傲慢な誘惑。










ジ、とランプの芯が耳障りな音を立てる。

ウォルトは、自分のデスクに肘をついて、両手で顔を覆っていた。
見事なまでにわかりやすい苦悩のポーズ。
しかし彼自身は別にそれを誰にアピールしようとしているわけでもなく、してどうにかなるわけでもなく、やはり感情の命じるとおりに体を動かせばこうなるのだ。

「……………」

溜め息すら吐く余裕もなく、心労が腑を重く責める。
これが、自身のだけの問題ならばこれほど悩みはすまい。事は自身の肩の上に載っているが、自身の眼下には彼の守るべき民たちがいる。

守らなければならないのだ。
負けてはならないのだ。
勝たなければならないのだ。
勝つことが必要なのだ。

ぐるぐると何度も堂々巡りする思考。

具体的な解決策は何一つとしてなく、自信はないがそれでも踏み出していかねばならぬ状況。暗い影が先を覆っていても。
ウォルトは低く呻いた。酒でもあおって忘れたいが、放棄することは出来ない。それが責任というものだ。

「ずいぶんとお困りのようだ」
「ひっ!!?」

突然降ってきた声に、ウォルトの肺が縮む。
思わず跳ねた筋肉が妙な風に作用し、椅子からずり落ちかけた。

確かにこの部屋には自分しかいなかった筈で。
思考を邪魔されないように鍵も掛けてあった筈で。

だから他人の声などかかるはずがないのだ。

背筋に悪寒を走らせつつ、ウォルトは折り曲げていた首を元に戻した。
すると、部屋の真ん中に、まるでそれが当然のような顔で長身の男が二人立っていた。

一人は真っ黒な神父服。これまた黒い山高帽を深くかぶって目を隠し、金髪を後ろでまとめている。長い手足を無造作に放り出すように、だらしなく斜めに立っていた。すっと通った鼻筋が、造作の端正さを端的に表している。
もう一人は、薄暗い部屋の中でもなお濃い、闇を凝縮したような黒髪をしていた。こちらを見下ろしてくるその瞳は、不十分な光量では確認し難いが深い緑色ではないかと推察する。やたらに複雑なデザインのコートを羽織り、スカーフを巻いていた。

声も出せずにまじまじと二人を凝視するウォルトに、神父服の方がからかうように口を開く。

「そんなに驚かずとも、取って食いはしないぞ?」

ぺろり、と赤い舌がその唇をなぞる。
───悪魔か、それに由来する禍々しいものだと、本気で思った。

唇がぐにゃりと曲げられ、その隙からとがった牙が見えたような気がした。
黒い神父服の内側でなにかがもぞりと蠢いたような。ウォルトの喉が引き攣れる。

「…………………」

白いコートの男が軽く手を上げ金髪の男を制した。
それを見て、悪戯に脅かされたのだとやっと理解する。

「済まないな。この男の事は空気だと思ってくれて良い。気を惹かなければ噛み付きはしない」

そう言いながらこちらに近寄ってきた男の目は、やはり暗緑色だった。
神父服は憮然とした顔を作り口を開きかけたが、思い直したように閉じて壁際に下がった。そのまま軽く腕組みをして、背を預ける。

「お、お前たちは」

やっとウォルトの喉が機能した。
問いかけとも思えない言葉が吐き出されただけではあったが、黒髪の男はウォルトの言いたいことを正確に把握しているようだった。

「怪しむなと言っても不可能だろうが、俺はお前の敵ではない。この部屋に現れたのは転移魔法を使ったからで、俺は普通の人間だ。何故ここに来たかは───」

男は一度言葉を切ると、艶やかな笑みを浮かべてウォルトに顔を近づけた。

その唇が吐息のように続きを吐き出した時、ウォルトはこう思い直した。
悪魔ではなく、夢魔か。

「お前の役に立つためか」

す、と優雅な動作で身を引くコートの男。黒髪が揺れる。
ウォルトは状況についていけず、間抜けに口と目を見開いた。

「悩みがあるのだろう?解決してやると言っている」
「解決───」

鸚鵡返しにウォルトは繰り返した。
この窮状から救ってくれるというのか?どうやって?

ウォルトはゆるく首を振った。見知らぬ男二人と密室にいる危機感など、既に薄れていた。
どうせ先に破滅しか待っていないのなら、悪魔にでも何でも、縋りたい気持ちではあったのだ。

しゃがれた声で、ウォルトはようやく意味のある言葉をつづることが出来た。

「………何が出来ると?」
「お前に勝利をやろう」

自信以前に確信が含まれた傲慢なその言葉。
ウォルトは操られるようにふらふらと席を立った。

平行に視線を合わせる。まだ若く、精気に満ちた年頃であるはずなのに、その男は何故かくすんで見えた。それは、魅力がないということには繋がらなかったが。
数秒の沈黙の後、ウォルトはゆるゆると首を振った。

「力なら必要ない、戦力は間に合っている………力では勝てない相手なんだ」
「他に何が必要だ?」
「相手に付け入る隙を与えぬ緻密な策」
「よくぞ言ったな」

コートの男は満足気に笑った。

「俺は軍師だ」
「………名は?」

魅入られたように、男から目が離せない。
半ば無意識に、ウォルトはそう問い返した。




「ノーヴル・ブライト・ペディグリ」




…………聞き覚えがない。

ふん、とウォルトは鼻で笑った。
沸き起こる苛立ちを押さえつけ、ひらひらと手を振ってみせる。

憑き物が落ちた気分だった。
ウォルトは余裕を取り戻し、皮肉に頬をゆがめる。

「は、駆け出しの若造か。ずいぶんと自身有り気だが、奴らが抱えている軍師の名を聞いても俺につく気になるかな?」
「聞こう」
「シルバーバーグだ。シーザー・シルバーバーグ」

シルバーバーグ家。

歴史の影には必ずその名が記される、策謀の一族の血統。
必ずこの時代を変え、操ることになるだろう恐るべき才覚。

さらり、と十二分に自制してその名を口にしながら、ウォルトは男の顔色が変わるのを待った。
何度も確認したことをもう一度繰り返してしまい、胃の中にまたなにか重い物が積もったが、努めて平静に押さえ込む。

だが黒髪の男は、期待に反しまるで動揺も見せずそのままだった。
その後ろで壁に寄りかかっている金髪の男にいたっては、先程のウォルトと同じように鼻で笑いさえした。そして呟く。

「くだらん」

黒髪の男───ノーヴルは、あからさまに眇めた目でウォルトを撫でた。
何か悪寒のようなものがウォルトの背筋を抜ける。

「名さえあれば信用するのか?」

ウォルトには答えられなかった。
まさか、軍師を志してシルバーバーグの名を知らぬものがいるとは考えられない。

ノーヴルは鷹揚に首を振って見せた。

「だがお前には、俺のこの名でも勿体無い」

なんという傲慢さか。
しかしノーヴルには不思議とそれが似合って見えた。

ゆらり、と神父服の男が壁から背を離す。ランプに照らされたその影が、ゆがんで蠢き視界に変化を与える。

「───お前に策を授けてやる」

す、とこちらに向かって腕が差し伸べられた。
黒い手袋に包まれたその手を、ウォルトは凝視する。

「勝ちたいならば俺を選べ」
「………………」

重い数秒間が過ぎる。
ぎくしゃくとした動きで、肩を上げ───ウォルトはその手を掴んだ。

ごくり、と喉が鳴る。
暗緑色の目が細められた。


「これで俺はお前の軍師だ」


ウォルトは、糸が切れたようにすとんと椅子に座り込んだ。

余韻もなく、ノーブルはウォルトに背を向けた。神父服の男に歩み寄る。
その足元に、音もなく金色の波が広がった。

何故かウォルトはそれを不思議がるだけの気力ももてないまま、ぐったりと椅子にもたれかかっていた。
これが全て夢だといわれても、自分は疑いなく信じるだろう。

最後に、ふとまだ聞いていなかったことを思い出した。

「何故、俺の味方を?」

不思議な金色の波に飲み込まれながら、そのノーヴルという男は振り返った。



「俺の力を欲するならば、理由はそれだけで良いさ」



そして、姿を消した。

ジ、と思い出したようにランプの芯が鳴った。