・シルバーバーグの髪色だ!

畏怖がさざ波の様に広がる。

ふ、と今度は勘違いでもなんでもなく、はっきりとノーヴルが笑った。
咄嗟にウォルトはそちらを見やる。

「………大仰な演出だ」

やはり小賢しい。独り言のようにそう呟くと、ノーヴルは砦から視線を外し雇い主を見据えた。
ぞくりと走った先程とは違う種類の悪寒に、思わず一歩足を引くウォルト。

ノーヴルは構わず唇を開いた。

「完璧な勝利がご覧になりたいですか」

淡々とした、声音。何処までも暗い、まるで沼に沈むような深い髪の色。
ウォルトは戦慄した。

これは───この男は、既に。
この先の運命を読んでいる。

「二刻後、お目にかけましょう」

遥か彼方の赤い一点に視線を戻し、ノーヴルは宣言した。
黒髪が、風に靡いた。





+++ +++ +++





「合図を」

ノーヴルは振り向きもせずそう言った。

何の気負いもない声で放たれたその台詞に、兵士は思わず喉を鳴らす。
聞き間違いではなかったことは明白だが、それを望んでしまう。

合図。

それを上げれば、伏兵部隊があらかじめ指定していた地点に向かい火矢を打ち込むことになっていた。それは前から承知している。
だが。
戦いが始まる前に何故か既に決められ、合図により攻撃を実行するその部隊だけに教えられていた目標地点は、現在敵味方入り乱れての混戦模様。
否、今その地点に集結しているのは敵方の兵のほうが多く、それもそれは相手の兵力の大部分である。それらを全て殲滅すれば勝利は決定的だが───必ず味方も巻き込まれてしまうに違いない。

集団戦闘の際、正面以外から敵に攻められるのは致命的である。つまりなんとしても相手の腹か、背後をとろうとするのが定石。
シーザー・シルバーバーグは、数で勝るこちら側の部隊を少数に分断し、動きのとりにくい窪地におびき出して全方向から取り囲み攻めるという作戦を取った。
こちらに十分なダメージを与えた後は砦に籠もり、追撃をかわすつもりだろう。いわゆる、ヒットアンドアウェイ戦法の亜流だ。

しかし相手を逃げられぬ場所に追い込むということは、自分も逃げられぬ場所におもむかねばならぬということだ。
ならば罠にかかった振りをし、わざと向かわせた少数の囮もろとも火に包んでやればいい。窪地は乾燥した草原だ、最低の犠牲で最高の効果を引き出せる。
少々の良心の呵責に目を瞑ればの話だが。

ノーヴルは簡単にやってのけるだろう。
合図を、と言われたときに既にそう理解はしていたが、兵士は思わず聞き返した。

「よ、よいのですか。ユーバー殿もまだあそこに………」
「同じ事を二度言わせないでいただきたい」

暗緑色の光が甘い毒を含んでこちらに向けられている。
兵士は一瞬息を呑むと、諦めたようにうなだれた。

「わ、わかりま………」

その時、相手の合図が先に実行された。
黒い砦の上部、その指揮台では、目の醒めるような赤い旗が振られている。

「ああっ!?」

ポーンのひとつが声を上げる。
その場の全ての者の視線が、盤上の一箇所に集まった。

赤い旗、その合図で敵の伏兵が姿を現したのだ。
今、敵の主戦力が終結し戦いを有利に繰り広げている窪地の上。そこに出現したその一群。
その辺りは、高台の森だった。窪地全体を見渡せ、窪地からは姿を隠せる格好の場所。

「!!」

ウォルトは息を呑んだ。
軍師が作戦を説明したとき、ウォルトは言ったのだ。地図を指差し、
『その盆地に矢を射掛けるならばこの場所が一番だろう?』
その言葉に、その時ノーヴルはこう返した。
『一番効率の良い方法が、最良手とは限らない。それくらいは向こうも理解しています』
続けて。
『リスクを覚悟したならば、保険はかけておくものですから』

成る程、これは相手の保険か。
ウォルトは目を見張った。

やはり、シーザー・シルバーバーグは自策の弱点を把握していたのだろう。
もしも万一作戦を見抜かれ、万一対抗手段を用意されていた時の為に、そこまで気を回して要所に兵を待機させておいたのだ。
リスクを失くす為に。
シーザーの作戦を見抜いたなら必ず配置されるであろう弓兵部隊は近距離攻撃に弱い。発見されて叩かれればひとたまりもないのだ。森の中での混戦では殆ど無力。
出現地点さえ予測できれば、その付近にこちらも伏兵を置き警戒と警備をさせればよい。作戦の危険はあっさりと消滅し、心配が杞憂に終わったところで、それならばその保険は転用できる───高台から駆け下りる勢いを利用しての窪地の外の敵主戦力の霍乱、更には引き際のしんがり、追っ手へのけん制など、オールマイティに。
どちらに転んでも都合の良い配置の仕方だ。
これが、万全というものだろう。

もしも、その。
とてもとても、弓を射掛けるのに有利な、その場所に。
作戦の穴に気付いたなら、誰でも自信を持って、迷うことなく必ずそこに兵を潜ませるだろう高台の森に。

そこにノーヴルが伏兵を置いていたならば、この保険は本当に役に立った筈。

『どんな時も効率が良ければいいというものではない。開始1ターンでチェックメイトは不可能です』
だから、一見遠回りをしてみせる。
『クイーンは確かに有能だ。彼女が動けば場が動く。だから彼女は警戒される、彼女は常に、予測の外には動けない』
だから、最大能率を時には無視する。
『ナイトでもビショップでもルークでも、ポーンでも全く構わないのです。気付かず忍び寄るならば、キングの首は容易く取れる』
だから───

シーザー・シルバーバーグは作戦の成功を確信したのだろう。
だから万一のための保険の役割はもう必要がなく、部隊を盤上に出現させ機動力に変えた。
なんの手落ちも不備も見当たらない………普通ならば。

ノーヴルは、軽く手を振って見せた。

「少し遅い」

今度は躊躇わない。兵士は少々焦りすぎとも思える動作で、手にしていた札を勢いよく投げ上げた。

ごうっ
ぱんっ!!

空中に向かい放たれた、『踊る火炎の札』が昼なお明るい大輪の花を咲かせる。そして一緒に仕込んであった合図が破裂し、盛大な音を立てた。
火花が、ノーヴルとウォルト、それに兵士たちの頭上にちらちらと舞う。

直後、チェス盤が静まり返る。
その一瞬の空隙。

味方の伏兵は、高台の森の敵の伏兵から盆地を挟んだ向かいに現れていた。盆地の内部、そして敵は勿論、味方にも動揺が走る。
ノーヴルは、伏兵の存在を味方の大部分に知らせず、なおかつその部隊の正確な待機場所は当人達とウォルトにしか教えなかったからだ。

整然と並ぶ弓兵部隊。
その彼らの手には既に、ごうごうと燃え盛る火矢がつがえられていて。

───しかしその場所はやや詰めが甘いのではないか?
誰もがそう思ったことだろう。

何故そんな場所に切り札を配置するのか。
盆地に対し一応見下ろす形にはなっているが、森側とは違い窪地へのスロープが緩やか過ぎる。はっきりいえば、盆地の中からも魔法や弓ならば相手に対して充分に攻撃可能なのだ。
先制攻撃で火矢を放ったとしよう。しかしその炎は一瞬で敵を殲滅してくれるわけではない。間断なく火を広げることが肝心だが、第二射、よほど手際が良くても第三射までには敵の反撃が来る。結果、窪地は充分に焼けることはなく、完全殲滅は期待出来ない。そして勿論伏兵の方の被害も甚大になる。

セオリーの裏は掻いたのだろうが、味方まで巻き込んだ上での良手とはとても言えない。
それが、その配置場所を見たときの、盤上の駒たちの結論だった。

「───だが充分だな」

ノーヴルの呟きに、誰も注意は払わなかった。
それよりも、その時起こったことに目を奪われていたからである。

ひゅうっ

火矢第一射が降り注ぎ、窪地の中で悲鳴が上がったその瞬間。

どん

どん

どん

連鎖的に、爆音が響いた。


「!!」


まさか。
ウォルトの心臓が凍った。

確か。
確かこの男は、ウォルトに爆炎系の札を大量に集めさせたのだ。
兵士の攻撃力を高めるため、そう言って。
その札の割り振りなど、今まで気にも留めなかったが───

全て、囮として切り捨てる兵に持たせていたとしたら?

札は破壊されればその力を解放する。

「ああ…………!」

彼らが持つどれか一枚でも、燃えればよかったのか。


どおおおおおおおおん


窪地の中で、衝撃と炎が吹き上がった。
全ての人影が覆いつくされる。

「見えますか、主」

その炎は、一瞬だけ、ノーヴルの黒い髪すら赤く染めたように思えた。
ノーヴルは、す、と手を伸ばした。
黒手袋に包まれた指先を、高台の森に向ける。
流石にその森にまで火の粉は飛ばなかったらしい、敵の伏兵達は無傷である───茫然自失はしているが。

「あの森に生えているのは針葉樹ばかりです。木材にするため植樹したのでしょうね」
「は………?」

見当外れの話題に、ウォルトは思わず間抜けな声を上げた。
ノーヴルは構わず続ける。

「だが針葉樹だけでは、地に深く根を張ることは出来ません。土地を支えるには、程好く広葉樹と交じり合わねばならない」

札の暴発による衝撃。それと連動して、信じられない変化が起こった。
ず、ずずずず、と巨大で不穏な音が大地を覆う。

「能率や利用価値の高いものだけで全てを構成しようとするから───つまりこういうことになる」

まるでゆっくりと、冗談のように滑らかに、巨大な土の塊が崩れていく。
森を、その中の人を巻き込んで、茶色い流れが炎に蓋をしていく。

ノーヴルは、別段面白くもなさそうにこう締めくくった。



「あの辺りは、地盤が緩いのですよ」



あまりに一方的な、完璧な。
誰一人として助かる隙間もなく。

敵の本体、伏兵部隊、そして少数の囮。
全てが地面に飲み込まれた。




「───悪魔だ」

その光景に。その光景を作り出した男に。
思わずウォルトはそう呻いた。

ノーヴルは平然と答えた。


「いえ、軍師です」